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Ep03. 優しさは毒にもなる

結論から言おう。


 無理だった。


 俺は泣いた。


 見事に、盛大に、そして無様に。


 計画は破綻した。


 実験は失敗した。


 被験体ルーク・E・オリバー(生後数ヶ月)は、外部刺激に対して依然として感情制御が未熟であり、環境適応能力に重大な欠陥を抱えている。


 ——要するに。


 赤子は赤子だった。


   ◇ ◇ ◇


「ルークー、来たよー」


 オリヴィアの声。


 軽い。


 明るい。


 遠慮がない。


 そして、逃げ場がない。


 俺はその瞬間、思った。


 ——やめてくれ。


 いや、違う。


 やめてくれ、ではない。


 やめろ、だ。


 命令形。


 拒絶の完成形。


 だが当然ながら、その意思は声にならない。


「今日はね、いいもの持ってきたの」


 いいもの。


 その言葉ほど信用できないものはない。


 いいものは、たいていろくでもない結果を連れてくる。


 前世で何度も学んだ。


 新薬。


 新術式。


 新しい関係。


 すべて“いいもの”として提示され、最後には何かを壊した。


 だから俺は、いいものが嫌いだ。


 ——にもかかわらず。


「じゃーん」


 オリヴィアが取り出したのは、小さな布の人形だった。


 歪な形。


 不揃いな縫い目。


 色もばらばらで、明らかに素人仕事だ。


 美しくない。


 完成度も低い。


 だが。


「私が作ったの」


 そう言って笑うその顔は、妙にまっすぐだった。


 ああ、なるほど。


 理解した。


 これは“いいもの”ではない。


 これは“気持ち”だ。


 だから厄介だ。


   ◇ ◇ ◇


「ルークにあげる」


 やめろ。


 やめろと言っている。


 そんなものを俺に渡すな。


 受け取る理由ができる。


 返す義務が発生する。


 関係が生まれる。


 面倒が増える。


 俺はそういうのを、避けてきた。


 徹底的に。


 計画的に。


 効率的に。


 なのに。


「ほら」


 差し出される。


 逃げ場はない。


 赤子の俺には、拒否権がない。


 あるのはせいぜい、泣くか、無視するか、受け取るか。


 三択。


 どれも負けだ。


 だが。


 だが、その中でも一番マシなのはどれだ。


 俺は一瞬で計算した。


 泣く→相手を傷つける+関係悪化

 無視→伝わらない+関係継続(悪化の可能性)

 受け取る→関係発生+将来的負債


 ……どれも最悪だ。


 だが。


 今この瞬間の被害が最も少ないのは——。


「……ぁ」


 俺は手を伸ばした。


 いや、正確には、伸びてしまった。


 反射か。


 あるいは。


 ほんの少しだけ、俺の意思か。


 指先が布に触れる。


 柔らかい。


 温かい。


 そして。


 やけに軽い。


 命がないもののはずなのに、なぜか存在感がある。


「やった、受け取ってくれた!」


 オリヴィアが笑う。


 その笑顔を見た瞬間。


 俺の中で、何かがズレた。


   ◇ ◇ ◇


 ——優しさは毒になる。


 前世の俺はそう結論づけていた。


 なぜなら、優しさは対価を求めるからだ。


 無償に見えて、有償。


 無意識に見えて、計算済み。


 人は優しくすることで、自分が優しい人間であることを確認する。


 つまり優しさとは、自己満足の一種だ。


 そう理解していた。


 だから俺は、優しさを信用しなかった。


 受け取らなかった。


 拒絶した。


 その方が楽だったから。


 だが。


 今。


 俺の手の中にあるこれは、何だ。


 見返りを求めているようには見えない。


 完成度は低い。


 価値もない。


 売れば銅貨一枚にもならないだろう。


 それでも。


 オリヴィアは、これを“あげる”と言った。


 なぜだ。


 理由がわからない。


 理解できない。


 理解できないものは、不気味だ。


 怖い。


 だから。


 だから俺は。


「う、ぁ……あああああああああああああああああああああ!」


 泣いた。


 全力で。


 さっきまでの決意など、紙より軽く吹き飛んだ。


   ◇ ◇ ◇


「えっ、えっ!? どうしたの!?」


 オリヴィアが慌てる。


 当然だ。


 さっきまで受け取ったはずの赤子が、急に泣き出したのだから。


 理不尽だ。


 説明不能だ。


 だがそれが俺だ。


 俺という人間は、そういうものだ。


「ご、ごめんね……? これ、嫌だった?」


 違う。


 違うが、違うとも言えない。


 嫌だ。


 正確には、怖い。


 理解できないものが怖い。


 理解できない感情が怖い。


 だから拒絶する。


 それだけの話だ。


 だがそれを説明する手段はない。


 結果として残るのは、ただの泣き声だけだ。


「……」


 オリヴィアはしばらく黙った。


 その沈黙は、前回よりも重かった。


 空気が変わる。


 軽かったはずの空間が、少しだけ沈む。


 ああ。


 やってしまった。


 これは明確な失敗だ。


 関係構築どころか、関係破壊の一歩手前。


 前世と同じ。


 いや、前世よりひどい。


 なぜなら今回は、意図せずやっている。


 無意識の加害。


 それが一番質が悪い。


「……そっか」


 オリヴィアが小さく言った。


 その声は、妙に落ち着いていた。


 さっきの慌てた声とは違う。


 受け入れた声だ。


 何を?


 拒絶を。


「ごめんね、びっくりさせちゃったね」


 違う。


 謝るな。


 悪いのは俺だ。


 そう言いたい。


 だが言えない。


 言えないから、何も変わらない。


 何も伝わらない。


「これはね、ここに置いておくね」


 オリヴィアはそう言って、人形を俺のそばに置いた。


 取り上げない。


 押し付けない。


 ただ、そこに置く。


 選択を、残す。


 それがどういう意味を持つのか。


 俺には、まだ完全には理解できなかった。


   ◇ ◇ ◇


 オリヴィアが帰った後。


 部屋は静かになった。


 バーバラは外に出ている。


 俺は一人だ。


 正確には、赤子一人。


 だが中身は一人ではない。


 前世から続く俺と、生まれ直そうとする俺が、同じ頭の中で騒いでいる。


 うるさい。


 実にうるさい。


 だがその中で、ひとつだけ。


 妙に静かなものがあった。


 視線。


 俺の視線は、自然とその人形に向いていた。


 歪な人形。


 不格好な縫い目。


 左右で長さの違う手足。


 明らかに失敗作だ。


 だが。


 それでも。


 そこにある。


 俺のそばに。


 俺のために作られたものとして。


 そこにある。


 俺は手を動かした。


 ゆっくりと。


 本当にゆっくりと。


 まるで毒物に触れるかのように。


 指先が、人形に触れる。


 柔らかい。


 さっきと同じ感触。


 だが今度は、少しだけ違って感じた。


 温度があるような気がした。


 もちろん気のせいだ。


 布に体温はない。


 魔術的な加工もされていない。


 ただの布切れだ。


 それでも。


 俺はそれを、握った。


   ◇ ◇ ◇


 優しさは毒になる。


 それは間違っていない。


 だが。


 毒にも種類がある。


 即効性の毒。


 遅効性の毒。


 そして。


 少しずつ体を変えていく毒。


 俺はその日、初めて思った。


 もしかすると。


 優しさは、毒ではなく——。


 薬なのかもしれない。


 もちろん。


 用法用量を間違えれば、簡単に毒に変わる。


 それでも。


 それでも。


 俺はまだ、その判断ができない。


 できないから。


 とりあえず。


 握ったままにしておくことにした。


 人形を。


 そして。


 まだ名前のつかない、この感情を。

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