Ep06. 試すのは、いつも自分だ
人を信じる、という行為は。
極めて非合理的だ。
裏切られる可能性がある。
損をする可能性がある。
期待した分だけ、失望も大きくなる。
それなら最初から、信じなければいい。
——前世の俺は、そう結論づけていた。
そして実際、その理屈で困ったことはなかった。
少なくとも、生きている間は。
◇ ◇ ◇
朝。
目を覚ますと、まず感じるのは温度だ。
寒いか、暖かいか。
それだけで、世界の評価は大きく変わる。
今日は——少しだけ、暖かい。
理由は明確だ。
バーバラが、俺を抱いているからだ。
寝たまま。
浅い呼吸で。
完全に眠り込んでいる。
昨夜、いつ戻ってきたのかは知らない。
だが、戻ってきたことだけは確かだ。
それだけで、評価は変わる。
——戻ってきた。
たったそれだけの事実が。
妙に重い。
◇ ◇ ◇
バーバラの手は荒れている。
指先は乾き、ところどころ切れている。
爪も整っていない。
美しくはない。
前世の俺なら、まずそう評価する。
だが。
その手は、今、俺を包んでいる。
逃がさないように。
落とさないように。
力加減は不安定だが、それでも。
守るための手だ。
◇ ◇ ◇
「……ん」
バーバラが目を覚ます。
一瞬、ぼんやりとした表情。
状況を理解するまで、わずかな時間がある。
そして。
「あ……ルーク」
すぐに、意識が戻る。
自分が何を抱いているのか。
何を守っているのか。
それを確認して、少しだけ安心したように息を吐く。
「よかった……」
何がだ。
何が“よかった”のか。
説明はない。
だが、わかる気がした。
——ここにいること。
それだけだ。
◇ ◇ ◇
非合理だ。
あまりにも非合理だ。
いるかどうか、それだけで安心するなど。
確認するだけで満足するなど。
効率も、生産性もない。
だが。
それでも。
その非合理な行動が、繰り返されている。
毎日。
毎回。
例外なく。
◇ ◇ ◇
ならば。
検証するしかない。
これは本当に、価値のない行動なのか。
それとも。
俺が理解できていないだけなのか。
——試す。
そう決めた。
◇ ◇ ◇
「ルーク、おはよう」
バーバラが微笑む。
まだ少し眠そうな顔で。
それでも、無理にでも笑おうとしている。
俺はそれを見て。
ほんの一瞬、躊躇った。
そして。
「……ぁ」
声を出す。
泣き声ではない。
呼びかけでもない。
ただの音。
だが。
今までとは、少しだけ違う。
意図して出した音。
◇ ◇ ◇
「……え?」
バーバラが止まる。
わずかに目を見開く。
反応。
明確な反応。
いい。
観測可能だ。
俺はさらに続ける。
「……ぁ、あ」
今度は少し長く。
視線も合わせる。
逸らさない。
まっすぐに見る。
◇ ◇ ◇
「ルーク……?」
声が震える。
わずかに。
本当にわずかにだが。
だが確かに、変化している。
呼び方が変わる。
音の強さが変わる。
呼吸の間が変わる。
——反応がある。
◇ ◇ ◇
なるほど。
これが“返答”か。
言葉にならないやり取り。
意味を持たない音の交換。
それでも成立する関係。
非効率だ。
あまりにも非効率だ。
だが。
完全に無意味とは言えない。
◇ ◇ ◇
「……ふふ」
バーバラが笑う。
小さく。
静かに。
だが。
今までで一番、自然な笑い方だった。
作ったものではない。
貼り付けたものでもない。
ただ、漏れたような笑い。
それを見て。
俺は——。
◇ ◇ ◇
……どうでもいい。
そう思おうとした。
ただの反応だ。
ただの条件反射だ。
赤子の音に対する、母親の反応。
そこに特別な意味などない。
そう、切り捨てようとした。
だが。
ほんの少しだけ。
本当に、ほんの少しだけ。
思ってしまった。
——悪くない。
◇ ◇ ◇
すぐに、その考えを否定する。
甘い。
判断が甘い。
これはまだ検証段階だ。
結論を出すには早い。
データが足りない。
事例も不足している。
何より。
これは単発の現象だ。
再現性がなければ、意味がない。
◇ ◇ ◇
だから。
もう一度。
「……ぁ」
同じことをする。
同じ音。
同じ視線。
同じ条件。
結果はどうなる。
◇ ◇ ◇
「……ルーク」
今度は、すぐに反応が返ってきた。
さっきよりも早い。
さっきよりも強い。
そして。
さっきよりも——嬉しそうだった。
◇ ◇ ◇
再現性あり。
結果は安定。
仮説は一部成立。
——なるほど。
◇ ◇ ◇
人を信じる、という行為は。
極めて非合理的だ。
だが。
完全に無意味ではない。
少なくとも。
この程度の“やり取り”なら。
リスクは低い。
コストも低い。
得られる反応は、予測可能。
——ならば。
◇ ◇ ◇
利用できる。
◇ ◇ ◇
その結論に至った瞬間。
胸の奥に、わずかな違和感が残った。
何だ、これは。
不快ではない。
だが、すっきりもしない。
説明できない感覚。
分類不能のノイズ。
——無視する。
そう判断した。
◇ ◇ ◇
「いい子ね、ルーク」
バーバラが言う。
また、その言葉だ。
いい子。
便利で、曖昧で、軽い言葉。
だが。
今は少しだけ、違って聞こえた。
◇ ◇ ◇
俺はまだ、人を信じない。
信じる理由がない。
信じる必要もない。
だが。
試すことはできる。
観測することはできる。
検証することはできる。
それで十分だ。
今は、それでいい。
◇ ◇ ◇
試すのは、いつも自分だ。
他人ではない。
世界でもない。
神でもない。
——俺だ。
ルーク・E・オリバー。
前世でも、今世でも。
結局のところ。
一番信用できない被験体は——俺自身だった。




