Ep04. 母という他人
母親、という存在を定義せよ。
そう問われたなら、前世の俺は迷わず答えただろう。
——信用に値しない他人。
血縁など関係ない。
生んだという事実は、育てたという実績とは別だ。
愛情など、言葉にすればいくらでも偽装できる。
だから俺は、母を母として認めなかった。
ただの同居人。
それ以下でも、それ以上でもない存在。
それが、バーバラ・C・オリバーだった。
——はずだった。
◇ ◇ ◇
朝。
という概念は赤子にもある。
正確には、光と音と温度の変化によって、世界が「切り替わる」感覚だ。
窓の隙間から差し込む光。
遠くで鳴く鳥の声。
そして。
「……寒い」
小さな呟き。
バーバラの声だった。
俺は目を開ける。
視界はまだ曖昧だが、それでもわかることがある。
部屋が暗い。
魔灯が消えている。
暖炉にも火はない。
つまり——寒い。
俺の体温が低下しているのも、そのせいだ。
赤子にとって、温度は命に直結する。
寒さは敵だ。
だがその敵に対して、俺は何もできない。
無力。
完全な無力。
前世では想像もしなかった状態だ。
俺は魔術で体温を調整できたし、環境を変えることもできた。
だが今は違う。
ただ震えるしかない。
「……ごめんね、ルーク」
バーバラが言う。
謝罪。
誰に向けて?
俺に。
なぜ?
寒いから。
そんなことで?
そんなことで、謝るのか。
理解できない。
理解できないが。
その声には、妙な重さがあった。
軽い謝罪ではない。
言葉だけの形式でもない。
何か、別のものが混ざっている。
◇ ◇ ◇
バーバラは立ち上がった。
ふらついている。
足元が危うい。
睡眠不足か。
栄養不足か。
あるいはその両方か。
彼女は棚を開ける。
中身は少ない。
パンが一つ。
干し肉が少し。
そして——何もない空間。
空白が目立つ。
貧しさというのは、物の数ではなく、空白の多さで測れる。
俺はそれを知っている。
知っていて、無視してきた。
「……」
バーバラはパンを手に取る。
少し固い。
新しいものではない。
それを見て、ほんの一瞬だけ、彼女は動きを止めた。
迷ったのだろう。
食べるか、残すか。
自分が食べるか、俺のために残すか。
その逡巡は、ほんの一秒にも満たなかった。
だが。
俺には、それがやけに長く感じられた。
「……大丈夫」
誰に言っているのか。
自分にか。
それとも、俺にか。
バーバラはパンを半分に割る。
いや、正確には割ろうとする。
だが上手くいかない。
力が足りない。
指が滑る。
結果として、少し歪な形でちぎれる。
大きい方と、小さい方。
どちらを取るか。
普通なら考えるまでもない。
だが彼女は、迷わなかった。
小さい方を、自分の口に。
大きい方を、皿に。
そしてそれを、俺のそばに置いた。
意味がわからない。
赤子はパンを食べない。
消化できない。
歯もない。
咀嚼もできない。
それでも彼女は、そこに置いた。
まるで——。
まるで、俺が食べる存在であるかのように。
◇ ◇ ◇
理解できない行動だった。
合理性がない。
効率も悪い。
結果にも結びつかない。
なのに。
なぜか、無視できなかった。
俺はそのパンを見つめる。
硬そうだ。
味も大したことはないだろう。
だが。
それは確かに、「選ばれた側」だった。
大きい方。
多い方。
より価値のある方。
それが、俺に与えられている。
なぜだ。
なぜそんな無駄なことをする。
前世の俺なら、こう言う。
——効率が悪い。
——無意味だ。
——馬鹿げている。
そして、その通りだと思う。
今でも思う。
だが。
それだけでは、説明がつかない。
◇ ◇ ◇
「ルーク、寒いよね」
バーバラが俺を抱き上げる。
腕が冷たい。
だが、抱き方は優しい。
不器用だが、乱暴ではない。
彼女は俺を自分の胸に押し当てる。
体温。
人間の熱。
それが、じわじわと伝わってくる。
暖炉の火よりも弱く。
だが、確実にそこにある熱。
俺は動けない。
逃げることも、拒むこともできない。
ただ、その熱を受け取るしかない。
「すぐに暖かくするからね」
そう言って、バーバラは自分の上着を俺にかける。
古い布。
ところどころ擦り切れている。
だが、暖かい。
そして。
彼女自身は、さらに寒くなる。
当たり前だ。
布を奪われたのだから。
合理的ではない。
明らかに非効率だ。
自分が倒れれば、俺も困る。
長期的に見れば、むしろ損失だ。
そんなことは、少し考えればわかる。
わかるはずなのに。
彼女は、それをやる。
迷いなく。
当然のように。
まるでそれが、正しい行為であるかのように。
◇ ◇ ◇
俺は思考する。
分析する。
分類する。
これは何だ。
自己犠牲か?
違う。
そこまで劇的なものではない。
習慣か?
違う。
毎回同じ行動ではない。
義務か?
違う。
誰に強制されているわけでもない。
では何だ。
何と呼べばいい。
どう定義すればいい。
前世の知識を総動員しても、適切な言葉が見つからない。
いや。
ひとつだけある。
あるが。
俺はその言葉を、使いたくなかった。
使えば、すべてが変わってしまう気がしたから。
だが。
それでも。
他に当てはまる言葉がない。
だから、仕方なく。
俺はその言葉を、心の中でだけ呟いた。
——愛情。
◇ ◇ ◇
その瞬間。
強い拒絶反応が起きた。
気持ち悪い。
吐き気がする。
ありえない。
こんなものを愛情と呼ぶのか。
こんな不完全で、非合理で、無駄だらけの行動を。
これが愛情?
冗談だろう。
こんなものが愛情なら、愛情など信用に値しない。
——と。
そう切り捨てることは、簡単だった。
前世の俺なら、そうした。
迷いなく。
ためらいなく。
断定的に。
だが。
今の俺は。
ほんの少しだけ、迷った。
◇ ◇ ◇
なぜなら。
その非合理な行動によって。
俺は、確かに暖かかったからだ。
それは事実だ。
否定できない。
分析も不要な、単純な現象。
寒かった体が、温まっている。
それだけ。
それだけのことが。
妙に重い。
妙に否定しづらい。
理屈で切り捨てるには、実感が邪魔をする。
実感を無視するには、理屈が足りない。
中途半端だ。
非常に中途半端だ。
だが。
その中途半端さが、今の俺にはちょうどよかった。
◇ ◇ ◇
「ルーク……」
バーバラが俺の名前を呼ぶ。
その声は、小さい。
消えそうなくらい小さい。
だが、確かにそこにある。
俺はその声を聞きながら、目を閉じる。
暖かい。
寒くない。
それだけで、思考が鈍る。
赤子の身体は正直だ。
快適な環境では、余計なことを考えないようにできている。
合理的だ。
実に合理的な設計だ。
人間も、もう少し単純にできていればよかったのに。
そうすれば、こんな面倒なことにはならなかった。
だが。
面倒だからこそ、人間なのかもしれない。
そんな、らしくないことを思った。
俺は眠りに落ちる。
意識が沈む直前。
最後にひとつだけ、思った。
母親とは、他人だ。
それは変わらない。
血が繋がっていようと、理解できない部分は必ずある。
価値観も、思考も、すべて同じにはならない。
だから。
だからこそ。
完全に切り捨てるには——。
少しだけ、惜しい気がした。




