Ep213. 父が最後に残した答え
『旧管理者記録』
『未送信伝言あり』
紫の石。その表面に浮かんだ文字を見て、誰も動かなかった。部屋は静かだった。窓の外はもう夜に近く、ランプの灯りだけが石の表面を照らしている。セラは薬で眠り始めている。呼吸は浅いが、荒れてはいない。リアは姉の手を握ったまま、眠る姉を見つめていた。その横顔には、安堵と不安が同居していた。ノアは金色の白石を抱え、俺の隣へ座る。石の温度が、少しだけ伝わってくる。
「未送信」と、俺は小さく呟く。「父さんが」「残してた言葉」「見る?」
バーバラが尋ねた。少しだけ迷う。父の記録を見れば、また新しい真実が出てくるかもしれない。今は、皆が疲れている。だが、紫の石は待たない。
『共同所有者立会いを確認』
『記録再生』
淡い紫の光が、部屋いっぱいへ広がる。
◇ ◇ ◇
映ったのは書斎だった。見覚えがある。父の研究室。俺が幼かった頃、ほとんど入ったことのない部屋。棚には古い魔導書が積まれ、窓の外は夕暮れの色をしていたことまで、なぜか鮮明に映っていた。父は机へ向かい、一枚の紙を書いている。いや、違う。これは手紙ではない。魔力記録。未来へ残すための映像だ。
『この記録を見ているということは』『私は』『失敗したのだろう』
父は笑わない。静かな声だった。
『ルーク』『もし君が見ているなら』『一つだけ』『安心してほしい』
父の視線が、まっすぐこちらを見る。カメラ越しではなく、まるで今、目の前に俺が立っているかのような真剣さだった。
『私は』『君に』『中央の泉を閉じてほしいとは思っていない』
部屋が静まり返る。「えっ」と、オリヴィアが思わず声を漏らした。
『もちろん』『閉じられるなら』『閉じてほしい』『だが』『それだけのために』『君が生きる必要はない』
前にも似た言葉を残していた。泉を閉じるためだけに生まれたのではない。それが父の本心だった。何度も言葉を変え、何度も記録を取り直したのだろう。声の端々に、迷いながら選び取った跡があった。
『私は』『泉ばかり見て』『人を見失った』
父が机の引き出しから、一冊の古い手帳を取り出す。表紙は擦り切れ、角が丸くなっていた。何度も開き、何度も閉じた手帳だと分かる。
『研究』『封印』『逆封鎖』『鍵』
その全てが、細かく書かれている。文字は几帳面で、しかし後半になるほど乱れていく。焦りだったのか、それとも別の何かだったのか。
『この手帳には』『成功より』『失敗の方が多い』
父はページを閉じた。
『失敗した理由は』『技術ではない』『私が』『人へ相談しなかったからだ』
俺は息を止めた。前世の俺。そして今世でも、ずっと抱えてきた癖。一人で決める。一人で背負う。父も同じだった。血の繋がりというより、選び方の癖が似ていたのかもしれない。
『私は』『一人なら』『誰も巻き込まないと思っていた』『だが』『違った』
逆封鎖。第三の流路。セラ。リア。母。まだ生まれていない俺。結果として、皆を巻き込んだ。父の声は淡々としていたが、その淡々さの奥に、深い後悔が沈んでいるのが分かった。
『だから』『君は』『一人で決めるな』
父の声が、少しだけ優しくなる。
『誰かへ』『相談しろ』『迷え』『反対されろ』『それでも』『最後は』『自分で選べ』
ノアが小さく笑った。「ルーク」「もう」「やってる」
「うん」と、俺も笑う。少しだけ。今まで、皆へ相談してきた。父とは違う道。それでも同じ場所を目指していたのかもしれない。
『そして』『もし』『私の研究が』『誰かを苦しめていたなら』『私の代わりに謝る必要はない』
バーバラが静かに目を閉じる。その横顔は、何か遠い記憶を辿っているようだった。
『謝りたいなら』『君自身の言葉で謝れ』『助けたいなら』『君自身の意思で助けろ』『私の罪を』『背負うな』
胸が熱くなる。父は最後まで、俺へ同じことを伝えていた。罪も、功績も、丸ごと俺に背負わせようとはしなかった。それだけで、この記録の意味が分かる気がした。誰かの人生を、勝手に自分の贖罪の続きにしてはいけない。父はそれを、何よりも恐れていたのかもしれない。
『最後に』『一つだけ』
父は窓の外を見る。記録の中の窓には、もう夕暮れの光はなく、ただ暗い空だけが映っていた。
『私は』『医術師だった』『だから』『最後まで』『人を治す方法を探した』
机の上へ、一枚の紙を置く。
『もし』『泉を閉じる方法と』『誰かを助ける方法が』『違うなら』『迷わず』『助ける方を選べ』
沈黙。誰もが、その一言の重さを噛みしめていた。
『世界は』『少しくらい』『遠回りしても』『きっと大丈夫だから』
映像は、そこで終わった。紫の光が、ゆっくりと部屋の隅へ吸い込まれるように消えていく。
◇ ◇ ◇
紫の光が消える。誰も、しばらく話さなかった。
「遠回り」と、ノアが呟く。「前世のルークなら」「絶対選ばない」
「うん」前世の俺なら、効率、最短、成功率、それだけを見た。無駄を嫌い、遠回りを許さなかった。今の自分が、あの記録の言葉に素直に頷けることが、少しだけ不思議だった。
「父さんも」と俺は言う。「最後には」「変わったんだ」「だから」「あんな記録を残した」
ダグラスが静かに頷く。「失敗した人間だからこそ」「残せる言葉もある」
バーバラが、そっと俺の頭を撫でた。「似ていますね」
「誰と?」
「お父さんに」
「え」
「昔は」「そっくりでした」「今は違います」
「どこが?」
「相談してくれるところです」
少し照れくさい。でも、嬉しかった。誰かに似ていると言われることが、これほど安心につながるとは思わなかった。
「ルーク」と、リアが俺を見る。「ありがとう」
「何が?」
「お姉ちゃんを」「助けてくれて」
「俺だけじゃない」「ノアも」「皆も」
「うん」リアは笑う。「だから」「ありがとう」
その笑顔は、この数日でずっと張り詰めていた表情から、初めて力の抜けたものだった。眠るセラの手を握る指先も、少しだけ緩んでいるように見えた。
その時、外から子どもの声が聞こえた。
「井戸のお水が戻った!」
「本当だ!」
ゲイルが窓の外を見る。「村人たちが」「戻り始めた」
井戸は普通の水へ戻った。青い光はない。銀色の根もない。ようやく村に、日常が戻り始めていた。誰かが井戸端で笑う声、桶を運ぶ足音、遠くで犬が吠える声。何気ない音の一つ一つが、これまでどれほど失われていたかを教えてくれた。
だが、伝令板が静かに光る。王都から、セオドアの符号。
『中央泉』『完全閉鎖確認』『ただし』『王城地下に異常反応』
異常反応。新しい場所。採石場ではない。第三の根でもない。
『マティアスは』『王都へ向かった可能性が高い』
俺たちは顔を見合わせた。村の戦いは終わった。だが、最後の舞台は、王都へ移ろうとしていた。
窓の外では、まだ子どもたちの声が続いている。水が戻った喜びと、これから始まる新しい緊張とが、同じ部屋の空気の中で静かに重なり合っていた。
「王城地下、か」ダグラスが腕を組む。「採石場や第三の根とは、性質が違うかもしれん」
「マティアスが向かったなら」とバーバラが続けた。「今度は、逃げ場のない場所での決着になるでしょう」
ノアが石を抱え直す。「休む時間、ある?」
「ない、かもな」俺は答える。「でも、今日くらいは」「休んでいい」
セラの寝顔を見て、リアが小さく頷いた。「うん」「今日だけは」
誰かが先に立ち上がる。旅支度を始める音が、遠くから聞こえてくる気がした。だがそれは明日でいい。今夜だけは、井戸に戻った水の音と、子どもたちの笑い声を、皆で黙って聞いていたかった。父の記録が残した最後の一言が、まだ胸の奥で響いていた。世界は少しくらい遠回りしても、きっと大丈夫だから。その言葉を信じて、俺たちは今夜、ようやく肩の力を抜くことができた。




