Ep216. 水面の向こうの女
井戸の水面に広がった波紋は、一瞬で消えた。白衣の女性の姿も、もうそこには映っていない。ついさっきまで確かにあったはずのものが、まるで最初から存在しなかったかのように、静かな水面だけが残されていた。
「見えた?」
俺が聞くと、ノアはゆっくりと頷いた。しばらく考えるように黙り込んでから、ぽつりぽつりと言葉を継ぐ。
「銀色の髪。笑ってた」
「エレナ?」
「たぶん」
だが、確信はない。父の資料で見たのは名前だけで、顔までは知らない。銀髪の女性というだけなら、他にも該当する人物がいないとは限らなかった。
「幻?」とノアに聞くと、彼女は首を横に振った。
「違うと思う。魔力の残り方が、泉と違う」
「違う、って?」
「怖くない」
泉主の気配は冷たい。近づくだけで身体が拒絶するような、あの独特の圧を俺も何度か感じたことがある。だが今の水面から伝わってくるものは、それとはまるで違う質だった。誰かがただこちらを見ていた——それだけの、静かな感覚。敵意も殺意も感じられない、むしろ観察するような視線だった。
「戻ろう」
「うん」
二人で薬師小屋へ戻ろうとした、その時だった。井戸の底から小さな音が響いた。
——カラン。
何かが石に当たったような、澄んだ音。
「まだ何かある」
俺は井戸を覗き込んだ。水は普通に澄んでいて、底まで見通せる。その中央に、銀色に光る小さな筒が沈んでいた。
「何だ?」
物音を聞きつけたゲイルが駆け寄ってくる。
「底に何かある」
「取れるか?」
「浅い。水が戻ったばかりだから、水位はまだ低い」
ゲイルが桶を下ろし、数分後には小さな金属の筒が引き上げられた。
「濡れてない」
ノアが呟いた通り、確かにその筒は乾いていた。水の中に沈んでいたはずなのに、まるでたった今そこに置かれたばかりのような乾き方をしている。ゲイルが慎重に蓋を回して開けると、中には一枚の紙が折り畳まれていた。短い文章が記されている。
『迎えは済んだ』
『次は』
『入口で待つ』
署名はない。だが紙の端には、三本枝の紋章が刻まれていた。第零研究室の印だ。
「向こうも、こちらを見てる」
ゲイルが低い声で言った。
「王都へ行くことを知ってる」
「まだ誰にも伝えてない」と俺は首を横に振る。「セオドアにも日程は話してないんだ」
なのに迎えだの、入口で待つだのと書いてある。こちらの動きが、既に読まれているとしか思えなかった。
「内通者?」
ノアが小さく呟いた言葉に、その場の全員が黙り込んだ。王都にも、村にも、どちらにも情報を流せる誰かがいる——そう考えるのは自然な流れだったが、誰もそれを口に出したくはなかったのだろう。
「決めつけるな」
ダグラスが割って入るように言った。
「泉の流路を利用している可能性もある」
「第三流路、ってことか?」
「あるいは、別の観測術式かもしれん」
父の研究、第零研究室——俺たちがまだ知らない技術が、どこかに残っているということだ。誰か特定の人間を疑う前に、確かめるべきことは他にもある。そう自分に言い聞かせながらも、胸の奥にざらついた不安が残った。
◇ ◇ ◇
その夜、薬師小屋の食卓には、久しぶりに家族全員が顔を揃えた。鳥肉の煮込み、温かいパン、野菜のスープ。湯気の立つ料理が並ぶだけで、いつもより部屋全体が明るく見える。
「約束通り、鳥肉です」
バーバラが笑いながら言う。
「ちゃんと、塩も薄くないですよ」
一口食べると、じんわりとした温かさが体に広がった。前世では味なんて気にしたこともなかったのに、今はこうして誰かの作った料理を美味しいと感じられることが、不思議と嬉しかった。
「おいしい」
自然に言葉がこぼれ出た。バーバラは少し照れたように笑う。
「良かった」
「母さん」
「何です?」
「ありがとう」
急に言われて、母は少し驚いた顔をした。
「今日はどうしたんですか」
「言いたかったんだ、ずっと」
「そうですか」
母はそれ以上何も聞かず、ただもう一度、柔らかく笑った。その光景を、セラが静かな目で見つめていた。
「羨ましい?」
リアが尋ねる。
「少し。お母さんのこと、あまり覚えてないから」
リアも小さく頷いた。
「私も。少ししか覚えてない」
二人は幼い頃に家族を失い、姉妹だけで生きてきた。互いを支え合うことでどうにか前を向いてきた二人にとって、こうした温かい食卓の光景は、どこか眩しいものに映るのだろう。
「これから、ここへ来た時は一緒に食べましょう」
バーバラが優しく言うと、セラの目が少し潤んだ。
「いいんですか」
「もちろんです」
「ありがとうございます」
短いやり取りだったが、その一言には、姉妹二人がこれまで持てなかった居場所が、確かにここにあるのだという実感がこもっていた。
◇ ◇ ◇
食後、ダグラスが一枚の地図を食卓に広げた。
「王都まで、最短で五日。普通なら東街道を使うところだが」
セオドアの忠告が頭をよぎる。『東門を使うな』——あの言葉には、まだ理由の説明がない。
「西から行くのか?」
ゲイルが尋ねる。
「いや、北だ」
「北門? あまり使われないだろう」
「山道だからな。遠回りにはなるが、待ち伏せは避けられる」
「父さんなら」と俺は思わず笑った。「東から真っ直ぐ行ってただろうな」
「そうだろうな」
ダグラスも笑う。父らしい豪胆さを思い出しているのかもしれない。だが今は、あの人の言葉を借りるならこうだ。
『世界は少しくらい遠回りしても、きっと大丈夫だから』
そのままの意味で受け取っていいのか、それとも別の含みがあるのか——今となっては確かめようもないが、少なくとも今の俺たちには、慎重さを選ぶ理由がある。
「北へ行こう」
「賛成」
皆が頷いた。決定は静かに、だが確かに固まった。
◇ ◇ ◇
三日後、村は少しずつ日常を取り戻していた。井戸の水は元通りに澄み、畑には人の姿が戻り、工房からは槌の音が響く。子どもたちの笑い声が路地に響くたび、この村が本来持っていたはずの穏やかさを思い出させてくれる。
リアは短い距離なら歩けるようになっていた。セラも上半身を起こし、薬草の仕分けを手伝うまでに回復している。
「無理するな」
俺が言うと、セラは首を振った。
「してない。腕は元気」
そう言って笑う顔は、以前よりも少し明るい。
「義足」
セラがぽつりと言った。
「本当に、作れる?」
「作る」
俺は迷わず答えた。
「まだ方法はない。でも探す」
「前世の知識で?」
「それだけじゃない。今の俺で考える」
ノアも頷いた。
「僕も手伝う」
「ありがとう」
セラが笑う。
「約束だから」
「歩く練習、一緒にする」
リアが言うと、セラは静かに頷いた。姉妹は互いの手を握り合う。その手の中で、紫の石が静かに光っていた。危険な反応ではない、温かい光だ。第三流路は、もう泉へ通じる道ではなくなっている。二人を支えるための道へと、少しずつ姿を変え始めていた。
◇ ◇ ◇
出発前日の夜、俺は父の手帳を読み返していた。失敗、失敗、また失敗——成功の記録よりも失敗の記録の方がずっと多い。
「本当にその通りだな」
苦笑しながらページをめくっていたその時、最後のページから一枚の紙が滑り落ちた。今まで誰も気づかなかった、折り畳まれた小さな紙。
「何だ?」
開いてみると、そこには父の字で短く記されていた。
『第零研究室』
『入口は』
『王城にはない』
その下には一つの地図。王都の外、森の奥、古い礼拝堂。そこに丸印がつけられている。
「地下か」
礼拝堂の地下から、第零研究室へ続く隠し入口があるということだろう。最後まで、父は俺のために道だけを残していたのだ。
その瞬間、窓の外に誰かが立っていることに気づいた。白い服、銀色の髪。月明かりの中、静かにこちらを見つめる女性の姿があった。
今度は水面ではない。確かに、そこにいる。
目が合う。女性は小さく微笑み、唇だけを動かした。
「来て」
声は聞こえない。だが、確かにそう読めた。
次の瞬間、女性の姿は夜風の中へ、静かに溶けるように消えていった。




