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Ep02. 善人ごっこは性に合わない

人間は変われるか。


 という問いは、実に無責任だ。


 変われると答える者は、変わらなかった人間の死体を見ていないか、見ないふりをしている。変われないと答える者は、たまたま自分が変われなかっただけで、他人の可能性まで否定している。


 どちらも信用ならない。


 だから俺は、自分で試すことにした。


 被験体は一名。


 ルーク・E・オリバー。


 年齢、生後数ヶ月。


 前世、性格最悪。


 現世、改善予定。


 ——予定は未定、とはよく言ったものだ。


   ◇ ◇ ◇


 まず前提として、赤子は無力である。


 これは覆しようのない事実だ。


 どれだけ思考が成熟していようと、筋肉は裏切るし、骨は柔らかいし、声帯は未完成だ。世界は常に自分より大きく、重く、速い。


 この状態で「人に愛される人生」を目指す。


 目標設定としては悪くない。むしろ合理的だ。愛される赤子ほど生存率が高いのだから。


 だが問題はそこではない。


 問題は、俺の内面だ。


 愛される、という現象に対する嫌悪感。


 これが想像以上に厄介だった。


   ◇ ◇ ◇


「ほら、ルーク。いい子ね」


 バーバラは俺を抱きながら、何度もそう言う。


 いい子。


 便利な言葉だ。


 泣かないからいい子。笑ったからいい子。乳を吐かないからいい子。寝るからいい子。


 基準が曖昧で、評価が軽い。


 だがその軽さが、どうにも居心地が悪い。


 俺はいい子ではない。


 それは俺が一番よく知っている。


 なのにいい子だと言われると、訂正したくなる。


 訂正できないから、苛立つ。


「ぁ……」


 声にならない声を出す。


 これは反論だ。


 少なくとも、俺の中では。


 だがバーバラはそれを違う意味で受け取る。


「あら、お腹すいたの?」


 違う。


 話を聞け。


 いや、聞けないのは当然か。俺が話せないのだから。


 会話とは、双方向の奇跡だ。


 前世の俺は、それを軽視していた。


 言葉は道具であり、情報伝達の手段であり、相手を操作するための装置でしかないと思っていた。


 だが今は違う。


 言葉がない。


 伝えられない。


 誤解される。


 その連続だ。


 ——不便だ。


 そして、少しだけ。


 ほんの少しだけ。


 寂しいと思った。


   ◇ ◇ ◇


 数日後。


 オリヴィアがまた来た。


「ルークー」


 遠慮のない声だ。


 距離感が近い。


 俺はこのタイプが苦手だった。


 いや、嫌いだったと言ってもいい。


 境界線を踏み越えてくる人間は、例外なく面倒を運んでくる。好意という名の圧力。善意という名の干渉。拒否すれば悪者、受け入れれば侵食。


 だから俺は、そういう人間を避けてきた。


 ——はずだった。


「今日も来ちゃった」


 オリヴィアは笑う。


 来るな。


 と言いたい。


 だが言えない。


 代わりに俺は、目を逸らした。


 赤子なりの最大限の拒絶表現。


 視線の回避。


 これなら伝わるかもしれない。


「……あれ?」


 オリヴィアは首を傾げた。


 いいぞ、そのまま気づけ。


 俺はお前を歓迎していない。


 だから帰れ。


 そう念じる。


 だが。


「眠いのかな?」


 違う。


 まったく伝わっていない。


 どころか、むしろ距離が縮まった。


 オリヴィアは俺の顔を覗き込み、さらに近づく。


 近い。


 顔が近い。


 呼吸がかかる距離だ。


 これはもう、戦術的失敗と言っていい。


 俺は別の手段を試すことにした。


 泣く。


 赤子の最終手段。


 不快を訴える最も原始的な方法。


「う、ぁ……ああああああああああああああああああああああああ!」


 全力で泣いた。


 喉が裂けるほどに。


 肺が潰れるほどに。


 魔術的な制御など一切なしの、純粋な生理的叫び。


 これならどうだ。


 さすがに察するだろう。


「わっ、ごめんね!」


 オリヴィアは慌てて距離を取った。


 よし。


 勝利だ。


 俺は泣きながら、内心でガッツポーズを決めた。


 コミュニケーション成功。


 手段はともかく、目的は達成した。


 人間は学習する生き物だ。


 赤子でも、それは変わらない。


   ◇ ◇ ◇


 ——と、思っていた。


「嫌われちゃったかな……」


 オリヴィアは小さく呟いた。


 その声は、さっきまでの明るさを失っていた。


 ほんの少しだけ、沈んでいる。


 俺は泣くのをやめた。


 やめてしまった。


 なぜなら、その声が。


 予想していなかった種類の音だったからだ。


 これは、何だ。


 悲しみか?


 落胆か?


 たったそれだけのことで?


 いや、たったそれだけではないのかもしれない。


 人間にとって、拒絶というのは小さな刃だ。


 目に見えないが、確実にどこかを傷つける。


 俺はそれを、よく知っている。


 知っていて、使ってきた。


 何度も。


 何度も。


 何度も。


 だから。


 だからこそ。


 今さら気にする必要はないはずだ。


 ないはずなのに。


 なぜか。


 ほんのわずかに。


 胸の奥が、引っかかった。


「……ぁ」


 俺は声を出した。


 さっきとは違う、弱い音。


 呼び止めるような。


 引き留めるような。


 そんな音。


「え?」


 オリヴィアが顔を上げる。


 俺は手を動かそうとした。


 だが動かない。


 赤子の手は思ったより言うことを聞かない。


 だから代わりに、視線を向けた。


 さっき逸らした視線を、今度は戻す。


 まっすぐに。


 オリヴィアを見る。


 それだけだ。


 それだけなのに、やけに疲れる。


 視線を合わせるという行為が、こんなにも重いものだったとは知らなかった。


「……ルーク?」


 オリヴィアが近づく。


 さっきと同じ距離。


 同じ位置。


 だが今回は、さっきほど不快ではなかった。


 いや、不快は不快だ。


 だが、それだけではなかった。


 分類しきれない感情が混ざっている。


 これはなんだ。


 同情か?


 罪悪感か?


 あるいは。


 ——理解しようとする意思か。


「また来てもいい?」


 オリヴィアが聞く。


 馬鹿な質問だ。


 赤子に許可を取るな。


 来たければ来ればいい。


 来るなと言われても来るのが人間だろう。


 そう思った。


 思ったが。


 なぜか。


 なぜか俺は。


「……ぁ」


 と、短く声を出した。


 肯定とも否定とも取れる、曖昧な音。


 逃げの返答。


 前世の俺が最も嫌っていたタイプの反応。


 だが今の俺には、それが精一杯だった。


「ふふ、また来るね」


 オリヴィアは笑った。


 さっきの沈んだ声は、もう消えていた。


 切り替えが早い。


 あるいは、深く考えていないのか。


 どちらでもいい。


 ただひとつ確かなのは。


 俺は、完全には拒絶しなかった、ということだ。


   ◇ ◇ ◇


 その日の夜。


 俺は眠れなかった。


 赤子は基本的に眠る生き物だ。


 だが例外もある。


 思考がうるさいときだ。


 前世の記憶というノイズは、時に睡眠すら邪魔する。


 オリヴィアの顔が浮かぶ。


 笑顔。


 落胆。


 そして、また笑顔。


 単純な変化。


 だがその単純さが、俺には理解しづらい。


 なぜ、あんなに簡単に立ち直る。


 なぜ、あんなに簡単に他人に近づく。


 なぜ、あんなに簡単に——好意を向けられる。


 俺にはできなかった。


 できなかったから、切り捨てた。


 最初から期待しなければ、失望もしない。


 最初から距離を取れば、裏切られない。


 そうやって生きてきた。


 それが正しいと思っていた。


 今でも、間違いだとは思っていない。


 合理的だ。


 効率的だ。


 無駄がない。


 だが。


 その結果が、あの死だ。


 誰にも看取られず。


 誰にも惜しまれず。


 誰にも記憶されないまま、消えた。


 それを良しとするか。


 それとも。


「……ぁ」


 俺は小さく息を吐いた。


 赤子の呼吸は浅い。


 だが思考は深い。


 不釣り合いだ。


 だがそれが、今の俺だ。


 善人ごっこは、性に合わない。


 それは間違いない。


 だが。


 だからといって、以前と同じやり方を繰り返すのは——。


 もっと性に合わない気がした。


 俺は目を閉じる。


 暗闇の中で、ひとつだけ決める。


 大げさな誓いではない。


 人生を変えるような決意でもない。


 もっと小さくて、も4と現実的な目標。


 次にオリヴィアが来たとき。


 俺は——泣かないでみよう。


 それだけだ。


 それだけのことだ。


 だが、俺にとっては。


 前世では一度も選ばなかった選択だった。

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