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Ep229. 泉になる前の少女

『旧種別』


『人間』


 保存盤に浮かんだ文字を。


 誰も。


 すぐには理解できなかった。


「ネイが」


 ノアが呟く。


「人間だった?」


「五百年以上前」


 俺は答える。


「名前は」


「ネイラ」


 中央の泉。


 最初から泉だったわけではない。


 一人の子ども。


 その過去を。


 ナエルが。


 三百年以上。


 封じ続けていた。


「どうして」


「泉になったの?」


 リアが尋ねる。


「分からない」


 ダグラスが。


 保存盤を見る。


「身体が魔力へ変わったのか」


「魂が水脈へ定着したのか」


「今の記録だけでは判断できん」


 王都にも。


 五百年前の詳細な資料は残っていない。


 だから。


 ナエルを起こすしかない。


 ただし。


 その前に。


 ネイが過去へ飲み込まれない準備が必要だった。


「今のネイへ」


「戻る言葉を作る」


 俺は言った。


「名前」


 リア。


「約束」


 バーバラ。


「朝」


 オリヴィア。


「待つ」


 ゲイル。


「笑い」


 リア。


「自分」


 ノア。


「皆」


 俺。


 七つ。


『ネイ』


『約束』


『朝』


『待つ』


『笑い』


『自分』


『皆』


 過去が戻っても。


 今までのネイを。


 消さないための。


 帰還点。


   ◇ ◇ ◇


 二日後。


 第零研究室では。


 ナエル用の保存核も完成した。


『人格保存核』


『安定率』


『九十六』


 準備は整った。


 食卓を模した媒介層。


 鳥肉の煮込み。


 俺。


 ノア。


 エレナ。


 そして。


 ネイ。


『今日』


「うん」


『ナエル』


「起こす?」


 青い影が。


 少し揺れる。


『怖い』


「止めてもいい」


 長い沈黙。


『起こす』


「自分で決めた?」


『うん』


「理由は?」


『私が』


『誰だったか』


『知りたい』


 なら。


 進む。


「ナエル」


 ネイが呼ぶ。


『起きて』


 すぐには。


 返事がない。


 やがて。


 深い水の底から。


 女の声。


『……駄目』


「ナエル?」


『ネイラ』


 ネイの影が。


 震える。


『私は』


『ネイ』


 すぐに。


 訂正した。


 今の自分を。


 守るように。


『そう』


『今は』


『そう名乗るのね』


 ナエルの声は。


 優しい。


 でも。


 悲しかった。


「ネイは」


「過去を知りたいって」


 俺は言う。


『知らなくていい』


「それを決めるのは」


「ナエルじゃない」


 沈黙。


『知れば』


『壊れる』


「だから」


「保存核も」


「帰還点も」


「用意した」


『それでも』


 ネイが。


 自分から言う。


『知りたい』


 ナエル。


 長く。


 答えなかった。


 やがて。


『分かった』


『今度は』


『あなたに選ばせる』


 保存核が光る。


『ナエル人格』


『分離開始』


 その瞬間。


 封じられていた記憶が。


 開いた。


   ◇ ◇ ◇


 夜。


 大雨。


 濁流。


 小さな村。


 赤い布を身につけた。


 幼い少女。


「ネイラ」


 誰かが呼ぶ。


 その周囲。


 大人たち。


 祈る声。


『水の怒りを』


『鎮めてください』


 次の瞬間。


 少女は。


 水へ投げ込まれた。


「生贄……」


 ノアが息を呑む。


 ネイラは。


 暗い水の中へ沈む。


『お母さん』


 岸。


 泣いている女。


 母。


 だが。


 助けられない。


 ネイラは。


 水底へ沈み。


 そこで。


 巨大な自然魔力へ触れた。


 身体。


 魂。


 水。


 混ざる。


 死ぬはずだった少女は。


 死ななかった。


 代わりに。


 身体を失った。


 意識だけが。


 広大な地下水脈へ。


 残った。


「これが」


「中央の泉の始まり」


 エレナが呟く。


 ネイラは。


 長い時間。


 一人。


『お母さん』


『誰か』


 声は届かない。


 やがて。


 地上の人間の声を聞く。


 近づきたい。


 ただ。


 それだけで。


 水を地上へ押し上げた。


 村は。


 洪水に襲われる。


 そこへ。


 一人の若い神官が来た。


 ナエル。


「聞こえる?」


 初めて。


 直接。


 話しかけた人。


『聞こえる』


「一緒に」


「下へ戻ろう」


『嫌』


「どうして?」


『一人』


 ナエルは。


 しばらく黙り。


 そして。


「なら」


「私も一緒に行く」


 泉へ。


 自ら入った。


   ◇ ◇ ◇


 長い時間。


 ナエルは。


 ネイラへ歌を歌った。


 話した。


 笑った。


 だが。


 ナエルは人間。


 歳を取る。


「ネイラ」


『何』


「私は」


「もう長くない」


『嫌』


「ごめん」


『嫌!』


 ナエルが。


 死ぬ。


 その瞬間。


 ネイラは。


 彼女を。


 手放せなかった。


『消えないで!』


 魂を。


 水へ。


 つなぎ止める。


 人格を。


 保存する。


 中央の泉が。


 人を離さなくなった。


 最初の瞬間。


『ネイラ』


 泉の中で。


 ナエルが目を覚ます。


『何をしたの』


『消えそうだった』


『だから』


『残した』


『私は』


『死んだの』


 ネイラは。


 答えられない。


『離して』


『嫌』


『ネイラ』


『嫌!』


 ナエルは。


 泣いた。


 そして。


 決めた。


『この子は』


『まだ耐えられない』


 生贄にされた記憶。


 母に助けてもらえなかったこと。


 自分が人間だったこと。


 ナエルを。


 死なせずに。


 閉じ込めたこと。


 全部。


 封じる。


『私も』


『眠る』


 ネイラは。


 名前を失った。


 過去を失った。


 ただの。


 泉として。


 残った。


   ◇ ◇ ◇


 記憶が終わる。


 食卓へ。


 戻る。


 ネイの姿は。


 青い水の影ではなかった。


 幼い少女。


 赤い布。


 小さな鈴。


『私』


 震える声。


『捨てられた』


「うん」


 俺は。


 否定しなかった。


『お母さん』


『助けなかった』


「助けられなかった」


『人間』


『嫌い』


 水が。


 揺れる。


「俺も?」


 ネイが止まる。


「ノアは?」


『違う』


「母さんは?」


『違う』


「リア」


『違う』


「ゲイル」


『違う』


「じゃあ」


「皆同じ?」


 少女は。


 長く。


 黙る。


『違う』


「過去は本当」


「でも」


「今も本当」


 俺は。


 壁の言葉を見る。


「ネイ」


『ネイ』


「昔は?」


『ネイラ』


「今は?」


『ネイ』


「約束」


『守る』


「朝」


『来る』


「待つ」


『できる』


「笑い」


『良い』


「自分」


『私』


「皆」


 少女が。


 周囲を見る。


『いる』


「うん」


 戻れた。


 過去を。


 思い出しても。


 今のネイは。


 消えなかった。


   ◇ ◇ ◇


「ナエル」


 エレナが。


 呼ぶ。


 分離は。


 ほぼ終わっていた。


『ネイ』


 ナエルの声。


『ごめんなさい』


『あなたの記憶を』


『勝手に奪った』


 ネイは。


 すぐには答えない。


『怒ってる』


『うん』


『でも』


『怖かった』


『私も』


 ナエル。


 泣く。


『あなたが』


『壊れると思った』


『勝手に決めた』


『うん』


『ごめんなさい』


 許す。


 とは。


 言わない。


 それでいい。


『出て』


 ネイが言った。


『いいの?』


『うん』


 最後の光が。


 保存核へ移る。


『ナエル人格』


『中央泉より分離』


『保存核へ定着』


 ネイは。


 一人になる。


 でも。


 昔の一人とは違う。


「ナエルとは」


「また話せる」


『また?』


「うん」


『消えない?』


「関係は」


「形が変わるだけ」


 ネイ。


 少し。


 考える。


『良い』


   ◇ ◇ ◇


 媒介層を切る。


「ルーク!」


 現実。


 母の声。


「名前!」


「ルーク・E・オリバー」


「ノア!」


「ノア」


「ネイ!」


「ネイ」


「昔!」


「ネイラ」


「今!」


「ネイ」


「大丈夫」


 目を開く。


 薬師小屋。


 皆。


 いる。


 保存盤。


『中央泉意識』


『自己名称』


『ネイ』


『旧人格記憶』


『統合』


『自己安定率』


『九十一』


 過去を。


 受け入れた。


 それでも。


 今の自分を。


 維持している。


『ナエル人格』


『安定率』


『九十三』


 ナエルも。


 消えていない。


 そして。


『中央泉構造安定率』


『百』


「百……」


 ノアが呟く。


 三十二年前の。


 アルバートとの融合。


 三百年前の。


 ナエル。


 五百年前の。


 ネイラ。


 全部。


 自分の中で。


 区別できた。


 その結果。


 中央の泉は。


 初めて。


 完全に安定した。


 さらに。


 表示。


『中央泉』


『根構造』


『自動停止開始』


 第一。


 第二。


 第三。


 人間へ。


 勝手につながるための道。


『人間接続機能』


『不要と判断』


『第一根』


『消失進行』


『第二根』


『消失進行』


『第三根』


『解体準備』


「ネイが」


 俺は呟く。


「自分で」


「根を消してる」


 誰かに。


 封じられるのではない。


 ネイ自身が。


 もう。


 人を閉じ込めなくていいと。


 選んだ。


 そして。


 最後。


『第三鍵機構』


『不要』


『廃棄処理開始』


 俺。


 泉主。


 前世。


 今世。


 三つの生を一つにして。


 中央の泉を開く。


 その仕組み。


 それすら。


 ネイ自身が。


 必要ないと判断した。


 俺は。


 胸へ手を置く。


 ずっと。


 俺の人生に。


 つきまとっていた。


 第三鍵。


 その運命を。


 泉自身が。


 終わらせようとしていた。


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