Ep210. 妹を次の器にしないために
『代替媒体』『リア・ノルン』『接続開始』
夜明け前の家の中は、蝋燭の灯りだけが揺れていた。窓の外はまだ暗く、村を包む静けさが、かえって室内の緊張を際立たせている。ベッドに横たえられたリアの寝顔は、つい先ほどまでただ穏やかだった。だがその胸で、小さな青い欠片が強く脈打った瞬間、空気が変わった。
眠っていた少女の身体がびくりと跳ね、閉じたままの瞼の下で、何かに抗うように眼球が動く。指先が痙攣し、呼吸が浅く速くなっていく。まるで、深い水の底から誰かに引きずり込まれているかのようだった。
「リア!」
ノアが両手で少女の手を握った。淡い紫の魔力がその中心へ集まり、そこへ青い光が広がろうとしている。
「離れて! ノアまでつながる!」
ダグラスが叫んだ。だがノアは動かなかった。
「でも、手を離したらリアが一人になる!」
姉のセラは、たった今、第三の根から切り離されたばかりだった。その瞬間、最も近い血縁であり、同じ歌の記憶を持ち、すでに中央の泉へ触れた痕を持つリアが、次の媒体として選ばれた。あまりに早い切り替わりだった。
「接続率は?」
俺は尋ねた。声が思ったより掠れていることに、自分で気づく。保存器は村の外に埋めてあるため、詳細な数字までは分からない。手元にあるのは、机の上に置かれた月の白石だけだ。だが、その白石に浮かんだ赤い点が、少しずつ大きくなっているのは見えた。まるで小さな傷口から血が滲み出すように、赤は確実に面積を広げている。
「始まったばかりだ。まだ切れる」
「どうやって?」
バーバラがリアの額へ触れる。少女の肌は驚くほど冷たかった。姉との道が切れたことで、第三の根は、残っていた青い欠片を内側から広げようとしている。
「青を抜く」とノアが言った。「さっきは紫とくっついてて抜けなかった。今は……」
ノアが緑の魔力をほんの少しだけ流す。すぐに、彼は顔を歪めた。
「前より、もっと深い。胸だけじゃない」
「どこまで入り込んでる?」
「歌の記憶」
青い欠片は魔力路だけでなく、リアの記憶そのものへ入り込んでいた。姉の歌、守られた感覚、怖くないという記憶――そこへ第三の根が自分の力を結びつけている。
「無理に抜けば、姉との記憶まで消えるぞ」とダグラスが言う。
セラ。名前。歌。リアがようやく取り戻したもの。それを接続ごと切れば、また空白へ戻るかもしれない。
「それでも」とバーバラが苦しそうに言った。「身体を奪われるよりは」
「駄目」
ノアがすぐに否定した。
「リアが決める」
自分も、前世の記憶を抜く時に選んだ。怖くても、自分を取り戻すために。あの時の恐怖を、ノアはまだ覚えている。何もかもが崩れていくような感覚。それでも選んだから、今こうして立っていられるのだと、彼は知っている。だからこそ、リアにも選ぶ権利があると、譲らなかった。
「起こせるか?」と俺は尋ねた。
ダグラスは少しの間、リアの顔と、繋がれたままのノアの手を交互に見た。判断を焦っているようで、同時に一つ一つの可能性を慎重に潰しているようにも見えた。
「身体を起こすのは危険だ」と彼はようやく答えた。「意識が浮上する瞬間、第三の根が一気に流れ込む可能性がある。だが、意識へ呼びかけるだけなら、ノアとの道を使える。今、彼女の内側に既に繋がっている道があるからな」
ノアはすでにリアの内側へ触れている。完全に切れば、第三の根へ少女を一人で残すことになる。
「俺も道を見る」
「駄目」
母がすぐに止めた。
「直接は入らない。月の白石で、流れだけ確認する。ノアとリアの魔力へ、あなたから触れない――約束して」
「うん」
「泉の声が聞こえても、返事をしない」
「うん」
「第三鍵のことを言われても、近づかない」
「分かった」
母の目は、俺を試すようにじっと見つめていた。この約束を破れば、リアだけでなく俺自身も第三の根に取り込まれかねない。それを知っているからこその念押しだった。
バーバラはまだ不安そうだったが、リアを救うために、それぞれが今できる役割を持つしかなかった。誰もが、自分にできる最善のことを探し、それを黙って引き受けていく。声を荒らげる者も、涙を流す者もいない。ただ、静かな緊張だけが部屋を満たしていた。
「ノア」と俺は少年を見た。「リアを起こす。その後、青を抜くか、歌の記憶ごと封じるか、本人に選んでもらう」
「うん。でも急ぐ」
月の白石に浮かぶ赤い点は、先ほどより明らかに大きくなっていた。時間は多くない。
◇ ◇ ◇
外はまだ暗いままだった。ろうそくの炎だけが小さく揺れ、部屋の隅々まで届かない光が、皆の顔に濃い影を落としている。誰も口を開かない。聞こえるのは、リアの浅い呼吸と、ノアが息を整える音だけだった。
ノアがリアの両手を握り、緑の魔力を紫の糸へ重ねた。手のひらから伝わる冷たさに、彼は一瞬眉をひそめたが、それでも力を緩めなかった。
「リア。聞こえる? 僕はノア。さっき一緒に白いものを外した」
返事はない。だが少女の瞼が僅かに震えた。紫の奥、青い脈の向こうから、歌が聞こえてくる。セラの声に似た旋律――だが今は、歌詞がある。
『眠って。全部忘れて。姉を失った痛みも、足を奪った罪も』
リアの顔が苦しそうに歪む。
「泉が罪悪感を使ってる」と俺は言った。
姉は妹を助けるために第三の根へつながり、両脚を失った。リアが自分のせいだと思えば、その苦しみから逃れるために眠りを選ぶかもしれない。
「リア」とノアが声を強める。「セラは自分で生きる方を選んだ。君のせいじゃない」
『私が呼ばなければ、お姉ちゃんは足を切られなかった』
小さな声だった。
「呼ばなかったら、セラは全部根になってた」
それは決して脅すための言葉ではなかった。事実として、そうなっていたはずだ。リアが泣きながら姉の名を呼んだからこそ、セラはぎりぎりのところで自分を保ち、第三の根の一部にならずに済んだ。犠牲は大きかったが、全てを失うよりはましだった。そのことを、リアにも知ってほしかった。
『でも……歩けない』
「生きてる。今、治療してもらってる」
『本当に?』
「約束した」
俺、ノア、ダグラス。医術。義足。補助術式。まだ方法はない。それでも探す。
「セラが何を選んだか、覚えてる?」
『帰りたい……』
「うん。リアのところへ帰りたいって言った」
少女の紫が少し強くなる。だが青い脈が、それを押さえ込もうとする。
『なら、お前が姉の足になればいい』
泉の声――セラと同じ声だった。リアの身体が大きく震えた。
『第三の根を受け入れれば、失われた足を姉へ返せる』
「嘘だ」と俺はすぐに言った。返事ではなく、現実の皆へ向けて。「泉はリアを媒体にしたいだけだ」
『姉は歩ける。お前が代わりに根となれば』
リアが自分を差し出そうとしている。姉のために。その選択を正しいと思わせようとしている。
「駄目」
バーバラがリアの頬へ触れた。
「セラさんは、あなたが犠牲になることを望みません」
『でも……』
「あなたも、お姉さんが犠牲になることを望まなかったでしょう?」
『うん』
「同じです」
大切だから、戻すために別の人を差し出さない。王弟、国王――何度も同じ選択を見てきた。
「リア」と俺は言った。「姉の足を取り戻したい?」
『取り戻したい』
「じゃあ、生きて。一緒に方法を探す」
『私にできる?』
「一人じゃなくていい。俺も、ノアも、ダグラスも、母さんも、皆いる」
ノアがリアの手をさらに強く握った。
「僕も何も覚えてない。でも、これから決める。リアも一緒に決めよう」
紫の魔力が青を少し押し返す。月の白石、赤い点の広がりが止まった。
「届いてる」と俺は言った。「でも、まだ切れてない」
青い欠片は歌の記憶へ深く食い込んでいる。リアが泉を拒絶しても、痕跡は残る。
「選ぶんだ」と俺は少女へ言った。「二つある。一つ、歌の記憶ごと青を封じる。お姉ちゃんの歌を思い出せなくなるかもしれない」
リアの紫が揺れる。
「もう一つ、青を残したまま外から抑える。でも、また第三の根に選ばれる可能性がある」
『他には?』
少女の声は弱かった。だが自分で選択肢を聞いている。
「三つ目」とノアが言った。「青と歌を分ける」
その一言に、部屋の空気が一瞬変わった。それまで諦めと覚悟の間で揺れていた表情に、微かな光が差したように見えた。
「できるのか?」
『できる?』
二人から同じ問いが、ほとんど重なるようにして返ってきた。期待と不安が入り混じった声だった。安易に頷くことはできない。だが、可能性がある以上、口にしないわけにはいかなかった。
「今は分からない」と俺は正直に答えた。「前世の知識――金色の白石、そこに記憶と感情を分ける術式があるかもしれない。でも探す時間が必要だ。その間、接続を止められるか分からない」
月の白石、赤い点が再び僅かに大きくなる。
「時間がない」とダグラスが言った。「完全な分離を探すなら、一時的に封じる必要がある」
「どうやって?」
「歌の記憶を別の場所へ移す」
「保存器か?」
「泉の保存器ではない」
ダグラスが金色の白石を見た。手に取り、光にかざすようにして、その表面を検分する。
「この石は前世記憶を人格と知識へ分けた。あの時も、成功する保証などなかった。だが、術式そのものは今も石に刻まれている。なら、歌の記憶も青と感情へ分けられる可能性がある」
彼の声には、確信ではなく、あくまで可能性への期待だけがあった。それでも、この状況で選べる中では、最も希望のある道だった。
ノアが前世の人格を知識から削いだ、あの時と同じ方法だ。リア自身が姉の歌と泉の青を区別できれば、白石へ青だけを移せる。
「でも」とノアが言う。「前は僕の中に何が異物か分かった。リアは歌と青が同じに感じてる」
泉は最初から歌へ混ざっていたのかもしれない。姉が本当に歌ってくれた記憶。その後、第三の根が同じ旋律を使った記憶。二つが重なっている。
「違いを見つけるんだ」と俺は言った。「本物の歌と泉の歌、何が違う?」
答えを急かすことはできない。記憶というものは、無理に引き出そうとすればするほど、輪郭を失っていくものだ。リアの瞼が固く閉じられ、眉間に小さな皺が寄る。彼女は今、自分の中の一番深いところへ、ゆっくりと降りていっているのだろう。
リアが記憶を探る。
『お姉ちゃんの歌は……途中で止まる』
「どうして?」
『私が話しかけるから』
幼いリアが、歌の途中で姉へ何度も話しかける。セラは笑い、答え、それからまた歌う。完璧ではない。音が外れる。途中で止まる。同じ部分を繰り返す。
「泉の歌は?」
『止まらない。誰かが話しても、ずっと同じ』
「それが違いだ」
泉の歌は人のために歌っていない。接続を作るためだけの歌だ。だから一定で、正確で、途切れない。本物のセラの歌は妹へ反応する。話しかけられれば止まる。笑う。変わる。
「リア、本物の方だけ思い出して。途中で何を話した?」
少女の記憶――小さな部屋、雨、姉、歌。
『お腹すいた』
『さっき食べたでしょう』
『まだすいた』
『では歌が終わったら、甘いパンを半分だけ』
『全部』
『半分です』
歌がそこで止まる。姉が笑う。リアも笑う。
「それだ」と俺は言った。「止まった歌、甘いパン、笑った声――それが本物」
紫の魔力が一気に強くなる。青い脈から、旋律だけが剥がれ始めた。
『違う。歌は一つだ』
「違う」
リアが初めて自分で否定した。
「お姉ちゃんは私が話すと止まる。あなたは止まらない」
青い欠片が大きく揺れる。
「ノア、今だ」
「うん」
金色の白石をリアの胸の近くへ置く。直接は触れず、石で囲う。ノアの緑、リアの紫、二つで青だけを外へ押し出す。
「本物の歌は残す。泉の歌だけ石へ」
少女の胸から青い糸が、細く、しかし何本も金色の白石へ伸びていく。その中に、眠れ、忘れろ、姉のために自分を差し出せ――泉の言葉が白石へ吸い込まれていく。リアの紫には、別の歌が残る。途中で止まり、笑い、甘いパンを約束する姉の声だ。
「離れてる」とノアが汗を流しながら言った。「青だけ、外へ来てる」
月の白石、赤い点が小さくなっていく。
『代替媒体』『接続不安定』『歌唱記憶』『識別不能』
人間の記憶は完璧ではない。途中で止まる。間違える。変わる。その不完全さが、泉の模造と本物を分ける決め手になった。
「あと少し」とノアが言う。だが、リアの身体が急に強張った。
「何?」
「青が……胸じゃなく、頭へ」
接続が切れる前に、第三の根が少女の意識へ直接入り込もうとしている。
『お前は姉を忘れる。歌を残せば痛みも残る。悲しみも罪も』
「それでも」とリアが苦しそうに答える。「忘れない」
『苦しい』
「うん」
『消したいはずだ』
「消さない」
『なぜ』
「お姉ちゃんが生きてるから」
足を失っても、苦しんでも、姉は帰ろうとしている。妹も、記憶を消して逃げたりはしない。
「全部覚える。怖かったことも、歌も、甘いパンも、お姉ちゃんが帰ってきたことも」
紫の魔力が頭まで広がり、青を押し返す。
「今!」
ダグラスが白石の囲いを閉じ、ノアが最後の緑を流す。青い欠片がリアの胸から抜け、金色の白石へ入った。石が一瞬、真っ青に染まり、まるで一つの小さな海がそこに閉じ込められたかのように見えた。その後、周囲の白石へ青が分散されて薄くなっていく。誰も声を発することができず、ただその光景を見守っていた。月の白石――赤い点が消えた。
『代替媒体』『接続解除』
リアの身体から力が抜けた。ノアも同時に倒れそうになる。バーバラが二人を支えた。
「リア。聞こえる?」
俺は、少女の顔を覗き込みながら、もう一度呼びかけた。返事がなければ、また名前を呼ぶつもりだった。何度でも。彼女がこちらの声に気づくまで。
少女の瞼がゆっくり開く。最初は光を眩しそうに細め、それから少しずつ焦点が合っていく。淡い紫の瞳は、前よりはっきりしていた。眠りに落ちる前の、あの虚ろな色ではない。そこには、確かに「リア」自身の意志が宿っていた。
「お姉ちゃん、生きてる?」
「生きてる」と俺は答えた。
「足は」
言葉は止めない。隠さない。
「両方、切った」
リアの目に涙が溜まる。
「でも帰ってくる。今、治療してもらってる」
「私のせい?」
「違う」とノアが隣で答えた。「セラが帰る方を選んだ」
リアは目を閉じる。涙が頬を流れた。
「歌、覚えてる?」と俺は尋ねた。
少女は少し考え、小さく旋律を口ずさむ。途中で止まる。
「甘いパン」
リアが泣きながら笑った。
「半分」
本物の記憶は残っている。泉の青だけを切り離せた。
「成功」とノアが呟く。その声には、安堵よりも先に、疲労の色が濃く滲んでいた。彼自身、限界近くまで力を使い果たしていたのだろう。膝が小さく震えている。
「うん」
俺も息を吐いた。詰めていた息を全て吐き出すと、これまで気づかなかった肩の強張りが、初めて緩んだ気がした。その時、村の井戸の青い水が完全に止まった。最後の一滴が井戸の縁へ落ち、波紋一つ立てずに吸い込まれていく。銀色の線も地面から消えていく。第三の流路は、媒体を失い、静かに閉じた。伝令板に、アーヴィンからの符号が届く。
『セラ』『止血成功』『意識回復』『帰還開始』
文字が浮かぶたびに、部屋の空気が少しずつ緩んでいくのが分かった。バーバラが小さく息を漏らし、ダグラスの肩からも力が抜ける。誰も口には出さなかったが、最悪の結末を、皆がどこかで覚悟していたのだと、その時初めて気づいた。
リアが身体を起こそうとする。
「お姉ちゃん」
「まだ動かない」とダグラスが止めた。「ここで待て。戻ってくる」
少女は何度も頷いた。バーバラがリアの髪を撫でる。
「お姉さんが来たら、最初に何を言う?」
「ごめんなさい」
「それだけ?」
リアが少し考える。
「おかえり」
「それがいいわ」
バーバラがリアの頭を優しく抱き寄せた。少女は素直にその胸へ顔を埋め、小さく鼻を鳴らす。
謝罪より、帰ってきたこと、生きていることを、まず迎える。それは、この村で何度も繰り返されてきた選択だった。失われたものを数えるより、残ったものを喜ぶこと。簡単なようでいて、いざその場に立つと、誰もが忘れがちなことだ。リアが、幼いながらにそれを自分の言葉で選び取ったことに、俺は密かに救われる思いがした。
◇ ◇ ◇
空はいつの間にか白み始めていた。窓の外、村の家々の輪郭がようやく見分けられるようになり、遠くで鳥の声が一つ、二つと聞こえ始める。長い夜が、ようやく終わろうとしていた。
井戸の水が止まり、中央の泉の扉も亀裂を閉じ始めた。伝令板に、次々と符号が浮かぶ。
『漏出反応』『消失』『中央扉』『閉鎖進行』
あと僅か、完全に閉じれば、今回の危機は終わる。
「マティアスは?」と俺は尋ねた。
ゲイルが首を横へ振った。
「追跡中だが、姿は見つかっていない。少女を置いて、また逃げた」
ノア、リア――二人を器として使い、失えば捨てる。
「次の器を探すかもしれない」とダグラスが言った。「だが、偽物の第三鍵は二つ失った」
ノアは前世の器ではない。リアも今世の模造ではない。残るのはマティアス、泉主の記憶を持つ者、一つだけだ。
「中央の泉を、すぐには開けられない」
それでも油断はできない。マティアスがどこかで次の手を練っているかもしれないという事実は、誰の心にも重く残っていた。だが今この瞬間、これ以上できることはない。追跡はゲイルたちに任せるしかなかった。
「なら」とバーバラが言った。「今度こそ、少し休める?」
その声には、切実な願いが滲んでいた。
誰もすぐには答えなかった。危険が終わったと言うたび、次が来る。だが今、井戸は静かだ。泉の声もない。リアの青も消えた。ノアの胸も、緑だけになっている。
「少し」と俺は答えた。「セラが戻るまで休む」
「戻ってからも」と母が言う。「休みます」
「話を寝たままできます」
「またそれか」
「またです」
リアが小さく笑う。ノアも少しだけ口元を緩めた。二人とも、器ではない。名前を持つ子どもだ。その姿を見て、胸の奥が少し軽くなる。窓の外では、朝の光がようやく村全体を照らし始めていた。昨夜の緊張が嘘のように、鳥のさえずりだけが静かに響いている。
このまま、少しでも長く、この穏やかさが続けばいい。誰もがそう思っていたはずだ。
しかし、机の上、青を吸い込んだ白石がかすかに震えた。前世の知識、泉の歌――二つの異なるものを一つの石へ入れた影響だろうか。表面に新しい文字が浮かぶ。
『記憶分離』『完了』
続いて、
『未登録記憶』『一件』
「未登録?」
俺は石を見た。ノアの前世記憶でも、リアの歌でもない。第三の何かが、そこにある。白石の中、青い光が一つの景色を映し出す。
暗い部屋。幼い姉妹――セラとリア。その前に立つ男。マティアスではない。白い服を着た医術師。顔に見覚えはない。だが、バーバラが息を呑んだ。
「エドワード……?」
父。若い頃の父が、リアの胸へ青い欠片を入れている。
少女たちは、マティアスに初めて器へされたのではなかった。ずっと前、父が生きていた頃から、第三の根に関わる処置を受けていたのだ。記憶の中、父が幼いリアへ語りかける。
『君の中へ、第三の流路を隠す。いつか私の息子が中央の泉へ近づいた時、この歌が、あの子を守る』
部屋が凍りついたように静まり返る。誰も、言葉を発せなかった。バーバラは口元を手で覆い、白石に映る若き日の父の姿を、瞬きも忘れて見つめている。
父はリアとセラを、ただ救おうとしたのではなかった。未来の俺を守るために、姉妹の記憶へ第三の流路を隠していたのだ。それはつまり――今回、二人が器として狙われたことすら、遠い昔に父が仕込んだ何かと、無関係ではなかったということだ。
新しい謎が、また一つ増えた。井戸の水は止まり、泉の扉は閉じかけている。それでも、静けさは長くは続かない。俺はそう確信しながら、白石に映る父の顔から、目を離せずにいた。
父は、いったいどこまでを見通していたのだろう。中央の泉の危険を、マティアスの企みを、そして俺自身がいつかこの村へ帰ってくることを――全て、あらかじめ知っていたとでもいうのか。答えを出せる者は、もうこの場にはいない。
窓の外、朝日がゆっくりと部屋の中へ差し込んでくる。リアの寝顔にも、ノアの疲れた横顔にも、同じ光が等しく降り注いでいた。それだけが、今はっきりしている唯一のことだった。
俺は白石をそっと布で包み、机の引き出しへしまった。今すぐ答えの出ない問いは、いくつも抱えている。焦って開けば、また誰かを傷つけることになりかねない。今は、この静けさを守ることだけを考えよう――そう自分に言い聞かせながら、俺は窓の外へ目を向けた。




