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Ep207. 白い器の名前

『白い器』


『扉と接続』


伝令板の光が激しく明滅していた。採石場、第一封鎖室のさらに奥、中央の泉へ続く扉。そこへ、少女がつながれている。


「助けに行く」と俺が言うと、バーバラがすぐに肩を押さえた。「行けません」「でも」「あなたが近づけば、中央の泉に本物の鍵として認識されます」。分かっている。俺が採石場へ行けば、マティアスの目的を自分から完成させることになる。


「じゃあ、ここから切る」「どうやって?」「ノアと同じだ」。少年からは前世の記憶を切り離した。少女にも、今世の俺を模した魔力が埋め込まれている。それを本人の魔力から分ければ、扉との接続を止められるかもしれない。


「相手に触れずに?」とダグラスが尋ねる。「ノアと少女は同じ、偽物の第三鍵。二人の間に道があるはずだ」。ノアが顔を上げる。「僕が、白い子につながる?」「たぶん」。


マティアスの泉主の記憶、ノアの前世の記憶、少女に埋め込まれた今世の俺を模した魔力――三つは一つの術式として組まれている。ノアの中から前世の人格部分は抜けた。だが術式の痕跡までは消えていない。


「危険よ」とバーバラが言う。「ノアは、今やっと自分を取り戻したばかりよ」「うん」。俺も、ノアをもう一度道具にしたくない。


「僕がやる」とノアが言った。声はまだ小さい。それでも迷ってはいない。「白い子を助けたい。でも、また前世の記憶が戻るかもしれない」「戻さない」「泉主の声も聞こえるかもしれない」「それでも」。ノアは金色へ変わった白石を見る。前世の人格を削ぎ、医術の知識だけへ分けようとしていた石だ。「この知識、使える?」「たぶん」。人格ではない、誰かの人生でもない、ただの知識。それなら、ノアを別人へ変えずに、助ける力として使える。


「俺がやり方を考える」「一緒に?」「一緒に」。ノアが僅かに頷く。母は俺とノアを見比べた。「二人だけではやりません」「うん」「ダグラスさんも」「私も、ここにいます」「うん」。一人ではない。それが絶対条件だった。


   ◇ ◇ ◇


伝令板へ新しい符号が届く。『扉接続率』『十四』。急速ではない、だが確実に進んでいる。


「採石場の状況をもっと送ってもらう」と俺は言った。伝令板は短い符号しか使えない。それでも、決められた意味を組み合わせれば、ある程度の情報は得られる。ダグラスがアーヴィンから教わった符号を順番に送ると、『少女の状態』への返答は『意識あり』『拘束』『白色魔力増大』『マティアス接触中』と続いた。


「マティアスが直接術式を維持してる」「なら」とダグラスが言う。「奴の手を離させれば接続が弱まる可能性がある」「ゲイルたちが戦ってる」。だがマティアスは泉の身体強化を受けている。白石の罠で力は弱まっているはずだが、それでも警護官二人、ゲイル、アーヴィン、オリヴィアの五人がかりでまだ止められていない。


『負傷者』と俺が送ると、返答は『一』。誰か。『軽傷』。それ以上は分からない。「オリヴィア?」とバーバラが呟く。「考えない」と俺は言った。「今は少女を切る」。負傷者が誰か想像すれば焦る。焦れば判断を誤る。まず、自分たちにできることをやる。


「ノア、胸の緑、感じる?」。ノアが目を閉じる。「少し。前世の術式があった場所は空っぽ。でも端に何かある」。術式の残り、糸のように少女へつながる何か。俺は白石をノアの前へ置いた。金色の中に医術知識、人格のない術式が眠っている。


「これを少しだけ使う」「戻らない?」「全部入れない。俺とダグラスで必要な知識だけ読む」「どうやって」。白石へ直接触れれば記憶が流れ込む。だから触れない。白石の周囲へ乳白色の石を並べ、魔力を分散させる。その中から術式に必要な部分だけを表面へ浮かせる。


「父さんの保存器と逆だ」と俺は言う。「記憶を中へ入れるんじゃなく、知識だけ外へ出す」「できるのか?」「分からない」「またそれか」とダグラスが眉を寄せる。「でも石はもう、人格と知識を分け始めてる。ノアがさっき作った流れを続ければいい」。ノア自身が、異物だった前世の人格を知識から切り離した。その選択を白石が保持している。


「僕がやる」「無理はしない」「うん。少しでも前世の声が戻ったら、すぐ止める」「分かった」。バーバラがノアの背後へ座る。母ではない、だが少年の肩へそっと手を置いた。「怖くなったら言ってね」「……うん」。ノアは少し戸惑いながら答えた。誰かに心配されることに慣れていない、その顔は前世の俺と似ている。だが今は一人ではない。


   ◇ ◇ ◇


ノアが淡い緑の魔力を金色の白石へ流す。俺は少し離れた場所から魔力の動きを見る。前世の知識はほとんど失っている。それでも魔力路の形、異物の分離、流れの違い――身体が少し覚えている。金色の中には無数の景色が浮かんでいた。診療室、血、患者、薬、術式。だが声はない。前世の俺の感情も傲慢さも薄れている。


「必要なのは遠隔魔力路の分離」と俺は呟く。「それに近い記憶」。白石の金色が一部だけ強くなり、一枚の術式図が浮かぶ。人間二人、その間を結ぶ細い魔力線。片方へ異物が流れ込んだ時、線を切るのではなく異物だけを別方向へ逃がす術式だ。


「これは」とダグラスが目を細める。「双生児の魔力混線を治療する術式か」「知ってる?」「文献で見たことがある。使ったことはない」。双生児――生まれる前から魔力路が近い者。片方の魔力がもう片方へ流れ込む病、その治療術式。ノアと少女は血縁ではない。だが偽物の第三鍵として、術式上は一つに結ばれている。


「使える」と俺は言った。「ノアから少女の白い魔力へ、道を逆に開く」「そこへ、今世の俺を模した部分だけ戻す?」とバーバラが尋ねる。「違う。戻したら少女の中に残る。白石へ逃がす」「また記憶を石に入れるのか」「記憶じゃない、模造魔力だ」。今世の俺を真似るために少女へ入れられた白い空白、それを外へ抜く。少女自身の魔力だけを残す。


「少女の魔力は何色?」とノアが目を閉じたまま答える。「分からない。白しか見たことない」。元の魔力が完全に覆われている。ノアの緑のように、内側にまだ残っているはずだ。「呼びかける」「名前がない」「名前じゃなくていい。何を?」「自分で好きだったもの、覚えてるか聞く」。ノアは夢の中で、元の名前も家族も取られたと言った。少女も同じだろう。だが全部は消せない。感覚、好み、癖――どこかに本人の欠片が残る。


「接続する」とノアの声が震える。「怖い?」「少し」「止める?」「止めない」。少年はバーバラの手へ自分の指を重ねた。支えが必要だと自分から示した。「行く」。緑の魔力が白石の術式を通り、見えない道へ入る。ノアの身体が僅かに震える。


「見える?」「暗い」「水は?」「ない。白い」。少女の内側は何もない。名前も記憶も色も削られ、空白へ変えられた場所だ。「声をかけて」と俺は言う。ノアが小さく息を吸う。「聞こえる?」。返事はない。「僕はノア。さっき名前を思い出した。君も何か残ってる?」。沈黙。ノアの額に汗が浮かぶ。「白いのが邪魔してる」「押し返さない。白の向こうへ、小さいものを探す」「何を」「好きだった音、匂い、食べ物。何でもいい」。ノアがさらに深く意識を向ける。


その時、伝令板が強く光った。『扉接続率』『二十七』。上がり方が速くなった。「マティアスが気づいた」。少女との接続へ別の誰かが触れた、ノアの存在を見つけたのだ。『侵入者』と低い声がノアの口から響いた。マティアスが少女との道を通じて話しかけている。


『前世の器、なぜ術式を捨てた』。ノアの顔が苦しそうに歪む。「返事しなくていい」と俺が言う。「少女だけ探して」。『お前は選ばれた、価値を与えられた』。前世の記憶、天才医魔術師――それがノアの価値だった。名前も過去も消された少年へ代わりに与えられた輝かしい人生。『何者でもなかったお前を、ルークにしてやった』。ノアの緑が僅かに揺れる。


「ノア」とバーバラが名前を呼ぶ。「あなたは誰かにならなくても、ここにいていいのよ」。ノアの目から涙が落ちる。「僕は何もない」「名前がある。さっき思い出した」「それだけ」「それで十分」。母の声は強い。「これから増やせばいいの」。好きなもの、嫌いなもの、人、場所、全部これから。「ノア」と俺も呼ぶ。「少女を一緒に連れて帰る」「うん」。緑が再び安定する。マティアスの声が遠ざかる。


その奥に小さな音があった。「聞こえた」とノアが言う。「何?」「歌」。少女の中、白い空白の下に誰かの歌がある。「どんな」「言葉はない。でも、知ってる歌みたい」。少女自身の記憶、誰かに歌ってもらった、あるいは自分で歌った歌だ。「その音を追って」。ノアが緑の魔力を歌の方へ伸ばす。白い空白に小さな亀裂が入り、そこから色が滲む。淡い紫。「見えた」「少女の魔力?」「紫。弱い、でもある」。本人が残っている。


「呼びかけて」「何て」「歌が好きだった?」とノアがそのまま尋ねる。長い沈黙。やがて微かな声が返る。『分からない』。少女――初めて本人の声だ。『でも怖くない』「どうして?」『誰かが歌ってくれたから』。記憶はない、相手も場所も分からない。だが歌を聞くと怖くなかった、その感情だけが残っている。


「それを離さないで」とノアが言う。「今から白いものを外す」『痛い?』「痛いかもしれない」『怖い』「僕も怖い」『でも』「一緒にやる」。少女の紫が少し強くなる。白い空白――マティアスが扉へつなぐために使っている、模造された今世の俺、それを白石へ逃がす。「ダグラス、術式を」「分かっている」。老人が白石の周囲へ新しい石を並べる。出口。模造魔力をノアへ戻さず、俺へも来させず、別の白石へ分散する。


「始める」とノアが言う。緑と少女の紫、二つが見えない道の両側から白い魔力を押し出す。金色の白石が今度は白く光り始めた。『扉接続率』『三十一』。まだ上がる。マティアスが少女の身体へさらに力を入れている。『やめろ』と少女の声の後ろで男が叫ぶ。『お前は空白であればいい。名前も記憶も必要ない』。少女の紫が弱くなる。


「歌」と俺は言う。「思い出して」『分からない』「分からなくていい。怖くなかったことだけ覚えてればいい」。母が小さく歌い始めた。言葉のない静かな旋律。少女の記憶にある歌とは違うかもしれない。それでも、誰かがそばで歌う、怖くない――その感情を今、作り直す。ノアも目を閉じたまま母の歌を聞く。少女の紫が再び強くなる。


『誰』と少女が尋ねる。「バーバラ」と母が答える。「ルークの母です」『母』。少女はその言葉を知らないように繰り返す。「あなたにもいたはずよ」『覚えてない』「なら、思い出すまで私が歌います」。白い魔力に大きな亀裂が入る。「今!」とノアが叫ぶ。俺とダグラスが白石の流れを開く。少女の白い空白が一気にこちらへ流れ込む。俺の今世を模した力、泣く声、母を求める感覚、弱い身体、前世の記憶への拒絶――俺の欠片に似せて作られたものが戻ろうとする。


「受け入れるな!」とダグラスの声。俺は自分の胸を両手で押さえる。これは俺ではない。似ている、だが少女へ埋められた模造品だ。「白石へ、全部」。乳白色の石が次々と白く輝く。一つ、二つ、三つ――模造魔力が分散される。『扉接続率』『三十三』『三十』『二十六』。下がる。少女が扉から離れ始めた。


伝令板へ新しい符号が届く。『少女』『拘束弱化』『オリヴィア接近』。現地でも動いている。オリヴィアが少女へ近づき、ゲイルたちがマティアスを引き離している。


「あと少し」とノアが苦しそうに言う。「紫を外へ」。最後の白が少女の魔力路から剥がれる。紫は小さい、だが全身へ広がっていく。『扉接続率』『十八』『九』『三』、そして『零』。接続、解除。同時に伝令板が強く光る。『少女確保』『生存』。


助かった。バーバラの歌がゆっくり止まる。ノアの身体が前へ倒れる。俺も力が抜ける。ダグラスがノアを支え、母が俺を抱き止めた。


「ノア、聞こえる?」「うん」「少女は」「いる。紫、消えてない」。本人の魔力が残った。「名前、分かる?」と俺は尋ねる。ノアは目を閉じたまま、少女との道へ最後に触れる。「まだ。でも歌の中に音がある」「どんな」「リ」――一音。「リ……ア」。完全ではない、名前の欠片。少女自身に残った記憶だ。


「リア?」とバーバラがそっと呼ぶ。伝令板が一度だけ紫に光った。向こうで少女がその音に反応した。「仮の名前だ」と俺は言う。「思い出すまで、リア」。ノアが僅かに笑った。「リア」――自分でその名を呼ぶ。助けた相手は偽物の器ではない、一人の少女だ。


その直後、採石場の方角から激しい衝撃音が響いた。伝令板が赤く点滅する。『マティアス』『逃走』。また逃げた。だが続く符号は不穏だった。『地下扉』『損傷』『白い器接続解除後も』『亀裂拡大』。少女を切り離した、扉接続率は零になった。それでも偽物の第三鍵が残した傷は消えていない。


「何が起きてる?」と俺が尋ねる。返答は『中央泉より』『漏出反応』。扉は開いていない。だが亀裂から、中央の泉の力が少しずつ漏れ始めている。さらに最後の符号が届いた。『漏出先』『第一封鎖室ではない』『地上へ移動』。


「地上?」。採石場の上、山、森、村――どこだ。次の瞬間、家の外、井戸の方角から水が噴き上がる音がした。窓が青い光に染まる。誰も使っていないはずの村の井戸から、青い水が夜明けの空へ高く噴き出していた。

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