Ep51. 嫉妬という感情
嫉妬は、醜い。
前世の俺は、本気でそう考えていた。
他人と比較するから苦しくなり、分不相応に欲しがるから満たされなくなる。感情の収支が合わなくなるような無駄な労力は、知性ある人間が最も避けるべきものだと思っていた。
だから、俺はあまり嫉妬というものを知らずに生きてきた。少なくとも、自覚はしていなかった。俺には類まれな才能があり、積み上げた技術があり、それに見合う評価と結果もついてきていたからだ。満たされていた俺にとって、他人を羨む必要などどこにもなかったのだ。
……そのはずだった。
「オリヴィアー!」
家の外から、快活な声が響く。声の主は、近所に住む同年代の少年だ。
「遊ぼうぜ!」
その呼びかけに、俺の隣にいたオリヴィアがぱっと顔を上げた。
「あ、いま行くー!」
彼女は、弾けるような笑顔を見せる。心底嬉しそうに、何の迷いもなく。
その瞬間だった。
胸の奥が、妙に重くなった。
不快。いや、そんな単純な言葉では片付けられない、もっと粘ついた不純物が血管に混じったような感覚。心臓がざわざわと波立ち、落ち着きを失っていく。
「ルーク、ちょっと行ってくるね!」
オリヴィアが俺を振り返り、いつものように笑う。
だが、その笑顔が「俺以外」の誰かにも等しく向けられ、あるいは俺の知らない場所で、俺の知らない誰かと分かち合われるのだと想像した瞬間。胸の奥が、裂けるように強く痛んだ。
——ありえない。何を考えているんだ、俺は。
頭では理解している。オリヴィアには友達がいて、広い世界がある。彼女が俺だけを見ている方が不自然だし、そんな歪な関係は彼女の幸せを損なうだろう。
理屈では、分かっているのだ。
なのに、感情が少しも納得しない。
行くな。
どこにも行かず、ずっとここにいろ。
その瞳には、俺だけを映していればいい。
一瞬よぎったその傲慢な思考に、自分自身でぞっとした。
醜い。あまりにも。
相手の自由を奪い、自分だけの所有物として縛り付けようとする感情。独占欲。前世の俺が、最も軽蔑し、愚かだと切り捨ててきたはずの代物。それが、今の俺の胸の中には、確かな熱を持って脈動している。
「すぐ戻ってくるからね!」
そう言って、オリヴィアが俺の頭を優しく撫でた。
その手の温もりを感じた瞬間、先ほどまでの激しいざわつきが、嘘のように静まった。
……戻ってくる。その言葉一つに、安堵してしまっている自分がいる。
——終わっている。本当に、完全に。
俺は、オリヴィアという一人の少女の言葉一つ、仕草一つで、世界が左右されるほどに変貌してしまったのだ。
前世では決してあり得なかった。誰か一人の存在が、ここまで自分の価値観を塗り替え、支配することなど。
そこでようやく、俺は理解した。
嫉妬とは、「失いたくない」という恐怖の裏返しなのだ。
どうでもいい相手には、こんな泥のような感情は湧かない。彼女を求めているから苦しく、彼女が特別だからこそ、それを失う可能性に怯えるのだ。
……厄介だ。本当に。
人間という生き物は、誰かを愛するという感情を持った瞬間から、こんなにも不自由になる。
前世の俺が捨て去ったはずの「醜さ」が、今は何よりも重く、この胸に居座っていた。




