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Ep05. 軽蔑は簡単で、理解は難しい

人はなぜ他人を軽蔑するのか。


 理由は単純だ。


 楽だからだ。


 理解するより、切り捨てる方が圧倒的に早い。

 分析するより、断定する方が圧倒的に軽い。


 ——ああいう人間だ。


 そう一言で済ませれば、そこで思考は終わる。


 終われば、傷つかない。

 終われば、関わらなくて済む。


 だから俺は、軽蔑を選んできた。


 母に対しても、同じように。


   ◇ ◇ ◇


 昼。


 バーバラは外に出る準備をしていた。


 いつもより、少しだけ身なりを整えている。


 髪をまとめ、薄く化粧をしている。

 安物だが、それでも何もしないよりはましに見える程度には整えていた。


 俺はそれを見て、理解した。


 ——男だ。


 前世の記憶が、勝手に補完する。


 こういうときの彼女は、決まってそうだった。

 どこかへ行き、誰かと会い、何かを得て帰ってくる。


 金か。

 食料か。

 あるいは、別の何かか。


 どちらにせよ、俺の好む形ではない。


 軽蔑の対象として、十分すぎる行動だ。


   ◇ ◇ ◇


「ルーク、いい子にしててね」


 そう言って、バーバラは俺を布の中に寝かせる。


 簡易的な揺りかご。

 古びた布と木枠でできた、最低限のものだ。


 鍵はかけない。

 かけられないのか、かける必要がないと思っているのか。


 どちらでもいい。


 重要なのは、俺が一人になるということだ。


 無防備に。


 完全に。


 前世の俺なら、ありえない状況だった。


 だが今は、それが当たり前だ。


「すぐ戻るから」


 そう言って、彼女は出ていった。


 ——すぐ。


 その言葉を、俺は信用しない。


 前世で何度も裏切られてきた言葉の一つだ。


 すぐ戻る。

 あとで。

 大丈夫。


 どれも同じだ。

 曖昧で、責任のない、便利な嘘。


   ◇ ◇ ◇


 時間が経つ。


 どれくらいかはわからない。

 赤子の時間感覚は相変わらず曖昧だ。


 だが、わかることがある。


 ——寒い。


 そして。


 ——腹が減った。


 単純な欲求。

 だが強烈だ。


 理性を削る。

 思考を鈍らせる。


 これが生物か、と妙に納得する。


 人間も所詮は肉体に縛られた存在だ。

 いくら理屈を積み上げても、空腹ひとつで崩れる。


 前世の俺は、それを軽視していた。


 愚かだ。


 だが。


 だからといって。


 この状況が許容できるかと言えば、話は別だ。


「……ぁ」


 声が出る。


 弱い。

 自分でも驚くほど弱い。


 もっと強く泣けばいい。

 それが赤子の正しい行動だ。


 だが。


 躊躇った。


 泣いても、意味がない可能性がある。


 誰もいないのだから。


 無駄な行動は避けるべきだ。


 合理的に考えれば、そうなる。


 だが。


 合理的であることと、生き延びることは、必ずしも一致しない。


「……あ、ぁ……」


 結局、俺は泣いた。


 小さく。

 断続的に。


 無駄だと理解しながら、それでも。


   ◇ ◇ ◇


 どれくらい経ったか。


 扉の向こうで、声がした。


「だからさぁ、ああいう女は——」


 男の声。


 知らない声だ。


「でも、子供がいるんでしょ?」


 別の声。

 女か。


「だから何? 余計たち悪いじゃん。ああいうの」


 笑い声。


 軽い。

 そして、遠慮がない。


 その内容も。


 ——ああいう女。


 その一言で、すべてを済ませている。


 説明も、事情も、背景もない。


 ただの断定。


 軽蔑。


 俺が使ってきた言葉と、同じ種類のものだ。


   ◇ ◇ ◇


 扉が開く。


 バーバラが入ってきた。


 息が少し荒い。

 急いで戻ってきたのだろう。


 だがその顔には、笑顔が貼り付いていた。


 不自然な笑顔。


 どこか歪んでいる。


「ただいま、ルーク」


 声は明るい。


 だが、少しだけ震えている。


 俺はそれを、見た。


 見えてしまった。


   ◇ ◇ ◇


 彼女は袋を置く。


 中には、パンと、少しの野菜。


 昨日より、明らかに多い。


 成果だ。


 何かを得てきた結果。


 その代価が何かは、想像できる。


 そして。


 想像したくなかった。


「ほら、今日は少し豪華だよ」


 バーバラはそう言って笑う。


 さっきと同じ笑顔。


 だが違う。


 さっきよりも、少しだけ固い。


 少しだけ、無理をしている。


   ◇ ◇ ◇


 軽蔑するのは、簡単だ。


 ——ああいう女だ。


 そう言えばいい。


 それで終わる。


 思考は停止し、感情は守られる。


 楽だ。


 実に楽だ。


 だから前世の俺は、そうしてきた。


 だが。


 今の俺は。


 その言葉を、口にできなかった。


 口に出せないのは当然だ。

 赤子なのだから。


 だが、そういう問題ではない。


 心の中でさえ。


 完全には、断定できなかった。


   ◇ ◇ ◇


 なぜなら。


 さっきの声を、聞いてしまったからだ。


 ——ああいう女。


 あの言葉。


 あの軽さ。


 あの雑さ。


 あれは、俺だ。


 前世の俺が、使っていた言葉だ。


 同じ口調で。

 同じ温度で。

 同じ軽さで。


 他人を切り捨てていた。


   ◇ ◇ ◇


「……ルーク?」


 バーバラが俺を抱き上げる。


 温かい。


 少しだけ冷えた体が、また温まる。


 その温度は、昨日と同じだ。


 変わらない。


 何も。


 変わっていない。


 変わっていないのに。


 俺の中だけが、少しだけ変わっていた。


   ◇ ◇ ◇


 軽蔑は簡単だ。


 だが。


 理解は、難しい。


 理解するには、見なければならない。


 聞かなければならない。


 考えなければならない。


 そして。


 自分の中の何かを、壊さなければならない。


 面倒だ。


 非効率だ。


 まったく合理的ではない。


 ——それでも。


   ◇ ◇ ◇


 俺は目を閉じる。


 バーバラの胸の中で。


 昨日と同じように。


 だが、少しだけ違う気持ちで。


 完全には理解しない。


 完全には許容しない。


 それでいい。


 それが今の限界だ。


 だが。


 少なくとも。


 前みたいに、何も見ずに切り捨てることだけは——。


 もう、できない気がした。

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