Ep209. 歌を運ぶ女
『第三接続媒体』
『対象を確認』
『セラ・ノルン』
保存器を開いていないのに、その名は部屋の中へ響いた。声には輪郭がなく、壁を通して聞こえたのか、頭の中に直接浮かんだのか、俺自身にも判別がつかない。窓の外は、まだ夜明け前の薄闇で、街道の方角から、微かに人の気配だけが伝わってくる。
リアの姉。第三の根へつながる人間。そして今、避難した村人たちへ、泉の道を運んでいる。
「セラは」――バーバラが、眠るリアを見る。「自分が何をしているか、分かっているの?」
「分からない」
俺は答えた。マティアスのように自分から泉主へ従っている可能性。リアとノアのように記憶を奪われ、器へ変えられている可能性。どちらもある。
「でも、歌ってる」
ノアが、リアの手を握ったまま言う。
「ずっと。遠くから聞こえる」
「同じ歌?」
「うん。リアが怖くなくなる歌」
姉が妹へ歌っていたもの。それが今、第三の根の媒体として、避難隊へ近づいている。
「歌が接続に使われている?」とダグラスが尋ねる。
「たぶん」
根は水だけでなく、記憶、夢、血縁、強い感情を道にする。歌も記憶を呼び起こし、心を同じ方向へ向ける。避難中の人々が不安な中で優しい歌を聞けば、警戒を解き、近づき、耳を傾け、同じ旋律を覚える。
第一の根は、王弟という一人の強い意志を通して泉の力を集めた。第二の根は、黒い石という物を媒介にした。だが第三の根は、人の弱さそのものを利用する。疲れた身体、怯えた心、それを慰める歌声――誰もが求めてしまうものを差し出すことで、警戒心の内側に、静かに道を通す。
「大勢へ一度につながるための道」と俺は言った。「セラ一人から、歌を聞いた全員へ」
第三の根は、王弟や国王のような一人の強い接続先を選ぶのではない。歌を通じ、多数へ薄い道を作ろうとしている。
「村人たちは、もう歌を聞いているの?」バーバラの顔が青ざめる。
「まだ分からない」
アーヴィンたちは馬で追った。宿場へ着く前に避難隊へ追いつける可能性はある。だが、セラの方が、すでに近いかもしれない。
「伝令板」
ゲイルが、机の上の金属板へ手を伸ばす。採石場から戻り、泥と血に汚れたまま、休まず状況を見ている。
「アーヴィンへ、歌を聞くなと伝える」
「耳を塞げって?」とオリヴィアが尋ねる。
「それだけじゃ足りない」
俺は言った。「歌は耳からだけじゃない」
リアへ届いた声は、俺にも遠くから、魔力を通じて聞こえた。普通の音を塞いでも、接続が始まれば頭の中へ直接響く。
「白石を耳の近くへ」
白石は魔力を分散する。小さな欠片でも、歌に乗った泉の力を弱められる可能性がある。
「避難隊は白石を持ってない」
「少しは」とゲイルが言う。「井戸の異変に備えて、荷車へ積ませた」
「何個?」
「十数個」
避難した村人は数十人。全員には足りない。
「中心に並べる」と俺は言った。「人を輪にして、白石の内側へ集める」
頭の中で、街道の光景を思い描く。荷車を囲むように人が身を寄せ合い、その外周に、爪先ほどの白石を等間隔に並べる。魔力を通す道を、輪の外へ広げない。閉じ込めるのではなく、包み込む形にする。
「歌う人を外へ出す?」
「違う」
セラが泉の力を受けているなら、一人で外へ残せば、さらに接続が深まる。
「セラも白石の輪へ入れる」
「近づくのか?」
「歌を止めるには、本人へ戻す」
ノア――前世の俺の記憶。リア――白い模造魔力。二人とも、異物を切り離す前に、自分の名前や自分の感情を取り戻す必要があった。セラにも同じことが要る。
「名前を呼ぶ」と俺は続けた。「リアが呼ぶのが一番強い」
姉妹、共有記憶、歌。泉が使っている道を逆向きに、妹から姉へ、本人へ戻す。
「リアはまだ起きていない」とバーバラが言う。「無理に起こせない」
「起こさない。声だけ届ける」
ノアとリアの間には薄い魔力の道が残っている。ノアからリア、リアからセラ。三人をつなぐ。
「またノアを使うの?」
母の問いは責める声ではない。心配だった。ノアはようやく前世の記憶から解放された直後に、リアを助け、すでに魔力を使いすぎている。
「僕がやる」とノアが言う。「でも今度は、僕が全部つなげない」
「どういう意味?」
「リアと手をつなぐだけ。姉さんを呼ぶのはリアがやる」
ノア自身も学んでいる。自分一人で全部を背負わない。
「それなら」とダグラスが、ノアの脈を測る。「短時間だけだ。苦しくなったら即座に切る」
「うん」
「ルークは?」
「見る。流れが泉へ向いたら止める」
「お前も接続へ触れることになる」
「直接は触れない。月の白石、三本目の線。それを観測に使う。リアやノアへ魔力を流さない。白石の光を見るだけ」
「それなら」
母が不安そうにしながらも頷いた。「皆でやります」
◇ ◇ ◇
伝令板へ、ゲイルが符号を送る。
『歌を聞くな』『白石で輪を作れ』『セラ・ノルンを保護せよ』『攻撃禁止』
返事はすぐには来ない。アーヴィンは避難隊を追っている。馬上では細かな符号を返せない可能性がある。
「先にリアへ呼びかける」
バーバラが少女を寝台へ横たえる。白い髪――いや、色が抜けて見えていただけで、近くで見るとごく淡い銀紫。頬には少しずつ血色が戻っている。呼吸は浅いが、規則正しい。胸の青い欠片は、ノアによれば、井戸の噴出と今も同じ速さで脈打っている。まるで、まだどこかで、この子の身体の一部が泉とつながっているかのようだった。
「リア」母が優しく名前を呼ぶ。「お姉さんを助けたい?」
少女の瞼は動かない。だが紫の魔力が、僅かに揺れた。
「聞こえてる」とノアが言う。「たぶん」
「リア」俺も呼ぶ。「セラが第三の根につながってる。歌を使って皆へ道を作ろうとしてる」
説明が届いているか分からない。それでも隠さない。
「止めるには、リアが名前を呼ぶ必要がある。できる?」
少女の指が微かに動く。ノアの手を握ろうとするように。
「つなぐ」
ノアがリアの手を取る。緑の魔力が、ほんの少しだけ少女の紫へ触れる。
「無理に入らない」と俺は言う。「扉を開けるだけ」
「分かってる」
ノアが目を閉じる。緑と紫、二つの魔力が細い糸になる。月の白石、三本目の線が淡く光る。
「南西。少し近づいてる」
セラ、避難隊――どちらがどちらへ近づいているのか、分からない。
「リア」ノアが呼ぶ。「起きなくていい。声だけ姉さんへ送って」
沈黙。その後、少女の唇が小さく開く。
「……セラ」
かすれた声。
「もう一度」とノアが言う。「名前を」
「セラお姉ちゃん」
紫の糸が月の白石の方向へ伸びる。三本目の線へ重なる。白石の光。南西へ、道が開く。
同時に、歌が部屋の中へ聞こえ始めた。静かな旋律。言葉はない。バーバラがリアへ歌ったものとは違う、もっと高く柔らかい、子どもを眠らせるための歌。
「聞こえる」と母が呟く。
「耳を塞いで」
俺は言った。普通の音か、魔力の音か、判断できない。全員が白石の欠片を耳の近くへ当てる。歌は少し遠くなる。だが、消えない。
『怖くない』――歌の中、女の声。『眠れば、全部終わる』
セラ、姉の声。だが言葉は、泉主が与えたもの。
『苦しい道を歩かなくていい。失ったものも思い出さなくていい』
避難している人々は疲れ、恐怖の中で家を離れ、夜通し歩いた。その心へ、眠ればいい、任せればいいと囁く。
「これは危ない」とダグラスが言う。「聞くだけで身体の力が抜ける」
鎮静。歌に泉の力が乗っている。眠った人間へ、第三の根が深く接続する。
「リア。姉さんは、今の言葉を本当に言う?」
俺が尋ねる。少女の瞼が震える。
「言わない」小さな返事。「セラお姉ちゃんは、起きてって言う」
「どんな時?」
「朝、寒くても、起きて、歩こうって」
避難、逃げる、辛い。それでも、本物の姉なら眠れとは言わない。歩こう、生きよう、そう言う。
「それを返して」
リアの紫が強くなる。
「セラお姉ちゃん!」
声が今度は部屋だけではない。白石の道を通り、遠くへ伸びる。
「起きて! 一緒に歩くって言ったでしょう!」
歌が一瞬途切れた。月の白石、三本目の線が激しく揺れる。セラへ届いた。
『リア?』遠い、女の声。歌ではない。驚き。『生きているの?』
「生きてる!」リアが目を閉じたまま叫ぶ。「お姉ちゃんも戻って!」
セラの気配が揺れる。その周囲、大勢のぼんやりした意識、村人たち――すでに歌を聞いている。何人かは眠りへ落ちかけている。
「遅かった?」とバーバラが不安そうに尋ねる。
「まだ」
俺は月の白石を見る。三本目の線は、完全には太くなっていない。接続は始まったばかりだ。
「セラが歌を止めれば、道も弱くなる」
「でも」ノアの顔が苦しそうに歪む。「何かが姉さんの中にいる」
泉主。第三の根の意識。第一、第二とは別の断片。
「声は?」
「女の声。セラと同じ」
本人の声を使い、本人へ話しかけている。
『リアは偽物だ。あの子はもう空白になった。今聞こえる声は、お前を止めるための罠』
セラの中で、泉が妹を疑わせる。
「リア」と俺は言う。「姉さんにしか分からないこと、何かある?」
少女は目を閉じたまま必死に探す。名前、歌、姉――消された記憶の中、残ったもの。
「右手」
「何?」
「お姉ちゃんの右手。小さい指、曲がらない」
怪我。昔、何かで右手の小指を痛めた。
「どうして?」
「私を守ったから」
記憶が流れ込む。幼い姉妹、森の中の古い小屋、崩れた棚、落ちる瓶の音。まだ小さいリアが、棚の下で泣いている。セラが飛び出し、妹を押しのける。次の瞬間、棚全体が崩れ落ち、右手がその下敷きになる。小指は、完全には治らないまま、大人になった今も、少しだけ曲がったままだった。
「伝えて」とリアが声を送る。「私が薬棚を倒した時、お姉ちゃんが右手で守ってくれた。今も、小指、曲がらないでしょう」
遠い場所で、息を呑む声。『リア』――今度は、疑いが薄い。本物の姉。
「お姉ちゃん、歌を止めて」
『でも、止めたら皆が怖がる』
「怖くても歩くの。お姉ちゃんが教えてくれた」
『私はもう、歩けない』
何。リアの紫が大きく揺れる。
「どこか痛い?」
『足が、泉の中にある』
第三の根。セラは、ただ接続されているだけではない。身体の一部が根へ変わっている。歩いて避難隊へ近づいているのではない。第三の根が地中を通じ、彼女を運んでいる。
「見える?」と俺はノアへ聞く。
「足――青い。膝から下、根になってる」ノアの声がかすれる。「もう、人の足じゃない」
接続媒体、生体。セラ自身が第三の根の先端、歩く出口へ変えられている。
「切り離せる?」とダグラスが尋ねる。
「分からない」
ノア、リア、前世知識の白石を使えば、医術的に根と身体を分ける方法を探せる。だが遠隔で、本人に触れられない。
「アーヴィンが追いつけば」
伝令板が光り、返事が来た。
『避難隊発見』『多数睡眠』『セラ確認』『接近困難』
間に合った。だが、セラの周囲、第三の根の力に近づけない。
『地面より銀根』『白石効果低下』
「第三の根は白石が効きにくい?」
第一、第二は水と泉の魔力で、白石で分散できた。第三は歌、血縁、生体――性質が違う。
「太陽の黒石」
俺は言った。第二の根に使う黒石。だが今、家にある。持って行く時間はない。
「月の白石は?」
第一用。第三の線を今示している。
「第三専用の物があるはず」
第一、月の白石。第二、太陽の黒石。第三、何か。父の記録――色、白、黒、次。
「歌」
バーバラが呟く。「石ではない?」
第三鍵が物ではなかったように、第三の根を封じるものも、物とは限らない。
「接続が人と人なら」と俺は言う。「切るのも人」
「誰?」
「リア」
姉妹、血縁、歌。第三の根がセラを媒体に選んだ理由は、リアとの強い記憶。あるいは姉妹二人で、一つの封鎖機構になっている。
「リアがセラを拒絶する?」
母が首を横へ振る。「違う。泉を二人で拒絶する」
第一と第二の根は鍵と石。第三は、接続した二人が同時に、泉ではなく互いを選ぶ。
「お姉ちゃん、私を見て」
『見えない』
「歌じゃなく、私の声」
『聞こえる』
「私と帰る?」
長い沈黙。泉の声、歌、村人たちの眠り、地面の根――全てがセラを引き戻そうとする。
『帰りたい』
姉の声。初めて、はっきりした意思。
「じゃあ、泉をいらないって言って」
『言ったら、足がなくなる』
「なくなっても私がいる」
『歩けない』
「私も、まだ上手く歩けない」
リアは器にされた間、身体をほとんど動かしていない。今も自力で起きられない。
「一緒に練習する」
『私が、お姉ちゃんなのに』
「今度は私が支える」
バーバラの目から涙が落ちる。姉が妹を守った。今度は、妹が姉を戻す。
「セラ!」リアが声を強める。「泉じゃなく、私を選んで!」
南西、月の白石、三本目の線が激しく光る。伝令板の符号が乱れる。
『セラ』『抵抗』『第三流路不安定』
効いている。セラの足、根、泉の道が揺れる。
『できない』セラが泣く。『怖い』
「私も怖い!」
リアも泣きながら答える。「でも、お姉ちゃんが歌ってくれたから、怖くなかった。今度は私が呼ぶから、戻って!」
歌が止まる。完全に。夜明けの街道、静寂。眠っていた村人たちが、一人、二人、目を覚まし始める。
◇ ◇ ◇
『第三接続対象』『受容反応低下』
声は遠く、保存器からではない。第三の根そのもの。
『媒体拒絶』『接続率』『四十八』
高い。セラは、すでに半分近く根へ変わっている。
『四十二』『三十七』
下がる。だが、ノアが急に息を呑む。
「根が、足から胸へ上がってる」
「どうして」
「切られる前に、身体を全部取るつもり」
泉が媒体を失う前に、セラ全身を根へ変える。
「アーヴィンへ! 白石じゃなく、セラを地面から離せ!」
ゲイルが伝令板へ符号を打つ。返答――
『接近不能』『銀根障壁』
「なら、根を切る」とオリヴィアが言う。
「普通の刃じゃ通らない」
ゲイルは採石場で銀根と戦った。
「冷水、白石、同時なら弱められる」
避難隊は水と白石を持っている。だが第三は白石の効果が弱い。
「歌を逆に使う」
俺は言った。第三の根は、セラの歌で周囲を眠らせた。今、歌が止まった。代わりに、リアの声を皆で繰り返す。人の声、大勢。泉の歌を押し返す。
「村人たちにセラを呼ばせる」
「名前を?」
「うん。器ではない、媒体ではない、人間。セラ・ノルン」
「アーヴィンへ送って」
『全員でセラの名を呼べ』『眠る者を起こせ』『地面へ冷水』『白石をセラ周囲へ集中』
符号を送信。少しして、遠くから声が聞こえた。最初は一人。
『セラ!』
次に二人、三人。目を覚ました村人たちが名前を呼ぶ。
『セラ!』『セラ!』
知らない者も、意味が分からなくても呼ぶ。歌ではない、揃ってもいない、必死な声はそれぞれ違う。だから、泉の一つの意思へ染められない。
『第三接続率』『三十一』『二十六』
下がる。ノアがセラの状態を追う。
「青が胸の手前で止まった」
「足は?」
「まだ根。でも紫がある」
セラ自身の魔力の色は、リアより少し濃い紫。姉妹はよく似ている。
「リア、姉さんの紫を引いて」
「分からない」
「名前を呼ぶだけ。力は使わなくていい」
リアが何度も姉の名を呼ぶ。「セラ。セラお姉ちゃん。帰ってきて」
紫の糸、姉妹の間が強くなる。セラの足、青い根の中から紫が少しずつ上へ戻る。
『第三接続率』『十九』『十二』
井戸、噴き出していた青い水が少し低くなる。中央の泉への圧、第三の流路が拒絶されることで弱まっている。
『八』『四』
あと少し。だが突然、月の白石、三本目の線が赤く染まった。
「何」とダグラスが石を見る。
『第三媒体』『切断不能』『生体根融合率』『九十六』
接続率は下がった。泉主への受容はほぼ消えた。だが、身体と根の融合が進みすぎている。セラ本人が拒絶しても、足はもう人間へ戻らない可能性がある。
「切るしかない」とノアが震える声で言う。「根になった足を、身体から」
切断。命を救うため、両脚を失う。部屋の中が、一瞬、静まり返った。誰もその言葉を、簡単には受け止められない。バーバラが口を押さえ、母の目にはすでに涙が浮かんでいる。だが、迷っている時間はなかった。青い根は、今この瞬間も、胸へ向かって這い上がり続けている。
「セラに選ばせる」
俺は言った。「時間がない。それでも、身体はセラのもの」
リアを通じ、姉へ伝える。「お姉ちゃん、足を切らないと、根が胸まで来る」
セラの息が震える。『切ったら、もう歩けない』
「うん」
『リアと一緒に歩けない』
「私も」とリアが涙を流す。「まだ歩けない。だから一緒に練習する」
『足がなくても?』
「うん」
簡単ではない。歩ける保証もない。義足、補助、医術。今の世界でどこまでできるか分からない。それでも、生きて方法を探す。
「俺が」と俺は口を開く。「医術を学ぶ。セラが歩ける方法も探す。約束する」
母が俺を見る。未来の約束を、簡単には口にできない。だが今、生きる理由が必要だった。
『本当に?』とセラの声。
「うん。前世の俺は医魔術師だった。今はほとんど覚えてない。でも知識は残ってる。ノアもいる。ダグラスもいる。皆で探す」
ダグラスが少し呆れたように、それでも頷く。「必ず歩けるとは言えん。だが、できることは全部やる」
『怖い』
「怖くていい」と俺は言った。「それでも生きる方を選んで」
沈黙は長い。第三の根、青が胸へ少しずつ近づく。
『……切って』とセラが答えた。『リアのところへ帰りたい』
「アーヴィンへ!」
ゲイルが符号を送る。『両脚根化』『膝上で切断』『止血準備』『本人同意』
伝令板の返答は即座だった。『了解』
現地の悲鳴は、こちらへ直接は届かない。だがリアが姉の手をつないでいるように、泣き叫ぶ。「お姉ちゃん! ここにいる! 離れない!」
セラの声には痛みと恐怖がある。『歌って』
リアが一瞬止まる。『歌を、歌って』
姉が妹へ歌っていた。今度は妹が姉へ。リアは言葉のない旋律を、震える声で歌い始める。バーバラも同じ歌を重ねる。完全には同じではない。それでも怖くないように、帰ってこられるように。ノアが緑の魔力で姉妹の道を支える。
「切断!」
伝令板が赤く光る。次の瞬間、第三の線が月の白石から消えた。
『第三媒体』『根部切断』『接続解除』
セラの気配が一瞬途絶える。
「お姉ちゃん?」
リアの歌が止まる。「セラお姉ちゃん!」
返事はない。紫の糸は細く、消えそうだった。ノアが必死に支える。
「まだいる。弱いけど、いる」
伝令板の符号――『止血中』『意識消失』『脈あり』
生きている。リアの身体から力が抜ける。涙を流したまま、再び深い眠りへ落ちる。
井戸、青い水の噴き上がる高さが急に下がった。一本の細い柱になり、やがて井戸の縁へ戻る。青はまだ消えない。だが流れは大きく弱まった。荒れ狂っていた水音が、次第に、ただの湧き水のような穏やかな響きへと変わっていく。誰もが、その変化に気づき、しばらくの間、口を開かなかった。
「第三の根は?」とオリヴィアが尋ねる。
月の白石、三本目の線は消えている。
「封じた?」
「違う」
俺は答える。「媒体を切っただけ」
第三の根本体はまだどこかにある。セラを生体の出口として使えなくなった、それだけだ。中央の泉から扉の亀裂へかかる圧は、第一、第二、第三、三つの流路が一時的に閉じたことで弱まっている。
「亀裂」
伝令板へ、採石場の状況をゲイルが問う。アーヴィンはセラの救護中で、採石場には警護官の一人を残している。返答――
『漏出低下』『亀裂縮小』
自然に扉が閉じようとしている。
『完全閉鎖まで』『推定一刻』
一刻。その間、三つの流路を再接続させなければ、亀裂は閉じる。
「終わる?」とノアが尋ねる。
「今は、たぶん」
マティアスは逃走中。第三の根は場所不明。中央の泉、本物の第三鍵。問題は残る。だが今、村人、セラ、リア――助かった。
そう思った時、月の白石、消えていた三本目の線の隣に、新しい点が浮かんだ。赤く、小さい。
「何?」とバーバラが石を覗き込む。
点は線ではない。根へつながっていない。人。一つの接続先。保存器を開いていない。それでも声が響く。
『第三流路』『代替媒体を探索』
「また?」
第三の根はセラを失った。だから新しい媒体を探す。
『血縁記憶』『歌唱記憶』『適合対象』
部屋の中、誰かの魔力が反応する。紫、眠るリア。
「駄目」
ノアが少女の手を強く握る。姉を切り離したことで、最も近い血縁、同じ歌の記憶。泉は次の媒体として、妹を選ぶ。
『代替媒体』『リア・ノルン』『接続開始』
リアの胸に残っていた小さな青い欠片が、強く脈打ち始めた。
部屋の空気が、ふいに冷たくなった気がした。窓の外はようやく白み始めていたが、その光さえ、今は薄く遠く感じられる。姉を取り戻したはずの安堵は、一瞬で凍りついた。
「ノア」
俺は少年の名を呼んだ。声が、自分でも分かるほど硬くなっている。
「まだ、終わってない」
ノアが頷く代わりに、リアの手を、両手で包み込むように強く握った。月の白石に浮かんだ赤い点は、まだ小さい。だが、消える気配はなかった。次の戦いが、もう始まろうとしている。




