Ep206. 偽物と呼ばれた二人
『出てこい』『偽物』——少年の声が、夜明け前の村へ静かに広がった。大声ではない。それでも家の壁を越え、胸の奥へ直接届く。前世の俺と同じ魔力、同じ記憶、同じ名前を、自分のものだと思っている声だった。窓の外はまだ暗く、遠くの家々も寝静まったままだ。だがこの声だけは、誰の眠りをも揺さぶるように響いていた。
「外へ出る」
俺が言うと、バーバラがすぐに首を横へ振った。夜明け前の薄暗い部屋の中でも、その表情の硬さははっきり分かった。
「駄目」
「家の前まで来る」
「それでも駄目」
「少年と話せるのは俺だけだ。だからこそ」
母は俺を抱き上げる。腕の力は、いつもよりずっと強かった。
「あなた一人では出しません」
一人では出ない。それは以前からの約束だった。
「皆で出る」
「歩けないでしょう」
「抱いて」
「結局そうなるのね」
母の声には怒りと諦めが混じっていた。ダグラスは既に武具を身につけ、窓の隙間からそっと外を確認している。
「少年一人だ」
「マティアスは?」
家の前の道、暗い家々の影。目を凝らしても、少年の後ろに人影は見当たらない。
「見えん。だが隠れている可能性は高い」低い声でダグラスが答える。「油断はできん」
白石の罠を越えられたのは、少年が泉の魔力を使っているからではない。前世の俺の魔力――金色の医魔術だ。白石は泉の青い力を弱めるが、人間の魔力までは完全に止められない。村を囲む結界は、あくまで泉そのものに由来する力を想定して組まれたものであり、人の内側に宿った知識や技術までは選り分けられないのだ。だからこそ、少年はここまで辿り着けた。
「少年を先に入らせた」と俺は言う。「マティアスは、俺たちがどう動くか見てる」
「なら」ダグラスが白石を一つ手に取る。「家から出ず、扉越しに話せ」
「向こうが少年を置いて逃げたら?」
「助けられる」
「罠なら?」
「それも考える」
窓の外で少年がまた口を開く。
『怖いのか。俺の人生を盗んだまま隠れているのか』
夢でも同じことを言われた。
「聞こえてる」俺は扉へ向かって声を上げた。幼い喉は、少年の魔力を通じた声ほど遠くへは届かない。だが静かな村、家の前なら聞こえる。
「お前の人生を盗んでない」
『なら返せ』
「何を?」
『名前、記憶、医術。全部だ』
「それは元々俺のもの」
『違う!』
少年の金色の魔力が夜の中で膨らみ、家の窓が小さく震えた。
『俺は覚えている。医術院、患者、研究、死んだ瞬間まで。お前は何を覚えている』
ほとんど覚えていない。前世の記憶の大半は父の保存器の中にある。俺に残っているのは知識の断片、感情の癖、いくつかの景色だけだ。輪郭のはっきりしない、霧の向こうにあるような記憶ばかりで、名前を呼ばれてもすぐには顔が浮かばないことすらある。
「少しだけ」
『なら俺の方が本物だ』
泉主も同じことを言った。記憶が本人を作る。多く覚えている方が本物だと。
「お前、元の名前は?」
沈黙。
「夢で聞いた。でも答えなかった」
『必要ない』
「家族は?」
『いない』
「本当に?」
『黙れ』
「好きだったもの、記憶を入れられる前」
少年の顔が僅かに歪む。暗くても分かる。あれは怒りではない、恐怖だった。まるで踏み込んではいけない場所に触れられたような反応だ。
『俺は初めからルークだ』
「嘘」
『違う!』
金色の光が地面へ走り、石が割れる。医魔術本来の使い方ではない。身体を治療する力を、荒々しく物へ叩きつけている。制御できていないのだ。記憶だけが先にあり、技術がまだ身体へ馴染んでいない。大人の手つきを真似ているだけの、危うい発現だった。
「前世の俺なら、そんな使い方しない」
少年が動きを止める。
『何』
「魔力路を壊してる。胸が痛いだろ」
少年の右手が無意識に胸へ触れる。図星だった。前世の俺の記憶は大人の身体を前提にしている。今の少年の身体では流せる量が違う。
「そのまま使えば死ぬ」
『脅しか』
「違う。俺も今の身体で前世の感覚を使って、何度も失敗した」
赤子の無力な筋肉と骨、思うように動かない魔力路。その苛立ちを、少年なら知っているはずだ。大人の感覚で子どもの身体を動かそうとした経験があるなら。
『俺はお前より使える』
「じゃあもう一度、魔力を出してみろ」
バーバラが俺の肩を掴む。
「煽らないで」
「確認するだけ」
「倒れたらどうするの」
「そこまで出せない」
少年は俺の言葉へ反応し、右手に金色の魔力を集める。強い光だった。だが光の中心が揺れ、経路が細い。胸から腕へ、途中で詰まっているのが分かる。
「やめろ」
『怖くなったか』
「お前が死ぬ」
『黙れ!』
少年が魔力を放とうとした瞬間、身体が大きく揺れた。均衡が崩れたように、金色の光が急に消え、膝をつく。荒い息だけが、静かな道に響いた。
「今!」
家の横、暗がりからオリヴィアと女性警護官が飛び出し、少年の左右へ白石を投げた。石は乾いた音を立てて地面を転がり、やがて乳白色に光り始める。泉の力ではないが、周囲の余分な魔力を分散する性質がある。光の輪が広がるにつれ、少年の金色がさらに弱くなっていった。
「触るな!」
少年が腕を振り、威嚇するように前へ出ようとする。オリヴィアがすっと距離を取った。
「攻撃しない!」
「嘘だ!」
「本当!」
「なら石をどけろ!」
「暴れないなら!」
少年は立ち上がろうとするが、足に力が入らず、その場に崩れかける。胸を押さえ、荒い呼吸を繰り返すばかりだった。
「ダグラス」
「分かってる」
老人が扉を開く。アーヴィン、警護官、ゲイル――全員が家の周囲を警戒する。俺はバーバラに抱かれたまま外へ出た。
「ルーク」母の声が耳元で響く。「絶対に離れないで」
「うん」
◇ ◇ ◇
少年が顔を上げる。近くで見ると俺より少し年上に見えた。七歳、八歳、そのくらいだろう。黒い髪、灰色の目。着ているものは旅の汚れで薄汚れており、袖口はほつれている。胸元の服から金色の術式が透けており、呼吸に合わせて微かに明滅していた。
「来るな」今度は魔力を通さない普通の声だった。幼く、夢の中で聞いた前世の俺の低い声ではない。少年自身の声だ。
「診るだけ」ダグラスが言う。
「触るな!」
「なら胸の痛みを我慢しろ」
「痛くない」
「顔が青い」
「黙れ」
「口の悪さはルークと同じだな」
「俺はそこまでじゃない」
周囲から視線が集まる。誰も同意しない。
「お前の、その身体」少年が俺を見る。目には強い執着が浮かんでいた。「俺のものじゃない」
「違う。俺の身体。記憶は俺のだ」
「一部は元々俺の」
「全部だ!」
少年が叫んだ瞬間、胸の術式が強く光る。今度は攻撃ではない。俺へ向かって、金色の細い線が伸びていく。白石の間を、まるで隙間を探すように通り抜けていく。
「下がれ!」ゲイルが斧の柄で線を叩く。だが触れられない。魔力は柄を通り抜け、俺の胸へ向かう。
「母さん」
バーバラが俺を抱いて横へ飛ぶ。線は軌道を変え、俺を追う。同じ記憶の道だからだ。
「切れない」俺は言う。「俺と少年の前世記憶がつながってる」
「第一鍵を使うか?」ダグラスが尋ねる。声には僅かな逡巡があった。
「駄目。泉へつながる」
「ならどうする」
「拒絶じゃない」
逆封鎖のときは、泉そのものを拒絶することで乗り切った。だが今、少年の中にあるものは前世の俺の記憶であり、完全な異物とは言い切れない。力ずくで切り離せば、少年の人格も、俺に残ったわずかな記憶も、どちらも傷つくことになる。慎重に扱わなければならなかった。
「受け止める」
「何を」
「記憶」
母の腕に、これまでにない力がこもった。抱きしめられているというより、支えられているという感覚に近い。
「戻すの?」
「全部じゃない。流れてくるものだけ」
「第三鍵が完成するかもしれない」母の声には、はっきりとした恐れがあった。
「完成させない」
「どうやって」
「俺の中に入れない」
記憶を俺へ戻さず、別の場所へ流す。保存器は村の外れに埋めてあり、今から取りに行く時間はない。
「第一鍵じゃなく白石へ」
白石は魔力を分散する。記憶も魔力に乗っているなら薄められる可能性がある。
「散らしたら記憶は失われる」ダグラスが言う。「少年からも、俺からも」
「今は奪い合うよりいい」
「少年の同意がない」
「聞く」
金色の線は俺の胸の前まで迫っていた。バーバラが白石をかざし、どうにか遅らせている。
「お前」俺は少年へ呼びかける。「このまま記憶を引っ張ったら身体が壊れる」
「嘘だ」
「胸、痛いだろ」
少年は答えない。
「前世の記憶を、一度白石へ逃がす」
「何?」
「お前から完全に消すんじゃない。暴走してる部分だけ止める」
「俺から奪うつもりか」
「違う。お前の名前を取り戻すため」
少年の顔が揺れる。
「前世の俺が全部になってる。だから元のお前の声が出られない」
『違う』魔力を通じた前世の声。同時に少年の口が別の言葉を作る。
「僕は……」
一瞬、小さい声だった。だが金色の光がすぐに強まり、それを押し潰す。
『俺はルークだ!』
二つの声が少年の中で争っている。
「今の、聞こえた?」オリヴィアが言う。
「僕って言った」
少年の瞳が大きく揺れる。
「言ってない」
「言った」
「黙れ」
「元のあなたが、まだいる」
「いない!」
「いる」
俺は少年を見る。
「お前の本当の名前、思い出せ」
『必要ない』
「必要ある」
『名前など記憶より価値がない』
「違う」
『同じ記憶を持つなら、同じ人間だ』
「俺と泉主は同じ魂でも違った」
『それは』
「選んだことが違うから」
少年も今、選べるはずだった。前世の俺として、俺から何かを奪い続けるか。それとも、自分自身として生きるか。
「お前はルークじゃなくていい」
『なら俺は誰だ』
前世の声と、少年自身の声が重なって響く。どちらも本気だった。
「それを、これから決める。元の名前を思い出してもいい、新しい名前を選んでもいい。でも――俺になる必要はない」
金色の線が僅かに弱くなる。少年の胸、術式の下から別の光が見えた。青でも金でもない、淡い緑――少年自身の魔力が、まだ残っていた。
「ダグラス、見えてる?緑の魔力路を金色から分ける、できるか?」
「医魔術の知識、少年も持ってる。一緒にやる」
相手が協力すれば、自分の身体の内側から前世の記憶が使う経路を押し出せる。
「聞こえる?胸の中、緑の流れ」
少年は荒い呼吸を繰り返す。
「知らない」
「前世の記憶じゃなく、元からあった方」
「分からない」
「目を閉じて」
『命令するな』
「お前に言ってない。中の子に言ってる」
少年の目が怒りで開くが、少しして、ゆっくり閉じた。前世の声が何か叫んでいる。聞かない。
「緑、胸の奥、小さい。でもお前のもの」
少年の呼吸が僅かに整う。
「ある?」
「……分からない」
少年自身の声が、初めてはっきり返事をした。
「温かい?」
「少し」
「そこから名前を探して」
「名前はない」
「本当に?」
「取られた」
取られた――マティアスに。前世の記憶を入れる時、元の名前も家族も過去も消された。
「なら今は名前がなくてもいい」
「なくていい?」
「俺も記憶を失った。名前を聞いて、もう一度覚えた」
「お前も後から決められる」
少年の胸の緑が少し強くなる。金色の術式がそれを押さえ込もうとする。
『やめろ。お前には私が必要だ』
「必要ない」少年が小さく言った。
『何』
「僕は」声が震える。「僕は」
続かない。名前がない。それでも、
「ルークじゃない」
言った。胸の金色術式に大きな亀裂が入る。金色の線が俺へ伸びるのを止めた。
「今!」ダグラスが少年の前へ白石を置く。俺も左手を伸ばす。触れない。間に白石。
「金色を白石へ。緑は残す」
「どうやる」
「嫌な記憶を外へ押す」
「全部嫌だ」
「なら全部」
少年が歯を食いしばる。胸の術式、金色の光が白石へ流れる。一気ではなく、細く、少しずつ、まるで血を抜くように慎重に。前世の診療室、患者、研究、女たち、傲慢、孤独――俺の失った記憶が白石の中へ流れ込み、石の乳白色が少しずつ金へ変わっていく。石の表面を伝う光は、記憶そのものの重さを映すかのように、時折ぐらりと揺れた。
「ルーク」バーバラが俺を見る。「あなたは大丈夫?」
「少し」
記憶が近い。白石を通じ、こちらへ引き寄せられるように戻ろうとする。受け入れれば俺の前世が戻ってくる。だが、それは同時に三つの人生が一つへ近づくということでもある――第三鍵の完成だ。誘惑に似た感覚が、胸の奥をちりちりと刺した。
「見ない」俺は目を閉じる。「今は戻さない」
母の声、オリヴィアの息づかい、ダグラスの落ち着いた声――周囲の気配ひとつひとつに、今世の俺の意識を向ける。少年も自分の緑へ集中しているのが分かった。金色の術式が胸からゆっくりと剥がれていく。皮膚からではなく、魔力路そのものから、記憶が引き抜かれていく感覚だった。
少年が苦しそうに叫ぶ。
「止める?」
「やめない」少年は涙を流しながら答えた。「僕を返して」
「うん」
最後の金色が白石へ入る。少年の胸から術式が消え、代わりに淡い緑の魔力が全身へ広がった。小さく弱い光だったが、間違いなく少年自身のものだった。身体が力なく前へ倒れる。オリヴィアがとっさに受け止めた。
「息してる」ダグラスがすぐに診る。指先で脈を確かめ、瞼を軽く開いて瞳を覗き込む。「脈は弱いが安定している」
「記憶は?」
少年の目がゆっくり開く。周囲をきょろきょろと、怯えたように見回す。
「ここ、どこ?」
前世の俺の声ではない、あどけない子どもの声だった。
「村」俺は答える。「名前、分かる?」
少年は首を横へ振る。
「何も覚えてない」
「俺と同じだ」
「お前も?」
「少しだけ」
少年は俺を見る。先ほどまでの敵意はない。代わりに不安がある。
「僕はルークじゃない?」
「うん」
「じゃあ誰?」
「これから決める」
少年の目から涙が落ちる。それをオリヴィアが袖で拭いた。
「名前がなくても、今すぐ困らないよ」
「困る」
「じゃあ仮の名前を考える?」
少年は答えられない。
「後で」俺は言う。「母さんたちと皆で決める」
バーバラがこちらを見る。俺が少年を家へ入れるつもりだと分かった。
「その前に」ゲイルの声が道の向こうから響く。「マティアスを見つける」
少年が身体を強張らせる。
「マティアス、知ってる?」
少年は震えながら頷く。
「怖い?」
もう一度頷く。
「どこにいる?」
「分からない」
「馬車に少女もいた?」
「女の子、白い」
「その子は?」
少年の顔がさらに青ざめる。息を呑み、言葉を選ぶように少し間を置いた。
「連れていかれた」
「誰に」
「マティアス」その名前を口にするだけで、少年の身体が小さく震えた。
森の入口、白石の罠、馬車。少年だけを先へ行かせ、注意を引きつけている間に、マティアスは少女を連れて別の道へ移動していたのだ。囮にされたことにも、少年自身は気づいていなかったのだろう。
「どこへ」
「採石場」
第一の根、封鎖室――中央の泉へつながる一つ目の錠がある場所だ。長年、村の誰も近づかない場所とされてきた。
「どうして」
「第三の器を、第一の錠へ」少年が小さく答える。「白い子は扉を見つける」
今世の俺を模した白い空白の魔力。本物の第三鍵ではないが、扉の場所を感じ取れるということだ。
「マティアスは俺たちをここに止めるため、少年を使った」
俺が前世の記憶を持つ少年と争っている間に、少女を使って第一封鎖室から中央の泉への道を探していたのだ。
「ゲイル、行くぞ」アーヴィンが剣を抜く。鞘を鳴らす音が、静まり返った道に硬く響いた。
「待って」俺は言う。「俺も」
「駄目」また全員、同じ答えが返ってくる。誰もが同じ方向を見て、同じ結論に達しているようだった。
「少女は今世の俺を模してる。俺がいれば助けられる」
「お前は動けん。少年と同じように話せるかも」
「そのために採石場へ行けば、中央の泉に本物の鍵として認識される」
母の言葉、その通りだ。俺は近づいてはいけない。
「でも少女を置いていけない」
バーバラはすぐには答えない。俺を抱く腕に、迷いがそのまま伝わってくる。少年がオリヴィアの服を掴む。
「白い子、助けて」
「名前は?」
「ない」
「その子も?」
「名前を取られた」
二人とも器にするため、元の名前を消されたのだ。
「分かった」ゲイルが言う。「俺たちが行く。ルークはここから方法を考えろ」
「連絡は?」
「伝令板を使う」アーヴィンの金属板、短い符号なら送れる。細かな会話はできないが。
「少年もここに残す」ダグラスが言う。「治療が必要だ」
「母さん」俺はバーバラを見る。「俺たちは残る。少女を助ける方法を父さんの記録から探す」
母は頷いた。
「それなら一人で決めていません」
「うん」
ゲイル、アーヴィン、警護官二人、オリヴィア――五人が採石場へ向かう準備を整える。武具の擦れる音と、押し殺した息づかいだけが道に残った。オリヴィアは出発の直前、少年の前へしゃがんだ。
「すぐ戻る。白い子も連れてくる」
「本当?」少年の声は、まだ疑いと期待の間で揺れていた。
「約束」
少年は迷いながら小指を差し出した。骨ばった、まだ小さな指だった。オリヴィアも自分の小指を絡める。
「約束」
彼女たちが暗い道を北へ走っていく。足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。空は少しずつ明るくなっていた。長い夜を、ようやく越えたところだった。
◇ ◇ ◇
だが第一の根が眠る採石場で、別の扉が開こうとしている。
ダグラスが金色へ変わった白石を見る。
「この記憶、どうする」
前世の俺――少年から抜いた大量の記憶だ。白石は今にも割れそうに、細かく震えている。
「保存器へ移す?」バーバラが尋ねる。
「今は開けられない」俺は答えた。第一鍵を使えば中央の泉へまた道ができる可能性がある。
「白石のまま持たせる?」
「長くは無理」
石の表面にひびが入り、記憶が溢れようとしている。少年が白石を見る。怯えた顔だった。
「戻さないで」
「戻さない」俺は約束する。
「じゃあどうするの」
答えを探す。壊せば記憶が周囲へ散り、俺へ、少年へ、母へ、ダグラスへ――誰かへ入り込む可能性がある。水へ流せば泉に回収されてしまう。保存器は今は使えない。誰もが黙り込み、震え続ける白石だけを見つめていた。答えの出ない時間が、重く流れていく。
その時、少年が白石の中へ小さな緑の魔力を流した。慎重に、探るように。
「何してる」
「分からない。でも呼ばれてる」
金色の記憶が少年の緑へ戻るのではなく、その場でゆっくりと形を変えていく。前世の診療室、医術、研究――それらが一枚の生々しい記憶ではなく、文字へ、術式へ、知識だけへと解きほぐされていく。まるで感情という糸を一本ずつ抜き取っているようだった。
「感情と知識を分けてる?」俺が言うと、ダグラスが石へ近づき、目を細めて確かめる。
「記憶の人格部分を削いでいる」
「少年が?」
「本人の身体に一度入っていたから、どこが異物か肌で分かるのかもしれん」老人は感心と警戒の混じった声で言った。
金色の中の前世の俺の声、顔、感情が少しずつ消える。残るのは医術の理論、薬、術式――人格を持たない知識だ。
「これなら」俺は言う。「誰かをルークにしない」
少年は苦しそうに顔を歪めながら、それでも魔力を流し続ける。額には汗が浮かんでいた。
「無理するな」
「白い子を助けるのに使えるかもしれない」
「医術の知識?」
「うん」
少年は自分を奪った記憶をただ捨てるだけでなく、誰かを助けるための知識へと変えようとしていた。それは、前世の俺には決してできなかった選択だった。知識を独り占めにするのではなく、手放しながら誰かのために使う――そんな発想は、俺の中にはなかったものだ。
「お前、名前、何か思い出した?」
少年は目を閉じる。緑の魔力、その奥、前世に上書きされる前の小さな記憶を探るように。誰かが呼んでいる声がする。温かく、遠い記憶の底から響くような声だった。
「……ノア」少年が呟いた。
「ノア?」
「たぶん、僕の名前」
完全ではない。輪郭も曖昧で、確信もないだろう。だが前世の俺ではない、少年自身の中から出てきた最初の一つだった。
「ノア」バーバラが名前を呼ぶ。少年の肩が小さく揺れる。
「ノア」ダグラスも同じように呼ぶ。誰かに呼ばれるということ自体が、久しぶりのことのようだった。
「俺は」最後に言う。「ルーク」
少年――ノアは俺を見る。長い沈黙のあと、小さく頷いた。
「知ってる。でももう、偽物とは言わない」
「俺も、お前を偽物とは言わない」
二人とも本物だ。別の人間。同じ記憶を持っていたとしても、今、違う選択をした。それだけで、十分だった。
その時、採石場の方角から地面を揺らす低い音が響いた。足の裏に伝わるほどの振動だった。第一の根――再起動ではない、もっと深い場所、岩の下で巨大な扉が軋む音だ。空気そのものが重くなったように感じられる。伝令板の一つ目の石が激しく点滅する。アーヴィンからの符号だ。危険。扉。少女。そして最後の合図。
『マティアス、中央泉入口を発見』
続けて別の光。
『白い器、扉と接続』
少女が中央の泉へつながれた。俺が近づかなくても、偽物の今世を使い、扉は少しずつ本物の第三鍵を作り始めていた。伝令板の光は消えず、点滅を繰り返している。まるでこちらの返答を急かすように。夜明けの空はもう白み始めていたが、村の空気は少しも和らがなかった。




