Ep215. 第零研究室からの招待
『エドワードの残した真実を知りたければ』
『一人で来い』
薬師小屋の空気が、一瞬で凍りついた。誰も、すぐには口を開かない。手紙の文字はたった二行だけなのに、その重さが部屋中に広がっていくようだった。
「一人で……」
バーバラが手紙を握りしめ、声を絞り出す。
「絶対に駄目です」
「うん」
俺は即答した。
「行かない」
「え?」
オリヴィアが少し驚いた顔をする。まさか俺があっさり拒むとは思わなかったのだろう。
「罠でしょう」
「そう。だから、一人では行かない」
父が最後に残した言葉を、俺は忘れていない。
『一人で決めるな』
今それを破る理由はどこにもない。誰かを危険に晒したくないという気持ちと、一人で背負い込んで良い結果になった試しがないという学習と、その両方が俺の中にあった。
「でも、第零研究室って……」
ダグラスが手紙を受け取りながら、眉根を寄せる。
「王立医術院の、存在しない部署だ」
「存在しない?」
「公式にはな」
ダグラスはゆっくりと椅子に座り直し、記憶を辿るように話し始めた。
「昔、王都には表の医術院とは別に、王家直属の研究施設があった。それが第零研究室だ。誰にも知られず、記録にも残らない。危険な研究だけを扱う部署だった」
「逆封鎖も?」
「おそらくな」
「第三流路も?」
「おそらくだ」
父はそこに所属していた可能性が高い。マティアスも同じだったのだろう。二人の名前が、あの遠い過去の研究施設の中で並んでいたのだと思うと、胸の奥が妙にざわついた。
「解散したって聞いたけど」
ノアが尋ねる。
「三十年以上前だ。事故があった」
「事故?」
ダグラスは少し迷ってから、静かに続けた。
「正式記録では、薬品庫の爆発ということになっている。だが、本当は違う」
「泉……ですか」
「そうだ」
中央の泉。研究。封印。そして事故。すべてが一本の線でつながっていく。
「父さんは、知ってた?」
「いや。お前の父は、事故の後に入ったはずだ」
つまり第零研究室は一度壊れ、その後、父が再建に関わった。そこまでは筋が通る。だが、それならなぜ今、解散したはずの研究室から手紙が届くのか。まだ誰かが、あの場所に残っているとしか思えなかった。
俺はもう一度、手紙に目を落とす。
『エドワードの残した真実』——父は最後の記録を残した。だが、まだ何かがある。そんな予感が拭えなかった。
「行く?」
ノアが聞いてくる。
「王都には行く。でも、この手紙どおりには動かない」
相手は俺を一人にしたがっている。理由は分からない。だが、その条件だけは絶対に守るつもりはなかった。
「賛成だ」
ゲイルが頷く。
「護衛を付ける。俺も王都まで同行する」
「私も」
オリヴィアが手を挙げる。
「私は残ります」
バーバラが首を横に振った。
「村には薬師が必要です。避難から戻った村人や、怪我人がまだ多いですから」
母はここを離れられない。それは分かっていたことだった。
「リアとセラも、しばらく村に」
ダグラスが言う。
「傷が塞がるまで、最低でも二週間はかかる。王都行きはその後だ」
それならまだ時間がある。身体を整える猶予もできる。
「待って」
リアが小さく声を上げた。
「お姉ちゃんの石……」
紫の石は、リアとの共同所有になっている。彼女がそっと石を握ると、石は静かに光を帯びた。危険な反応ではない。
「何か見える?」
俺が尋ねる。
「少しだけ。道」
「道?」
「王都までの道」
リアの瞳が、紫色にゆらりと揺れる。
「人が……いっぱい立ってる」
「敵?」
「分からない。でも、笑ってる人じゃない」
第三流路の所有者になったことで、石が未来の断片を映し出しているらしい。
「他には?」
「一人。白い服の……女の人」
部屋の全員が、思わず顔を見合わせた。
「マティアス?」
「違う。もっと若い。笑ってる」
だが、リアの顔がふと曇る。
「怖い笑い」
父ではない。マティアスでもない。第三の人物。第零研究室には、まだ関係者が残っている——その予感が、いよいよ確信に近づいていた。
◇ ◇ ◇
翌朝、ダグラスは古い資料を居間いっぱいに広げていた。
「何かあった?」
俺が尋ねると、ダグラスは顔を上げた。
「一つ、思い出したことがある」
差し出されたのは、黄ばんだ羊皮紙の名簿だった。そこには三人の名前だけが記されている。
『主任 エドワード・E・オリバー』
『副主任 マティアス・グレイ』
ここまでは、俺も知っている名前だ。だが最後の一行に、初めて見る名が並んでいた。
『補佐研究員 エレナ・クロイス』
「エレナ……」
「女性だ。優秀だったらしい」
「生きてるの?」
「分からん」
事故の後、記録から消えたという。死亡扱いにはなっているが、遺体は見つかっていない。生死不明のまま、三十年という歳月だけが過ぎた。
「白い服の人……」
リアが見たという人物と、あまりに符合しすぎている。偶然とは思えなかった。
「エレナかもしれないってこと?」
「可能性はある」
ダグラスは紙を裏返した。そこには、見覚えのある字が書かれていた。父の筆跡だ。
『エレナだけは、泉を信じなかった』
「え……父さんが書いたの?」
「私が昔、借りていた資料だ」
エレナはマティアスとは違い、泉を利用しようとは考えなかった人物らしい。だが事故の後、消息を絶っている。
「じゃあ、味方なのかな」
ノアが尋ねる。
「分からない」
俺は正直に答えるしかなかった。
「三十年の間に、何があったのか俺たちは知らない。人は変わる。前世の俺も、父さんも変わった。エレナだって、変わっていて不思議じゃない」
誰かを一方的に敵とも味方とも決めつけるのは、まだ早すぎる。そう思いながらも、リアが見たという「怖い笑い」が、頭の片隅から離れなかった。
◇ ◇ ◇
昼過ぎ、村に一台の馬車がやってきた。王都からの使いではなく、行商の商隊だった。
「薬を届けに来ました」
商人が丁寧に頭を下げる。
「あと、こちらも」
差し出されたのは、小さな木箱だった。送り主の名は——セオドア。
開けてみると、中には一枚の地図が入っていた。王城地下の、古い見取り図らしい。西区画だけが赤く印されている。
『正式図面ではない』
『信用しすぎるな』
『だが、役に立つ』
さすがセオドアだ。王都で、俺たちのために動いてくれているらしい。
「地下が、迷路みたいになってる」
俺が地図を眺めながら呟くと、ダグラスが説明を加えた。
「昔、何度も増築を重ねたからだ。第零研究室は正式な地図には載っていない」
「じゃあ、どうやって行くの?」
「隠し通路があるはずだ」
「父さんも、それを使ってたの?」
「たぶんな」
その時、箱の底からもう一枚、小さな紙が出てきた。短い一文だけが記されている。
『王都へ来るなら、東門を使うな』
それだけだった。
「どういう意味?」
ゲイルが眉をひそめる。
「普通、旅人は東門を使う」
「だからこそ、待ち伏せしやすいってことか」
セオドアは、俺たちが王都へ着く前から警告してくれている。つまり、すでに誰かが東門付近で、俺たちを待ち構えているということだ。手紙の「一人で来い」という要求と合わせて考えると、相手の計画がじわりと輪郭を持ち始めているようだった。
◇ ◇ ◇
夕方、村外れの井戸の近くを、俺はノアと二人で歩いていた。
「静かだね」
「うん」
青い水も、銀色の根もない。今はただの、何の変哲もない井戸だった。
「ルーク」
「何?」
「前世のルークなら、あの手紙、どうしてたと思う?」
「一人で行ってた」
「だよね」
ノアが小さく笑う。
「今のルークは違う」
「違う」
断言できることが、少し嬉しかった。
その時、井戸の水面が小さく揺れた。風ではない。まるで誰かが、こちらを覗き込んでいるかのような波紋だった。
「……?」
俺は思わず近づき、水面を見つめる。
映っていたのは、俺ではなかった。
白衣の女性。長い銀髪。優しく笑っている。
『やっと』
声は聞こえない。ただ唇だけが、そう動いた気がした。
『会えるね』
次の瞬間、水面は元に戻った。何も映っていない。ただの、暗い水面がそこにあるだけだった。
「見た?」
俺が尋ねる。
「うん」
ノアも頷いた。
「白い服の、女の人……リアが言ってた人だ」
エレナ・クロイス。彼女は、俺たちが王都へ向かうよりも先に、すでにこちらを見ていた。




