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Ep50. 帰る理由

前世の俺にとって、「帰る」という言葉は理解できないものだった。


家は、ただ寝る場所だった。


研究室は、作業をする場所だった。


そこに感情は存在しない。


疲れれば戻る。必要だから戻る。ただ、それだけだ。


「早く帰りたい」と思うこともなければ、「誰かが待っている」と考えたこともない。


前世の俺にとって、場所とは機能でしかなかった。


研究ができればどこでもよかった。眠れればそれで十分だった。家も、宿も、研究室も、全部同じだ。ただ用途が違うだけの空間に過ぎない。


だから昔の俺は、人が「帰りたい」と口にする意味が理解できなかった。


何に惹かれているのか。


なぜ急ぐのか。


どうして、そんな当たり前のように“帰る場所”を求めるのか。


理解できなかった。


……そのはずだった。


「ただいまー!」


勢いよく扉が開いた。


オリヴィアだった。


息を切らしている。きっと走って帰ってきたのだろう。頬が赤く染まり、少し乱れた髪を押さえながら、それでも彼女は真っ先に俺を探した。


そして、視線が合った瞬間。


ぱっと笑った。


その瞬間だった。


胸の奥が、じんわりと熱を持った。


安心した。


無事に帰ってきた、と。


ただそれだけのことなのに、肩の力が抜ける。


その感覚に気づいた瞬間、俺は軽く目を閉じた。


……認めたくなかった。


前世の俺なら、絶対に認めなかった感情だった。


他人一人に、ここまで感情を左右されるなど、あまりにも非合理的だ。


脆弱だ。


危険ですらある。


誰かがいることで安心し、誰かがいないことで不安になる。


そんなものは依存と変わらない。


昔の俺なら、そう切り捨てていた。


だが今の俺は違う。


オリヴィアが帰ってくる時間になると、無意識に耳を澄ませている。


扉の音を待っている。


足音を探している。


そして声を聞けば、安心する。


完全に変わってしまっていた。


気づかないふりは、もうできない。


「ルーク、聞いて聞いて!」


オリヴィアが椅子に座るより先に話し始める。


今日あった出来事を、興奮した様子で次々と口にした。


市場で子供とぶつかりそうになった話。


焼き菓子を少し焦がしてしまった話。


店先の犬に追いかけられた話。


本当にどうでもいい話ばかりだった。


前世の俺なら、途中で聞き流していただろう。


意味が薄い。


情報としての価値も低い。


生産性もない。


だが今の俺は、その話をちゃんと聞いていた。


適当に相槌を打っているわけではない。


本当に聞きたいと思っている。


彼女がどんな顔をして、どんな声で、どんな風に今日を過ごしたのか。


それを知りたいと思っている。


「それでね、犬から逃げようとして転びそうになって!」


「お前は昔から危なっかしいな」


「ひどい! ちゃんと逃げ切ったのに!」


「そこは褒めるところか?」


「褒めてよ!」


くだらない。


本当に。


だが、不思議と嫌ではなかった。


むしろ、この時間が心地いい。


オリヴィアの話を聞きながら、俺はぼんやりと思う。


ああ、と。


これが“帰る”ということなのか、と。


帰りたい理由は、場所ではない。


人だ。


会いたい相手がいる。


顔を見たい相手がいる。


声を聞きたい相手がいる。


だから帰りたくなる。


その人がいる場所が、“帰る場所”になる。


前世の俺には、それがなかった。


だからどこにいても同じだった。


研究室でも、家でも、宿でも。


全部ただの空間だった。


誰も待っていない。


誰にも会いたいと思わない。


だから、どこにも意味がなかった。


……空っぽだったのだ。


今なら分かる。


昔の俺は、ずっと空っぽだった。


研究だけがあった。


成果だけを追っていた。


だが、それを誰かと共有したいと思ったことはない。


成功しても、自分一人で完結していた。


失敗しても、一人で抱え込んでいた。


そこには人がいなかった。


だから、温度がなかった。


「ルーク?」


不意に、頬をつつかれた。


気づけば、オリヴィアが不思議そうな顔でこちらを見ていた。


「ねむい?」


「違う」


「じゃあ何考えてたの?」


少し考えてから、俺は答えを飲み込んだ。


おそらく、正直に話しても彼女にはうまく伝わらない。


いや、伝わったとしても、きっと笑われる。


だから俺は短く返した。


「……少し昔のことをな」


「ふーん?」


オリヴィアは深く追及せず、すぐに別の話を始めた。


今日見つけた綺麗な花の話。


新しく覚えた料理の話。


近所の猫が懐かなかった話。


次から次へと話題が飛んでいく。


まとまりがない。


結論もない。


だが、それが不快ではない。


むしろ、その意味のない会話が妙に心を落ち着かせる。


前世では理解できなかった感覚だった。


人は、意味だけで生きているわけではない。


効率だけを求めて生きているわけでもない。


無駄な会話。


意味のない時間。


なんでもない日常。


そういうものの積み重ねが、人間を人間にしているのかもしれない。


「ルーク、聞いてる?」


「ああ」


「絶対半分くらいしか聞いてないでしょ」


「聞いてる」


「ほんとに?」


「猫が懐かなかった話だろ」


「……聞いてた」


少し悔しそうに唇を尖らせるオリヴィアを見て、思わず笑いそうになる。


こんな風に笑うことも、前世の俺にはほとんどなかった。


笑う必要がなかったからだ。


感情は判断を鈍らせる。


研究には不要だ。


ずっとそう考えていた。


だが今は違う。


嬉しいと思う。


安心すると感じる。


もっと話を聞いていたいと思う。


そういう感情が自然に湧いてくる。


そして、その変化を俺自身が一番理解できていない。


変わった。


あまりにも。


別人と言っていいほどに。


前世の俺が今の俺を見たら、きっと呆れるだろう。


非合理的だと切り捨てるだろう。


だが、それでも思ってしまう。


悪くない、と。


むしろ。


空っぽだった頃より、ずっといい。


もちろん怖さもある。


失えばどうなるのか、と考えてしまう。


もしオリヴィアがいなくなったら。


この温度を知ってしまったあとで、再び空っぽに戻れるのか。


きっと無理だ。


知ってしまったものは、消えない。


誰かを待つ感覚を。


帰りたいと思う感覚を。


声を聞くだけで安心する感覚を。


もう知ってしまった。


だからこそ怖い。


失う痛みを想像できてしまうからだ。


前世の俺は、その恐怖から逃げていたのかもしれない。


最初から誰も必要としなければ、失うこともない。


感情を持たなければ傷つかない。


そうやって、自分を守っていた。


だが、それは同時に、自分を空っぽにしていたのだろう。


温度のない人生。


誰もいない部屋。


成果だけを積み上げる日々。


確かに効率的だった。


合理的だった。


だが、そこには何も残らなかった。


今なら分かる。


人は、一人では“帰る”を持てない。


誰かがいるから。


待ってくれる相手がいるから。


帰りたいと思える。


「ルーク?」


「なんだ」


「なんか今日、変」


「そうか?」


「うん。難しい顔してる」


オリヴィアはそう言って、また俺の頬をつついた。


柔らかい指先の感触。


それだけで、不思議と心が静かになる。


俺は小さく息を吐いた。


そして、自然と口を開いていた。


「……いや」


「うん?」


「帰ってきてくれて安心しただけだ」


言った瞬間、オリヴィアが目を丸くした。


数秒遅れて、顔が赤くなる。


「な、なに急に……!」


「事実だ」


「そ、そういうこと普通に言うのずるい!」


「ずるい?」


「ずるい!」


意味が分からない。


だが、オリヴィアはなぜか慌てながら視線を逸らしていた。


その反応を見ていると、胸の奥が少し温かくなる。


……本当に変わった。


昔の俺では考えられない。


だが、嫌ではない。


むしろ、この温度を失いたくないと思っている自分がいる。


空っぽのままでいるより。


失うかもしれない温度を抱えている方が、きっといい。


不安はある。


怖さもある。


それでも。


誰かがいることで帰りたくなる場所が生まれるのなら。


それは、たぶん。


人間らしいということなのだろう。

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