Ep208. 青い井戸
誰も使っていないはずの井戸から、青い水が夜明けの空へ噴き上がっていた。
「井戸から離れろ!」
ゲイルの声が、伝令板の向こうではなく、家の外から直接響いた。採石場へ向かったはずの彼が、リアを抱えたオリヴィアたちと共に村へ戻ってきていたのだ。道の向こうにはゲイル、アーヴィン、二人の警護官、そして腕の中にいる少女がいた。淡い紫の魔力をまとったリアは、意識を失っている。
「リア!」
ノアが立ち上がろうとする。だが足に力が入らず、その場に膝をついた。
「無理するな」
ダグラスが支える。
「生きている。呼吸もある。でも――井戸だ」
リアの身体から白い模造魔力は抜けていた。扉との接続率も零になっている。それなのに、中央の泉から漏れた力は別の道を見つけ、村の井戸から噴き出していた。
「どうして」
バーバラが窓の外を見る。「第一の根は、封じたはずでしょう」
「封じたのは採石場の根だ」俺は答えた。「井戸まで完全に閉じたわけじゃない。第一の根は地下水脈へ伸びていた。逆流で封鎖された後も、水の道そのものは残っている。中央の泉から漏れた魔力が古い流路を逆にたどり、最も開きやすい出口――地上へ出たんだ」
「水へ触れるな!」
アーヴィンが家々の間へ声を飛ばす。村人はすでに避難を終え、残っているのは俺たちだけだった。だが青い水は井戸の周囲へ雨のように降り注いでいる。地面、石、屋根――乾いた土へ触れた場所から、細い銀色の線が広がり始めていた。
「根になる」俺は言った。「水が落ちた場所が、全部新しい出口になる」
今はまだ髪の毛ほどの銀の線でしかない。だが人間の魔力へ触れれば成長する。
「白石を!」
ゲイルが叫ぶと、警護官たちが道の両側へ準備していた石を並べ始めた。乳白色の光に触れた青い水は、色を失い、普通の水へ戻っていく。だが噴出量が多く、白石の数がまるで足りない。
「井戸そのものを塞ぐ」
ゲイルが大きな石板を指す。村の共同作業用の荷車の台、木材――何でも使うつもりらしい。
「上から塞いでも」俺は止めた。「圧が逃げなくなる。地下で別の場所へ出るだけだ」
「ではどうする」
「水を一か所へ集める」
「川へ流す?」オリヴィアがリアを母へ預けながら尋ねる。「普通の川へ出せば薄まる」
薬師小屋で保存器の汚染を切った時と同じ方法だ。白石を並べ、川へ流す。
「でもこの量は、あの時とは違う」ダグラスが言う。
井戸から絶え間なく青い水が噴き出している。村の西の川まで白石の道を作るには距離がありすぎた。
「排水路」バーバラが言った。「畑の水路なら、川までつながってる」
村の中央から畑、そして西の川へ。雨の多い時期に水を逃がすための溝は、今は乾いている。
「そこまで水を誘導するのか」
ゲイルが頷く。「溝を掘り直すぞ!」
皆が動く。鍬、板、土袋。井戸の周囲から排水路まで、青い水が家々へ広がらないよう低い道を作っていく。
「俺も」
「動かないでください」
言う前に母に止められた。
「指示はここからできます」
「見えない」
「窓から見えます」
確かに、今の身体で外へ出ても邪魔になるだけだった。俺は隣を見る。ノアはリアから視線を離せずにいた。少女はバーバラの腕の中で、白い顔、閉じた瞳のまま横たわっている。呼吸は弱いが安定していた。
「リアを診る?」
ノアが自分の胸へ触れる。「僕にできる?」
「金色の石を使う」
前世の人格を削ぎ、知識だけにした白石が机の上にある。
「知識を少し借りる」
「また、ルークになる?」
「ならない。人格は分けた。でも怖いなら使わなくていい」
ノアは迷い、リアの顔を見る。自分と同じ、名前を奪われ別の誰かの器にされた少女だった。
「使う。一人で触らない」
「うん」
ダグラスが金色の白石を別の白石で囲う。直接記憶が流れ込まないよう、表面へ必要な知識だけを浮かせるためだ。
「何を調べる」俺が尋ねる。
「白い魔力が、全部抜けたか」ノアが答えた。「残ってたら、また扉につながる」
その通りだった。接続率は零。だが模造魔力の欠片が少女の中に残っていれば、中央の泉からの漏出に反応する可能性がある。
「やる」
ノアが緑の魔力を石へ流す。金色の中から治療術式、魔力路の検査、異物の残留を探す知識が表面へ浮かぶ。ノアの目が一瞬だけ金色に光った。
「声は?」俺が聞く。
「ない。前世の記憶は見えない。知識だけだ」
成功だ。ダグラスがリアを寝台へ移す。ノアは少女の手首へ触れた。緑の魔力が細く、慎重に身体へ入っていく。
「紫。全身にある。本人の魔力だ」
「白は?」
「見つからない」
呼吸、胸、頭――魔力路の中心を順番に確かめていく。
「待って」
ノアの顔が強張った。
「何かある?」
「白じゃない。青だ」
全員の視線がリアへ向いた。
「どこ」
「胸の奥。小さい」
「泉の魔力か?」
「分からない」
俺の身体にも、逆流後に青い魔力が残っていた。接続痕、泉口。だがリアは中央の扉へ直接つながれていた。模造魔力を抜いても、その時に中央の泉の欠片が入り込んだ可能性がある。
「取り出せる?」俺が尋ねる。
ノアは首を横へ振った。「紫とくっついてる。無理に抜いたら、リアの魔力も傷つく」
泉主の断片が記憶返還経路と結びついていた時と同じだ。簡単には除けない。
「今は触らない」ダグラスが決める。「青が広がるか、まず観察する」
「でも」ノアが不安そうに言う。「井戸の水と、同じ速さで動いてる」
リアの胸の小さな青と、井戸から噴く水の脈が同じだった。
「漏出の新しい接続先か」俺は呟いた。扉から切り離した。だが中央の泉は少女へ触れた痕を残していた。今、井戸から漏れる力とリアの中の欠片が共鳴している。
「水を止めれば、青も止まる?」
「たぶん」
「なら先に井戸だ!」ゲイルの声が窓の外から響いた。
◇ ◇ ◇
排水路が川までつながった。井戸の周囲へ木の板を斜めに組み、青い水を一方向へ集める。白石を水路の両側へ並べると、井戸から流れ出た青は一つ目の白石で薄まり、二つ目、三つ目と進むごとに透明へ近づいていった。畑の端、川へ入る頃にはほとんど普通の水になっている。
「効いてる」オリヴィアが言う。「でも水は止まらない」
中央の泉の亀裂から流れ続ける限り、井戸は噴き続ける。
「元を閉じないと」俺は言った。「採石場の扉の傷を塞ぐ」
マティアスは逃げた。現地にはゲイルたちがいて、扉の亀裂を確認している。伝令板へ符号が届いた。『亀裂・拡大停止・漏出継続』。少女との接続を切ったことで傷は広がっていない。だが自然には閉じない。
「修復方法は?」
遠隔筆記器でセオドアへ情報を送る。『中央泉扉亀裂、修復方法を求む』。返答を待つ間、俺は父の記録を探した。中央の泉、第三鍵、扉――直接の記述は少ない。未解読文書は王都にあり、今ここにあるのは父が持ち帰った帳面だけだ。
「これ」バーバラが一枚の紙を見つける。水路の図。第一の根、第二の根、中央。その周囲へ三つの印がある。一つは第一鍵、一つは第二鍵、最後は空白だった。
『中央扉は鍵で閉じることができない。鍵は開くためのもの』
第一鍵、第二鍵は根を封じる時に使った。だが中央の扉は違う。第三鍵は開くためだけの鍵で、閉じる道具ではないらしい。
「じゃあ亀裂はどうやって」
紙の続きにはこうあった。『傷は扉の外から塞ぐのではなく、内側から流れを止める』。中央の泉の内側――入らなければ止められない。
「駄目」母が俺を見る。
「何も言ってない」
「顔が。中へ入る方法を考えています」
考えていたのは事実だ。本物の第三鍵、俺が扉を開き、中へ入り、泉の流れを内側から止める。それしかない気がしていた。
「それは最後」俺は言った。「他の方法を探す」
「本当に?」
「うん」
今は亀裂が小さい。水は排水路で処理できている。時間は少しある。
「外から流れを弱める方法はないか」
ダグラスが紙の下部を指す。『扉周辺の三流路を同時に閉じることで、中央圧を低下させる』。三流路とは第一の根、第二の根、第三の根のことだ。まだ第三の根の場所が分からない。第一と第二は封じた。第三も閉じれば中央の泉から扉へかかる圧が下がり、亀裂からの漏出も止まる可能性がある。
「第三の根を探す」俺は言った。
「どうやって」オリヴィアが井戸から戻り、部屋へ入ってくる。服は濡れ、髪にも水がついていたが、青くはない。白石を通した後の普通の水だった。
「紋章。父さんの白石だ」
三本の根――第一、第二、第三の位置を示していた可能性がある。
「白石は保存器と一緒に?」
「違う。太陽の黒石と一緒に家にある」
第一鍵を開く必要はない。父の月の白石は、今泉の漏出が起きているなら三本目へ反応するかもしれなかった。バーバラが布包みを持ってくる。乳白色の石には三本の線があり、第一は北、第二は東、第三は――今までは薄く、動かなかった。だが机へ置いた瞬間、三本目の線が淡く光った。方向は南西。
「村の外?」オリヴィアが窓の外を見る。南西は避難した村人たちが向かった宿場町の方角だった。
「まずい」ゲイルが戻ってくる。服も腕も泥と血で汚れていたが、大きな怪我はない。
「第三の根が避難先に?」
「まだ分からない。でも方向は同じだ」
村人たち、トム、家族――全員が南の宿場へ向かっている。第三の根がその近くにあるなら、中央の泉からの圧が今度はそちらへ流れる可能性があった。
「伝令を」アーヴィンが金属板を取る。「避難隊へ知らせる。水に触れるな、井戸を使うな、宿場町へ入る前に止まれ」
符号を送る。だが避難隊に受信板はない。街道の監視所を通じて追いかけるしかなかった。
「誰か行く」ゲイルが言う。
「俺が」
「休んで」オリヴィアが彼の腕の血を見る。
「軽い」
「軽くても」
「アーヴィン、私が行きます」
警護官の一人を連れ、馬で追う。また一人ではない。
「第三の根の場所を、もっと正確に知りたい」俺は白石を見る。線は南西を示すだけで、距離も地形も分からない。
「リア」ノアが小さく言った。少女の胸の青は、井戸の水と同じ速さで動いている。中央の泉に触れたのなら、三本の根の流れも感じる可能性があった。
「起きてない」バーバラが言う。
「無理に起こさない」俺は答える。「ノアが触れられる?」
「少しなら」
リアの紫とノアの緑は、一度つながった。今も薄い道が残っている。
「青を追うだけ。泉へは入らない」
「うん」
ノアがリアの手を握り、目を閉じた。
「青いのが二つある」
「二つ?」
「井戸の方と、それと――遠い方」
「南西か」
ノアが頷く。「でも動いてる」
「根が?」
「違う。誰かが運んでる」
第三の根は動くはずがない。地中に固定されているはずだ。
「根じゃない」俺は言った。「根へつながる物だ」
第二の根は北井戸の水を媒体に王弟と国王へ接続した。第三の根にも媒体――泉の一部があるはずで、誰かがそれを運んでいる。
「どこへ?」ノアがリアの手を強く握る。
「宿場、避難した人たちの近く」
「誰が」
「分からない。でも歌が聞こえる」
歌。リアの中に残っていた、怖くなくなる歌。本人の記憶だと思っていた。だがその歌が、遠い第三の流れからも聞こえている。
「リアは第三の根の近くにいた?」
少女が器にされる前、どこで誰に捕まったのか。記憶を消され、名前を奪われた場所が、第三の根の近くだった可能性があった。
「歌った人が、今、媒体を運んでる。知ってる人?」
「たぶん」
ノアの声が震える。「リアが泣いてる」
意識はない。それでも目尻から一滴、涙が落ちた。
『行かないで――お姉ちゃん』
小さな声。姉、歌を歌ってくれた人が、第三の根へつながる媒体を持ち、避難隊の近くへ向かっている。
その時、遠隔筆記器へセオドアからの返答が届いた。
『中央泉漏出の停止条件――第三の根の封鎖、第三接続媒体の破壊。媒体は生体である可能性が高い』
生体。人間。リアの姉。第三の根へつながる媒体。
「破壊って」バーバラが声を失う。人を壊せ、殺せ――そう読めなくもない。
「違う」俺は言った。「接続を破壊する。人じゃない」
ノアとリアへしたように、異物だけを抜き、本人を残す。だが第三の根は今までと違う。場所も仕組みも分からない。そして避難隊には戦う準備も白石も少なかった。
「急ぐ」アーヴィンが外へ向かう。「追いついたら、誰も水へ近づけない。歌う女性を探す」
「近づく前に、名前を聞いて」俺は止めた。
「誰の?」
「姉の。リアが覚えてるかもしれない」
名前は、器へ変えられた人を本人へ戻す最初の道だ。
「リア」バーバラが少女の頬へ触れる。「お姉さんの名前を、思い出せる?」
閉じた瞳、反応なし。ノアが緑の魔力をそっと流す。
「歌を、追って」
紫の奥、記憶、名前。少女の唇が僅かに動いた。
「……セラ」
「セラ?」
もう一度、小さく。
「セラお姉ちゃん」
アーヴィンがその名を覚える。「必ず見つけます」
馬の蹄の音。二人が南へ走り出す。俺たちは月の白石を見た。三本目の線は先ほどより強く光っている。南西、避難隊、セラ、第三の根。そして村の井戸から、青い水がさらに高く噴き上がった。
『第三流路――接続開始』
保存器を開いていないのに、遠くから声が響く。
『第三接続媒体――対象を確認』
名前が届く。
『セラ・ノルン』
リアの姉。第三の根はすでに、彼女を通じて避難した村人たちへ、新しい道を開き始めていた。




