Ep01. 俺は俺として生まれ直した
死ぬ、というのは案外うるさい。
もっと静かなものだと思っていた。
雪が積もるように、夜が降りるように、灯火がふっと細くなるように、命というものは終わるのだと、俺は勝手に思っていた。
いや、正確には、そうであってほしかった。
だが実際は違った。
骨は軋み、血は沸き、魔力は悲鳴を上げ、神経は焼けた弦みたいに震え続けた。身体の内側で雷が暴れ、臓器という臓器が自分の所有権を放棄していく。
俺の名はルーク・E・オリバー。
医魔術師。
天才。
最低の男。
そしてその日、俺は自分の天才に殺された。
◇ ◇ ◇
「……成功、するはずだった」
俺は崩れ落ちる実験台に片手をつきながら、焼け焦げた喉でそう呟いた。
研究室の床には魔法陣が走っていた。赤、青、白、黒。色とりどりの術式光が絡まり合い、まるで祝祭のリボンのように乱れている。
祝っているのだろうか。
俺の死を。
それとも嘲っているのだろうか。
俺の失敗を。
どちらでも構わない。どうせ祝福と嘲笑など、聞く側の機嫌でしか変わらないものだ。
医魔術の究極。
魂魄連結による肉体再構成。
死にかけた肉体を、死ぬ前の状態へ戻す術。
もし完成すれば、俺は歴史に名を刻んだだろう。
いや、名を刻むどころではない。歴史の方が俺に膝をつく。王も、神官も、老いた魔術師どもも、俺の前に列をなす。命を乞うために。若さを乞うために。奇跡を乞うために。
そのはずだった。
なのに。
術式は暴走した。
魔力炉は逆流し、魂魄固定陣は砕け、俺の身体は内側から解体されていく。
笑えない冗談だ。
医魔術師が、自分の身体ひとつ治せないとは。
「……くそ」
俺は罵った。
誰を?
世界を。
術式を。
己を。
あるいは、俺をここまで育てたすべてを。
俺は誰にも愛されなかった。
誰も信じなかった。
信じる価値のある人間など、この世にはいなかった。
女は嘘をつく。男は裏切る。親は子を飾りにし、師は弟子を道具にし、友は友のふりをした敵でしかない。
だから俺は、誰よりも強くなった。
誰にも頼らず、誰にも縋らず、誰も必要としない男になった。
その結果がこれか。
床に這いつくばり、血反吐を吐きながら死ぬ。
なんとも立派な人生だ。
涙は出なかった。
後悔もなかった。
ただ、胸の奥にひとつだけ、棘のように残ったものがある。
もし。
もし、もう一度。
もう一度だけ人生をやれるなら。
俺は——。
◇ ◇ ◇
息ができない。
最初にそう思った。
肺が空気を欲している。だが吸い方がわからない。喉が狭い。舌が重い。首が動かない。手足は頼りなく震え、目は霞み、世界は滲んだ水彩画のように輪郭を失っていた。
なんだ、これは。
俺は生きているのか?
ありえない。
あの術式暴走で、肉体は崩壊したはずだ。心臓も、肺も、魔力核も、すべて破裂寸前だった。自己修復など不可能。再生術式も間に合わない。
ならばここは死後の世界か。
ずいぶん不便な死後だ。
視界が低い。身体が動かない。声が出ない。
「……ぁ」
出た。
いや、出てしまった。
それは声ではなかった。言葉ですらなかった。意味を失った音。理性の敗北。知性の屈辱。
赤子の泣き声だった。
俺は硬直した。
いや、身体は最初からろくに動かなかったが、精神が硬直した。
赤子?
誰が?
俺が?
ふざけるな。
俺はルーク・E・オリバーだ。王立医魔術院の最年少主任。七つの禁術を再定義し、三十六の難病に治療式を与えた男。寝室の女の名前は忘れても、人体の神経網なら暗唱できる男。
その俺が。
赤子?
笑えない。
笑えないが、笑うための口もまだ育っていない。
そのとき、誰かが俺を抱き上げた。
乱暴ではない。
けれど不慣れな手つきだった。
温かい腕。
安っぽい香水。
少し汗の匂い。
そして、聞き覚えのある声。
「ルーク……私の子……」
世界が止まった。
霞んだ視界の向こうに、女の顔があった。
若い。
記憶よりずっと若い。
頬は痩せ、目元には疲れがある。だが、その瞳だけはやけに濡れていた。悲しみなのか、安堵なのか、愛情なのか、俺には判別できない。
判別したくもなかった。
バーバラ・C・オリバー。
俺の母親。
俺が、この世で最初に軽蔑した女。
◇ ◇ ◇
母、という言葉には不思議な魔力がある。
温もり。
慈しみ。
無償の愛。
そんな綺麗なものを連想する者もいるのだろう。
幸せな連中だ。
俺にとって母とは、いつも違う男の匂いをまとって帰ってくる女だった。
俺を置いて出かける女。
俺の空腹より、自分の口紅を気にする女。
近所の女たちに陰口を叩かれ、それでも笑っていた女。
節操のない女。
弱い女。
愚かな女。
俺はそう思っていた。
いや、思っている。
なのに。
その女は今、俺を抱いて泣いていた。
「よかった……ちゃんと泣いてる……よかった……」
馬鹿なことを言う。
泣いているのではない。呼吸器官が未熟なだけだ。肺胞の展開に伴う反射反応だ。新生児の発声など、感情表現以前の生理現象にすぎない。
そう説明してやりたかった。
だが俺の口から出たのは、
「ぁ、あ……」
という、情けない音だけだった。
屈辱だ。
この俺が、説明も反論も罵倒もできない。
言葉を奪われるとは、こういうことか。
人間から刃を取り上げれば手が残る。手を奪えば歯が残る。歯を奪えば視線が残る。
だが言葉を奪われた俺には、何も残らなかった。
ただ、抱かれるしかない。
ただ、生かされるしかない。
ただ、母と呼ばれる女の胸の中で、赤子として息をするしかない。
これが罰なら、ずいぶん趣味が悪い。
これが奇跡なら、ずいぶん性格が悪い。
神というものがいるなら、きっと俺に似ているのだろう。
◇ ◇ ◇
それから数日、俺は状況の整理に努めた。
努めた、などと言うと聞こえはいいが、実際には寝て、泣いて、乳を飲まされ、排泄し、また寝るだけだった。
人間の尊厳というものは、布一枚より薄い。
赤子になって初めて知った。
まず第一に、ここは俺の生家だ。
貧しい木造の家。薄い壁。雨漏りの跡。魔灯は古く、暖炉はよく煙る。記憶の中の家と同じだった。
第二に、俺はルークとして生まれている。
名前も同じ。母も同じ。おそらく父親不明なのも同じ。
第三に、これは別人への転生ではない。
俺は俺として、もう一度生まれた。
人生の巻き戻し。
あるいは再演。
舞台も役者も同じで、脚本だけが白紙に戻された。
馬鹿げている。
だが、魔術的には完全に否定できない。
あのとき俺が試みた魂魄連結術は、肉体の時間情報に干渉するものだった。暴走によって魂魄が過去の肉体情報へ引き戻された可能性はある。
もちろん、理論としては穴だらけだ。穴だらけどころか穴そのものだ。穴に名前をつけて理論と呼んでいるようなものだ。
だが現実に俺はここにいる。
赤子として。
母の腕の中に。
ならば認めるしかない。
俺は死んだ。
そして、俺は生まれた。
俺は俺のまま、俺をやり直すことになった。
◇ ◇ ◇
「ルーク、いい子ね」
バーバラはよくそう言った。
いい子。
俺が?
笑わせる。
俺ほどいい子から遠い赤子もいないだろう。中身は三十を越えた傲慢な医魔術師。女を泣かせ、同僚を蹴落とし、患者を症例として眺め、感謝の言葉より治療成果を愛した男。
だが赤子の皮を被っているだけで、人は俺を無垢だと思う。
無垢。
なんと便利な誤診だ。
医者としてなら失格だが、人生としては悪くない。
俺はバーバラの顔を見上げた。
彼女は疲れていた。
いつも疲れている。
目の下には薄い影があり、髪は乱れ、指先は荒れている。だが俺を抱くときだけ、わずかに表情を緩めた。
その顔を、俺は知らなかった。
前世の記憶にあるバーバラは、もっと派手で、もっと軽薄で、もっと嫌な女だった。
だが今の彼女は、ただの若い母親に見えた。
頼りなくて、不器用で、今にも壊れそうな。
だからこそ腹が立った。
そんな顔をするな。
そんな顔をされると、俺の憎しみの置き場がなくなる。
俺がずっと握りしめてきた軽蔑が、ただの勘違いだったみたいになる。
それは困る。
非常に困る。
人間は、嫌う相手を必要とする。
憎しみは便利だ。理由になる。鎧になる。孤独を正当化する免罪符になる。
俺は母を嫌うことで、自分が愛されなかった理由を説明してきた。
母が悪かった。
環境が悪かった。
世界が悪かった。
だから俺は、他人を信じない人間になったのだと。
だがもし、母が最初から俺を捨てていなかったのだとしたら。
もし、俺が見ていたものが真実のすべてではなかったとしたら。
俺は何を憎めばいい?
誰のせいにすればいい?
「……ぁ」
俺は小さく声を漏らした。
バーバラはそれを聞いて微笑んだ。
「なあに、ルーク。お腹すいた?」
違う。
そうじゃない。
俺はただ、少しだけ怖くなったのだ。
◇ ◇ ◇
生後何日目かはわからない。
赤子の時間感覚はひどく曖昧だ。眠りと覚醒の境界が溶け、昼と夜が混じり、世界は乳と布と腕の温度に分解される。
その日、家に女が来た。
近所の女だ。
名前は確か、ブロック夫人。前世ではほとんど記憶にない。俺にとって近所の人間など、背景に生えた雑草と大差なかったからだ。
「あらまあ、可愛い子」
ブロック夫人は俺を覗き込み、遠慮のない声を上げた。
その後ろから、小さな少女が顔を出した。
金に近い薄茶の髪。
丸い瞳。
頬に残る幼さ。
オリヴィア・ニーナ・ブロック。
名前を思い出すのに少し時間がかかった。
前世の俺にとって、彼女は近所にいた明るい少女、という程度の存在だったはずだ。いや、もっと関わりがあったのかもしれない。だが俺は覚えていない。
覚えていないということは、俺にとって重要ではなかったということだ。
前世の俺は、そうやって人間を分類していた。
利用価値がある者。
邪魔な者。
どうでもいい者。
その三種類で十分だった。
「赤ちゃん?」
オリヴィアが言った。
「そうよ。バーバラさんの赤ちゃん。ルークくん」
「ルーク」
彼女は俺の名前を繰り返した。
ただそれだけなのに、妙に耳に残った。
オリヴィアはおそるおそる俺に近づき、小さな指で俺の手に触れた。
反射的に、俺の指が彼女の指を握った。
赤子の把握反射。
俺の意思ではない。
断じてない。
「あっ、握った!」
オリヴィアは花が咲くように笑った。
大げさな娘だ。
ただの反射だ。
魔術でも奇跡でもない。
だが彼女は嬉しそうだった。
まるで俺が、彼女を選んだみたいに。
「ルーク、よろしくね」
よろしく。
その言葉の意味を、俺は知っている。
関係の始まりに置かれる、薄っぺらい儀礼。
人はよろしくと言いながら、簡単に裏切る。よろしくと言いながら、簡単に忘れる。よろしくと言いながら、簡単に他人を傷つける。
だから俺は、そんな言葉を信じない。
信じないはずだった。
なのに。
彼女の指を握ったまま、俺はなぜか手を離せなかった。
いや、離せなかったのは赤子の身体のせいだ。
そうに決まっている。
そうでなければ困る。
◇ ◇ ◇
夜。
雨が降っていた。
屋根を叩く音が、薄い部屋の中に滲んでくる。
バーバラは俺のそばで眠っていた。椅子に座ったまま、首を傾け、疲れ切った顔で。
布団に寝ればいいものを。
馬鹿な女だ。
そう思った。
そう思ってから、俺はその言葉の軽さに気づいた。
馬鹿な女。
俺は何度、その言葉で母を切り捨ててきただろう。
事情も知らず。
理由も聞かず。
ただ見えるものだけを見て。
見たいものだけを見て。
俺は母を裁いた。
そして裁くことで、自分を守った。
雨音が続いている。
世界が洗われているような音だった。
だが、洗われたところで汚れが消えるとは限らない。泥は薄く広がるだけかもしれない。罪も、後悔も、性根の悪さも、雨くらいで流れてくれるほど安くはない。
俺はいい人間ではない。
それは知っている。
生まれ直したところで、魂まで新品になるわけではない。赤子の身体に入ったところで、俺の中身は俺のままだ。
傲慢で。
卑屈で。
臆病で。
他人を見下さなければ、自分の価値を保てない男。
愛されたいと願いながら、愛されることを疑う男。
人を信じたいと口にする前に、人を試そうとしてしまう男。
それでも。
それでも、もし。
もう一度だけ人生をやれるなら。
今度こそ。
俺は、あの日の続きを変えられるだろうか。
母を憎む前に、母を見ることができるだろうか。
差し出された手を、計算せずに握ることができるだろうか。
患者を症例ではなく、人間として見られるだろうか。
誰かに愛されるためではなく、誰かを愛するために、生きられるだろうか。
わからない。
わからないが。
わからないことを、今度はすぐに切り捨てないでおこうと思った。
それくらいなら、赤子の俺にもできる。
「……ぁ」
俺は声を出した。
バーバラが目を覚ます。
「ルーク?」
彼女は眠そうな顔で、けれどすぐに俺を抱き上げた。
「大丈夫よ。ここにいるからね」
ここにいる。
そんな言葉を、前世の俺は一度も信じなかった。
信じなかったから、聞こえなかった。
聞こえなかったから、存在しないものだと思っていた。
俺は彼女の胸元で目を閉じる。
鼓動が聞こえた。
不規則で、頼りなくて、温かい音。
それは魔術ではなかった。
奇跡でもなかった。
ただの、人間の音だった。
俺はその音を聞きながら、心の中で誓った。
今度こそ。
俺は、人に愛される人生を歩む。
たとえ俺が、俺のままだとしても。
たとえ俺が、どうしようもなく俺だったとしても。
それでも——俺は、俺をやり直す。




