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Ep212. 継承しないという選択

『第三流路』


『継承処理を開始』


 リアの紫と、セラの紫。二本の細い光が、糸を紡ぐように部屋の空気を裂きながら俺の胸へ伸びてくる。温度はない。それでも肌の下が、じわりと熱を持ったように感じられた。


「止めて」


 俺が言うより早く、バーバラが俺の身体を抱き寄せた。腕の力は強く、震えていた。母がここまで動揺を隠さないのは珍しい。


「どうすれば止まるの?」


「分からない」


「またそれか」


 ダグラスが月の白石を持ち上げる。石の三本目の線は、青ではなく濃い紫に光っていた。泉の接続の色ではない。父が残した、第三の流路――姉妹の記憶と人をつなぐ道だ。それが今、光の先端をこちらへ向け、新しい所有者として俺を選ぼうとしている。


 部屋の中は静かだった。誰も大きな声を出していない。それなのに、空気だけが張り詰めていた。


「白石を当てるぞ」


 ダグラスが俺の胸の前へ乳白色の石を置く。冷たさが服の上からでも伝わってくる。紫の線が一瞬弱くなり、部屋の誰もが息を詰めた。だが、消えない。まるで意志を持った生き物のように、光は再び形を整え、俺へと向き直った。


『継承対象』

『エドワード・E・オリバーの血縁』

『第三流路理解者』

『中央泉適合者』


 条件はすべて俺に当てはまっていた。血縁、理解、適合――どれも自分の意志で選んだものではない。生まれた時から決められていた枠に、今また嵌め込まれようとしている。その感覚が、腹の底を冷たくした。


「拒絶する。受け取らない」


 声にした瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。父の記憶を見た時と同じ感覚だ。誰かの人生の重さが、こちらへ流れ込もうとする感触。逆封鎖の時と同じだ。本人の拒絶があれば、それで止まるはずだった。


『継承拒絶を確認』


 紫の線が、胸へ触れる寸前で止まる。安堵する間もなかった。だが、次の声が続いた。


『拒絶理由を照合』

『継承放棄時』

『第三流路は旧所有者へ残留』


 旧所有者――セラ、そしてリア。石は、俺が拒めば済む話だとは考えていなかった。まるで最初から、次の行き先を用意していたかのように。


「二人に戻る?」


 第三流路は、父がリアの中へ隠し、セラへ管理する紫の石を渡したものだ。俺が拒絶すれば、姉妹がそのまま抱え続けることになる。誰も望んでいない形で、また姉妹の肩へ重さが戻っていく。


「それでいい」バーバラが言った。


「いいの?」


「あなたが受け取る必要はありません」


 母の声は、俺を守ろうとする響きだった。だが、それでいいのかという疑問が、すぐに胸へ広がる。


「でも、セラとリアが――」


 母の言葉が途中で止まる。姉妹自身が選ぶべきことだと、父も最後にはそう残していた。『君たちの人生のために使っていい』と。あの記憶の中の父の声を、俺はまだ覚えている。


 だが今のセラは両脚を失った直後で、リアもようやく泉の接続を切ったばかりだ。そんな状態で、流路を抱え続けるか俺へ渡すか――選ばせること自体が、あまりに重い。二人にとって、今日という日はすでに十分すぎるほど過酷だった。


「継承を保留できる?」


 思いついた言葉を、そのまま口にした。答えがあるかどうかも分からなかったが、黙って流されるよりはましだった。尋ねると、遠くセラの所持品にあるはずの石から、白石を通じて答えが届く。


『保留可能。旧所有者および継承対象が同時に意思を保てる間』


「意味が分からない」ダグラスが俺より先に聞いた。


『一方が意識を失った場合、他方へ自動継承』


 セラは止血を終え、馬車で運ばれている。意識は戻ったと報告があったが、いつ再び気を失ってもおかしくない。あれほどの出血だ、当然だった。俺も逆封鎖の直後で限界に近かった。目の奥が重く、視界の端が時折ぼやける。それでも今、眠るわけにはいかない。


「意識を失えない?」


「それは無理だ」ダグラスが言う。「セラは大量に血を失っている。鎮静も必要だ」


「俺も?」


「お前は今すぐ眠れと言いたいが」


「眠ったら継承される」


「だから困っている」


 紫の線は俺の胸の前で揺れたまま、時間は待ってくれない。誰かが結論を出さなければ、望まない形で答えが決まってしまう。それだけは避けたかった。


「セラが戻るまで起きてる。戻って、本人と話す」


「馬車は」ゲイルが窓を見る。「もう村の入口だ」


 蹄の音、車輪の音、人の声が近づいてくる。


「ここへ運ぶ」ダグラスが外へ向かう。「セラの治療もここで続ける」


 部屋の中の空気が、一気に慌ただしくなった。清潔な布、水、術式の道具――バーバラとゲイルの残った者たちが、手早く寝台の周りを整えていく。誰も声を荒げていないのに、動きだけが速い。それが逆に、事態の深刻さを物語っていた。


「リアは?」


「姉に会わせる。だが興奮させすぎるな」


 眠っていたリアは先ほど目を開け、外の音を聞いて身体を起こそうとする。焦りに満ちた動きだった。まだ本調子ではない身体が、それでも姉の気配を追おうとしている。


「ゆっくり」ノアが肩を支えた。


「帰ってきた」


「本当に?」


「うん」


 リアの目から涙が落ちる。溢れ出すというより、堪えきれずに滲み出るような涙だった。


「足、見ても」


「驚かないで」


「分かってる。血も、怖いかもしれない」


「大丈夫」


 大丈夫ではない顔だった。声も、手も、微かに震えている。それでも、会いたい、姉を迎えたい――その気持ちだけは本物だった。恐れよりも、その一心の方が勝っていた。


   ◇ ◇ ◇


 馬車が家の前へ止まる。アーヴィンが荷台から先に降りた。服も手も血に汚れている。誰も声を上げなかったが、その様子だけで道中の激しさが伝わってきた。続いて警護官たちが、板へ乗せたセラを運び出す。膝より少し上、両脚は厚い布で巻かれ、白い布に赤い血が滲み、止血術式の淡い光が布の隙間から揺れていた。セラの顔は青いが、目は開いている。意識を保とうとする、その一点だけに力を使っているような顔だった。


「リア」


 姉の唇が微かに動いた。リアが寝台から降りようとする。


「私が運びます」


 バーバラがリアを抱き上げ、姉妹を互いが見える距離へ運ぶ。セラは妹の顔を見た瞬間、息を詰まらせた。


「本当に、生きてる」


「お姉ちゃん」


 リアが手を伸ばす。セラも震える右手を上げた。曲がらない小指――妹を守った時の傷だ。腕を持ち上げるだけで痛みが走るのか、セラの顔が一瞬歪む。それでも手を止めなかった。二人の指が触れる。


「おかえり」


 リアが言った。謝罪ではなく、最初に帰ってきたことを迎える言葉だった。セラの目から涙がこぼれる。


「ただいま」


 それだけで二人とも泣いた。バーバラも顔を背け、涙を拭う。ノアは少し離れた場所で姉妹を見ていた。自分には帰る相手の記憶がない。それでも嫉妬ではなく、安堵だった。リアが一人ではないと分かる、それだけで十分だった。誰かの帰りを、誰かが待っている。ただそれだけの光景が、今のノアには眩しく見えた。


 ダグラスの手が休みなく動く。傷口を確認し、止血の術式を重ねがけし、脈を測る。その間、セラは天井を見つめたまま、浅い呼吸を繰り返していた。痛みを堪える横顔は、それでも意識を失うまいとする強さを保っている。


「セラ」ダグラスが治療を続けながら言う。「話せるか」


「少しなら」


「先に痛み止めを」


「待って」


 セラは俺を見る。初めて、直接。


「あなたが、ルーク?」


「うん。エドワードさんの息子」


 セラの視線は複雑だった。怒り、恐れ、懐かしさ――全部が混ざっている。その目を正面から受け止めるのは、簡単なことではなかった。それでも逸らせば、何も始まらない。


「父さんの記憶を見た。あなたたちに何をしたか、どうしてしたか、知った。全部」


「全部?」


「たぶん。第三の流路、紫の石、歌。父さんが俺を守るためにも使おうとしたこと」


 セラは目を閉じる。思い出そうとするように、眉間に僅かな皺を寄せた。だが、そこにあるはずの記憶には、ぽっかりと穴が空いているようだった。


「覚えてない。石を渡されたことも。歌のことは少し。でも、エドワードさんの顔は今日まで忘れてた」


 マティアスに記憶を消された。リアほど完全ではないが、それでも父との出来事、流路、紫の石――重要な部分を削られている。都合よく切り取られた記憶の中で、セラはずっと生きてきたのだ。何を失ったのかすら分からないまま。その事実が、俺の胸をさらに重くした。


「今、石が俺を継承者に選んだ」


 セラの目がゆっくり開く。


「継承?」


「第三の流路を俺へ渡そうとしてる」


「受け取るの?」


「まだ。拒絶した」


「どうして?」


「あなたたちのものだから」


 父が姉妹へ渡し、自分たちの人生のために使えと言ったものだ。


「でも、セラが持ちたくないなら俺が受け取る選択もある」


「あなたが中央の泉の鍵なんでしょう」


 知っている。どこで、と聞き返す前に、セラが先に答えを口にした。


「マティアスが言ってた。第三の流路をルークへ渡せば、本物の鍵が完成に近づくって」


 その名前を出すセラの声には、隠しきれない苦さがあった。かつて自分たちを縛った男の言葉を、今また持ち出さなければならないことへの苦さだ。


「それもある」


「なら渡せない」


 即答だった。迷いの気配すらなかった。


「でも、あなたが持てば第三の根にまた狙われる。リアも――私たちはもう巻き込まれてる」


 セラが妹の手を握る。


「だからって、俺よりあなたたちが持つべきとは言えない」


 互いに、相手へ危険を渡したくない。それでは決まらない。二人とも、自分が犠牲になることで相手を守ろうとしている。誰も間違っていない。だからこそ、話は堂々巡りになる。


「紫の石を使えば、二人の治療に使えるかもしれない。父さんが言ってた。第三の流路は、失ったものを戻すためじゃなく、残ったものを支えられるって」


 記憶の中の父の声が、また蘇る。実験のためではなく、誰かの人生を支えるための道具にしたい――そう望んでいた声だった。信じていいのか、まだ俺自身にも分からない。それでも、伝える価値はあると思った。


 セラの視線が失った両脚へ向く。長い沈黙だった。触れることさえ、まだ怖いのかもしれない。


「私が、また歩ける?」


「分からない」嘘はつかない。「でも、リアと魔力をつないで、新しい足を動かす補助に使える可能性はある」


「リアの力を、私が使うの?」


「一方的じゃない。二人で支え合う」


 セラは首を横へ振る。動かした拍子に、傷へ痛みが走ったのだろう、僅かに顔をしかめた。


「嫌。リアを、また道具にしたくない」


 道具、という言葉に、その場の空気が一段と重くなった。父も、マティアスも、泉さえも、姉妹をずっとそう扱ってきた。セラにとって、それだけは繰り返してはならない一線なのだ。


「お姉ちゃん」リアがセラの手を握る。「私が、やりたい」


「駄目」


「どうして」


「あなたは何度も誰かに使われた。もう自分のために生きて」


 セラの声には、これまで妹の身に起きたことすべてへの後悔が滲んでいた。歌に、泉に、そして知らないところで動いていた父の思惑に――リアはずっと使われる側だった。もう二度と、そうさせたくない。


「お姉ちゃんも、私のために足をなくした。それを私が支えたい」


「それは罪悪感でしょう」


「違う。同じです」


「違う!」


 リアが初めて姉へ大きな声を出した。小さな身体のどこにそんな力があったのか、部屋の空気が一瞬、震えたように感じられた。


「お姉ちゃんが私を守りたいのと、同じ! 私もお姉ちゃんを守りたい。それを駄目って言わないで」


 沈黙が落ちる。セラは何も言い返せなかった。妹の言葉が、自分がずっと姉として抱えてきた理屈を、そのまま裏返して突きつけてきたからだ。


 姉妹――守る側、守られる側。それを固定しない、どちらも選ぶ。父が第三の流路へ残そうとした可能性は、きっとそういうものだったのだろう。


「二人で決めていい」俺は言った。「俺のためじゃなく、父さんのためでもなく、泉を閉じるためでもなく――自分たちがこれからどう生きるかで」


 その言葉に、部屋の誰も口を挟まなかった。決めるのは姉妹であり、俺たちはただ、その結論を待つしかできない。


 セラは長く妹を見た。


「怖くない?」


「怖い」リアは答えた。「また泉につながるかもしれない。その時は」


「切る。また、足みたいに何か失うかもしれない。それでも――一人じゃない」


 最後に、そう答えた。ノアが小さく頷く。


「僕もいる。ルークも、バーバラさんも、ダグラスさんも」


 セラは、部屋にいる一人一人の顔を見た。妹だけでなく、この場にいる全員が、姉妹のこれからを支えようとしている。それが伝わったのか、強張っていた肩から、少しだけ力が抜けたように見えた。


 セラは俺を見る。


「あなたは第三の流路を受け取らなくていい?」


「二人が使うなら、俺は受け取らない。でも危険になったら、止める方法を一緒に探す」


「父親の代わり?」


「違う。俺として」


 父の罪を償うためではない。姉妹を盾にするためでもない。血のつながりや、石が示す条件のためでもない。ただ、今、知った。関わった。目の前で、二人が苦しみながらも自分たちの答えを探そうとしている。それを見て、何もしないという選択肢はなかった。だから助ける。理由は、それだけで十分だった。


「分かった」セラが息を吐く。「流路は私たちが持つ。リアと二人で」


 長い沈黙の末に出た結論だった。誰かに押し切られたのではなく、自分たちで選んだ言葉だと分かる、静かな声だった。


 紫の線が俺の胸の前で揺れる。


『旧所有者意思を確認。共同所有を選択』


 セラとリア、二人の手が触れた場所から紫の光が広がる。二つの光がひとつに溶け合っていくのが、はっきりと見えた。


『継承対象変更。セラ・ノルン、リア・ノルン』


 俺へ伸びていた線が、ゆっくり姉妹の間へ戻っていく。円を描き、つながる。だが、泉へは伸びない。


『第三流路。血縁共有状態へ移行』


 成功した。俺の胸から紫の感覚が消える。軽くなったというより、ようやく自分の身体が自分だけのものに戻ったような感覚だった。中央の泉、本物の第三鍵は完成に近づかなかった。


「切れた」俺が言うと、母が大きく息を吐く。詰めていた息を、ようやく吐き出したような音だった。


「今度こそ?」


「うん。何もつながってない、たぶん」


 完全な保証はできない。だが少なくとも、紫の石はもう俺を継承者として見ていない。胸の奥にあった重みが消え、代わりに、姉妹の間で交わされた小さな光の記憶だけが残っていた。


「念のため、しばらくは様子を見る」ダグラスが石を懐へしまいながら言った。「共同所有という前例自体が少ない。石の判断が絶対とは限らない」


「用心するに越したことはない、か」


「その通りだ」


「治療は今すぐ始めるものではない」ダグラスが言った。「二人ともまず身体を回復させる。流路の使い方はそれからだ」


 性急に力を使えば、かえって二人の身体を痛めつけることになりかねない。ダグラスの声には、長年の経験に裏打ちされた慎重さがあった。


「足は?」セラが尋ねる。


「傷を塞ぐ。感染を防ぐ。その後、義足、魔力補助、使える手段を調べる」


「歩ける?」


「約束はできん」ダグラスは目を逸らさずに答えた。「魔力補助にも限界がある。だが、可能性がゼロだとも言わない」


 誠実な答えだった。慰めでも、突き放しでもない。セラはそれを、静かに受け止めているようだった。


「でも、ルークは探すと言った」


「探す」俺は答える。「医術を学ぶ。ノアも」


 口にしてから、これは決意なのだと自分でも気づいた。父の記憶を見ただけで終わらせるつもりはない。ここから先は、俺自身の選択で動く。


 少年が驚いた顔をする。


「僕も?」


「知識を使うか、決めるのはお前」


 金色の白石が人格を削いだ前世の医術知識――それを誰が、どう使うか。まだ決めていない。


「使いたい」ノアが言った。「リアとセラを治せるなら。でも、僕がルークに戻るなら使わない。戻らない方法を探す」


 ノアの声は静かだったが、その奥にはっきりとした芯があった。誰かのために知識を使いたいという願いと、自分自身であり続けたいという願い――その両方を、一度に諦めるつもりはないのだ。


「一緒に」


 前世の俺の知識を、今世の俺とノア、二人で別の使い方を探す。同じ人間になるためではなく、違う人間が同じ知識をどう使うか、選ぶのだ。誰にも決められた道ではなく、自分たちで見つけていく道を。


   ◇ ◇ ◇


 セラへ痛み止めが使われる。今度は眠る必要があった。


「継承は、もう大丈夫?」


「共同所有が成立した」ダグラスが紫の石を確認する。「一方が意識を失っても、自動的にお前へ移ることはないだろう」


「本当に?」


「石の表示ではな」


 セラが妹を見る。


「少し眠る」


「うん」リアが手を離さない。「起きたら甘いパン」


「半分?」


「全部」


「半分です」


 姉の返事は記憶と同じだった。何年も前から変わらないやり取りが、こんな状況でもそのまま出てくることに、リアは驚いたように、それから泣きながら笑った。セラも僅かに笑った。その笑みは弱々しかったが、確かに本物だった。薬が効き、姉の目がゆっくりと閉じていく。呼吸が穏やかになるのを、リアはずっと見つめていた。紫の流路は安定し、泉へは向かわない。


 ダグラスが治療を続ける。バーバラはリアとノアへ温かい飲み物を用意する。ゲイルたちは避難した村人を順番に村へ戻す準備、井戸、採石場、周囲の安全確認――それぞれ役割へ戻っていく。窓の外では、遠くから村人たちの声が少しずつ戻ってきているのが聞こえた。日常が、少しずつ形を取り戻していく音だった。長かった一日が、ようやく形を変えて終わろうとしていた。


 俺は寝台で、何もつながっていないことを確かめた。声も線もない。ようやく静かだった。天井を見上げる。ただそれだけのことが、今はひどく貴重に思えた。


「ルーク」母が杯を持ってくる。「これを飲んだら眠ってください」


「話が」


「後です。マティアス、王都へも捜索を続けると連絡します。第三の根は姉妹が回復してから記録を調べます。中央の泉は今、閉じています。全部、今すぐ考える必要はありません」


 先回りされて、全部答えられてしまった。母は昔から、こちらが言い出す前に必要なことを片付けてしまう人だった。それが今は、素直にありがたい。抱えきれないほどの問題が、少しだけ軽くなった気がした。


「分かった」


「本当に?」


「眠る」


「珍しい」


「疲れた」


「でしょうね」


 杯を受け取り、一息に飲み干す。杯の薬は苦い。喉の奥に残る苦味に顔をしかめると、母が僅かに笑った気配がした。


「煮込み、起きたら?」


「鳥肉です。塩、薄すぎないようにします」


「うん」


 約束した。朝食――逆封鎖の時、戻るために何度も口にした母の煮込み。


「今、朝?」


「もう昼前です。夜明け越えた」


「じゃあ約束、食べる」


「眠ってからです」


 母は強い。何を言っても、最後には母の言葉が勝つ。今は、それが少しだけありがたかった。俺は諦めて目を閉じる。


 眠る直前、紫の石が静かに光った。泉の警告ではない。姉妹の共同所有、その確認だった。


『第三流路。新規目的を登録。所有者の生命維持』


 父が未来へ残した流路は、中央の泉を開くためでも俺を守るためでもなく、今、セラとリア二人の命を支えるものへと変わった。それが、父の本当に望んでいた形なのかどうか、俺には分からない。それでも、今この瞬間だけは、姉妹を守る方向へ働いている。それだけで、十分だった。


 だが続けて、石の表面へもう一つ、淡い文字が浮かぶ。


『旧管理者記録。未送信伝言あり』


 旧管理者――父、エドワード。セラが眠ったことで、共同所有された石の奥から、父がまだ誰にも見せていなかった最後の伝言が、静かに解放されようとしていた。


 それが何を告げるのか、俺はまだ知らない。父が最後に何を思い、何を残そうとしたのか。その答えは、まだ誰の手にも渡っていない。だが、眠りに落ちる意識の隅で、これで終わりではないのだと、はっきり感じていた。


 姉妹の命をつなぐ流路の奥で、父の声が、まだ静かに出番を待っている。

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