Ep205. 前世を持つ少年
『お前の前世を』『返してもらう』――少年の声と同時に、流れ込んできた景色が消えた。暗い寝室。閉じた窓。母の手。ダグラスの険しい顔。頭の芯にまだ残る、馬車の車輪の音。それがゆっくりと遠のいていき、現実へ戻る。
「ルーク」バーバラが俺の肩へ触れる。指先が冷たい。よほど強く握っていたのか、袖口が少し湿っていた。「何が見えたの?」
「馬車。王都から来る」息が浅くなっているのが自分でも分かった。「マティアス……いや、一人じゃない」呼吸を整える。まぶたの裏にまだ焼き付いている光景を、一つずつ言葉にしていく。眠る少年。胸に刻まれた金色の術式。その隣に座る少女。白い空白のような、色のない魔力。「子どもが二人、一緒にいる」
「子ども?」ダグラスが眉を寄せる。声には、これまで聞いたことのない硬さがあった。長い付き合いの中でも、彼がこれほど動揺を隠せずにいるのは珍しい。
「男の子は俺と同じくらいの年で、前世の医魔術の記憶を入れられてる。女の子は、今の俺を真似する器みたいだった。空っぽの器に、俺の形をなぞらせているような」言葉にしながら、自分でも背筋が冷えるのを感じた。二人とも、あの馬車に乗せられるまでどんな暮らしをしていたのか、俺には想像もつかない。
マティアス――泉主の記憶を持つ者。少年――前世の俺の記憶を持つ者。少女――今世の俺を模した魔力を持つ者。三人がそろえば、偽物の第三鍵になる。父の記録に書かれていた通りの構図が、そのまま馬車の中に収まっていた。理屈では分かっていたことが、実際に目にした途端、重さがまるで違って感じられる。
「全員そろっているのか」ダグラスが低く呟く。
「たぶん」
「なら」バーバラの顔色が変わる。血の気が引いていくのが分かった。「その子たちは、自分から協力しているの?」
分からない。少年は眠っていた。だが目を開け、俺の名を呼んだ。あの声には、確かな意志のようなものがあった。だがそれが本人の意思なのか、入れられた前世の記憶が勝手に喋っているだけなのか、俺には判断がつかない。同じ問いを、俺は何度も自分に投げかけている。答えが出ないまま、時間だけが過ぎていく気がした。
「助けないと」
「まず自分の状態を確認する」ダグラスがすぐに言う。医師としての、有無を言わせない口調だった。
「大丈夫。声を聞いて、景色まで見えただけだ。接続が残っている可能性がある」胸を確かめる。右腕を確かめる。銀色の線は見当たらない。冷たさも熱もない。それでもマティアスの声と馬車の景色は、確かにここまで届いた。目に見える異常がないことが、かえって不気味だった。
「逆封鎖で切ったのは第一と第二の根だ」俺は言った。「今のは第三鍵――偽物の鍵の方からかもしれない。少年が前世の俺の記憶を持ってるから、同じ記憶同士でつながったんだと思う」
父の記録にあった一節を思い出す。『強い感情、共有された記憶――同じものを共有する者の間にも道ができる』。根がなくても、記憶そのものが道を作る。俺と少年は、同じ前世を二人で分け合っている。それは、絶ったはずの繋がりとは別の、もっと根深いものだった。
「なら今後も向こうから干渉されるということか」ダグラスが言う。
「逆もできるはずだ。少年へ話せるかもしれない」
「駄目」母の声に迷いはなかった。「今すぐは。向こうの状態を知るだけでも駄目です」
「でも、またつながったら逆封鎖した意味がなくなる」
同じやり取りを、もう何度繰り返しただろう。俺は危険な道を見つけるたび、必要だからと言いながら、結局は自分自身を道具にしてしまう。母はそれを、誰よりも先に見抜いている。だからこそ、こんなにも早く止めにかかるのだ。分かっていても、俺はまた同じことをしようとする。それが自分でも嫌になる。
「じゃあ、どうする?」俺は二人を見た。一人では決めない。それだけは、この村へ来てからずっと守ってきたことだった。
「見た情報を先に皆へ伝える。ゲイルたちを呼んで見張りを増やし、馬車の特徴を街道の監視へ知らせよう」ダグラスが答えた。「子どもを乗せているなら、途中で止められる可能性がある」
アーヴィンたち警護官なら、街道沿いの監視所へ合図を送れるはずだ。王都からの伝令として、その経路にはすでに慣れている。
「でも、マティアスは泉の力で強化されてる。監視所の人が危ない」
「戦わせるとは言っていない。馬車の位置を確認させるだけだ」追跡と観測に留め、無理に捕らえない。居場所さえ分かれば、村への到着時刻も進路も判断できる。慎重に、しかし確実に。
「起こしてくる」ダグラスが椅子から立つ。その背中には、もう迷いがなかった。「誰を、って? 全員だ。今夜は誰も眠れそうにない」
◇ ◇ ◇
ほどなく、家の診療所側へ、残っていた全員が集まった。ゲイル、オリヴィア、アーヴィンと二人の警護官、バーバラ、ダグラス、そして俺。机の中央には父の記録、太陽の黒石、白石、遠隔筆記器が並んでいる。保存器は村の外れに、白石に囲まれて埋めてある。その場所を知るのは、俺と母とゲイル、たった三人だけだった。灯りは絞られ、部屋の隅には夜の名残がまだ濃く残っていた。
「子どもを使ってるのか、マティアスが」ゲイルの声が低くなる。怒りというより、確かめるような響きだった。彼のこういう静かな声は、むしろ本気で怒っている時のものだと、俺はもう知っていた。
俺は見た景色を一つずつ説明した。夜の街道。揺れる馬車。眠る少年。胸の金色術式。白い魔力を持つ少女。そして少年の言葉――『お前の前世を返してもらう』。声にすると、あの言葉の重さが改めて肩にのしかかってくる。誰も、すぐには言葉を返せなかった。
「返すって、今のルークが何か盗んだみたいに」オリヴィアが聞く。眉間に皺が寄っている。
「前世の記憶は俺のものだ。でも少年に入れられた記憶も、自分のことを本物だと思ってるかもしれない」記憶が人を作る、というのが泉主の考えだった。同じ記憶を別の身体へ入れれば、同じ人間になる。なら少年の中の前世記憶は、自分こそ本物のルーク・E・オリバーだと信じている可能性がある。
「その子自身の記憶は?」バーバラが尋ねる。
「分からない。上書きされたか、混ざってるかもしれない」俺が第一鍵から記憶を部分返還された時、泉主の断片が混ざっても、それでも自分を保てた。少年にも、元の人格がまだどこかに残っているかもしれない。そう思いたかった。願いに近い考えだと、自分でも分かっていた。
「助ける方法は」ゲイルが尋ねる。
「記憶を抜いて保存器へ移す。できるかもしれないが、第一鍵を使う必要がある」第一鍵は保存器と共に、静かに土の下で眠っている。使えばまた泉へ道が開く可能性があった。
「他の方法を探す。今は近づけないことが先だ」ダグラスが言った。その一言で、部屋の空気が少しだけ落ち着いた気がした。
アーヴィンは王都から持参した伝令用の金属板を、そっと机へ置いた。「街道の監視所へ短い合図を送れます。詳しい文章は無理ですが、馬車の特徴と交戦禁止は伝えられます」魔力を流すと、淡い光が板の上に走る。文字ではなく符号として、王都から西へ、いくつかの監視所へ順に送られていく。板の中央にある三つの小石――街道沿いの三地点を示すそれのうち、最初の一つが青く光った。「第一監視所、通過記録を確認中です」
待つ。静かな時間だけが流れていく。誰も口を開かず、遠隔筆記器の羽根ペンだけが、時折わずかに震えていた。俺の頭には、まだ少年の顔が焼き付いていた。暗い馬車。閉じた目。開いた時の、あの冷たい視線。前世の俺に似ていた。自分以外を、価値の低いものとして見る目。俺もかつて、同じ目をしていた。忘れていたはずの感覚が、記憶の底から浮かび上がってくる。
「何考えてる?」オリヴィアが顔を覗き込む。
「少年、目が前世の俺に似てた」
「じゃあ嫌な子?」
「前世の俺を嫌な人みたいに言うな」
「違うの?」返す言葉に詰まる。「……かなり、性格は悪かった」
「やっぱり」
「でも、子どもは悪くない」入れられた記憶を、本人が望んだのかどうかは分からない。前世の俺の傲慢さ、冷たさ、孤独。それをただ背負わされているだけなのかもしれない。誰にも選べなかった重さを、あの小さな身体一つで受け止めさせられている。
「返したら、今のルークはどうなるの?」オリヴィアが言う。静かな声だったが、その場の全員が耳を澄ませたのが分かった。
前世の記憶は今、大半が保存器にある。俺の中には欠片しか残っていない。「全部取られたら、医魔術の知識はほとんど消えると思う」
「人格は?」
「分からない」俺は少し考えて、続けた。「今の俺は前世の記憶だけでできているわけじゃない。母も、オリヴィアも、ゲイルも、ダグラスも――今世で選んできたものは、それでも残るはずだ」だが泉主、前世、今世の三つが第三鍵の構成要素だ。一つを抜けば鍵は完成しない。マティアスは俺から前世の記憶を奪い、少年へ完全に移すつもりかもしれない。そうすれば偽物の第三鍵に、必要な一つが揃う。
「俺を殺す必要はない。記憶だけ取ればいい」俺は言った。
「それで安心すると思う?」母の声が、静かに割って入る。
「しない」
「なら簡単に口へ出さないで」
「事実でも、あなたが傷つけられる話を、平気な顔でしないで」母は俺の手を握った。指先の力は強い。「取らせない。記憶も身体も、あなたのものです」前世の記憶を失っても俺は俺、そう言ってくれた。だが、だからといって奪われていいわけではない。その二つは、別の話なのだと母は言っているのだと分かった。
「取り返す」
「少年に入れられた分も?」
少年の中にある俺の前世の記憶は、元は俺のものだ。だが今は、少年自身の一部になっている。無理に抜けば、少年そのものが壊れる可能性がある。その事実が、俺の中で一番重かった。誰かを助けるために、別の誰かを壊すわけにはいかない。
「まず本人に聞く。返したいか、残したいか」
「そんな判断、まともにできる状態か」ゲイルが言う。
「分からない。なら助けてから聞く」
「どうやって、それを探す」
また答えのない問いに突き当たる。それでも一人で決めない。そう決めたところで、監視板の二つ目の石が光った。「第二監視所。馬車を確認。三名、御者一名に荷台二名。特徴は一致」アーヴィンが淡々と読み上げる。
「場所は」
「王都から半日ほどの街道」思ったより近い。部屋の空気が、一段冷えたような気がした。
「半日? 通常なら二日以上かかるはずだ」ゲイルが机へ身を乗り出す。
「休まず馬を替えているか、泉の力で馬そのものを強化しているのかもしれません」アーヴィンが答える。到着まで、もう一日もない。
「今夜?」バーバラが尋ねる。
「この速度なら明け方前後」
夜明け――逆封鎖で越えると約束した時間。だが次の危険は、まさにその夜明けにこそ来る。皮肉なものだと思った。安全になるはずの時刻が、そのまま危険の始まりになる。
「村の避難は終わってる。準備も始めた、白石の罠を明け方までに完成させる」ゲイルが言う。
「森の入口で止める。道が狭いから、逃げ道も限定できる」
「子どもがいる。危険な罠は使えない」母が言った。
「白石だけだ。泉の強化を消して、馬も止める。怪我はさせない」白石、縄、倒木、冷水。それらで泉の力を弱め、物理的に動きを止めるだけの罠だ。それなら子どもも巻き込みにくい。
「俺も行く」
「駄目」母、ダグラス、オリヴィアの三人が、同時に声をそろえた。あまりに揃っていて、少し笑いそうになるくらいだった。
「でも、狙いは俺だから」
「お前は家にいる」ゲイルが俺を見る。
「相手を村の中へ引き込む囮か」
「家を狙わせる。その間に俺たちが馬車を止める。もし罠を抜けたら、家の周りにも白石を埋める」俺のいる場所が、結局は最も危険になる。だが動けない俺を森へ連れていくより、この家で守る方がまだ確実だった。
「誰が残る?」
「バーバラ、ダグラス、警護官一人」ゲイル、オリヴィア、アーヴィン、そしてもう一人の警護官は森の入口へ。どちらの組も、一人きりにはしない。それが皆の、暗黙の了解だった。
「俺が家から指示できないか。保存器を監視用に」
「駄目」母がすぐに答える。「開かない。馬車の位置は、監視所からアーヴィンが伝えます」泉につながる道具は使わない。それが今の、揺るがない前提だった。
「分かった」俺は頷いた。できることは少ない。今の俺の役割は、狙われる場所にいて相手を引きつけること、ただそれだけだ。それでも、何もしないよりはましだと思うことにした。
「眠る?」オリヴィアが聞く。
「無理だと思う」
「寝た方がいい。明け方に動けるように、二刻でも休め。起きたら状況は教える」ダグラスが言う。
「重要なことは全部な」その一言に、少しだけ安心する。
俺は寝台へ戻される。外では白石を運ぶ音、縄を張る音、木材を組む音、行き交う足音が続いている。罠の準備が、着々と進んでいた。母は俺の隣から離れない。窓の外がわずかに明るみ始めるまで、まだ時間はあるはずだった。天井を見上げながら、俺はこれから起こることを何度も頭の中でなぞっていた。
「母さん、少年を助けたい。少女も」
「うん」
「マティアスは?」
母は少し考える。「止める。助けるかは、その後に考えます」俺と同じだ。今、危険な者を無理に救おうとはしない。まず止める。順番はそれだけだ。
「もし少年が、本当に俺の前世を奪おうとしたら?」
「あなたが決める前に、私が怒ります。人の子どもへ、勝手に変な記憶を入れた大人に」マティアスも泉主も、母にとっては子どもを利用した大人でしかない。その怒りには、迷いのかけらもなかった。
「少年には、あなたとどちらが本物かなんて、決めなくていいって話します」同じ前世の記憶を持つ二人。どちらが本物のルークなのか。
「でも、名前が同じなら困る」
「別の呼び方を考えればいいでしょう。生き方は名前より長いものです」記憶が同じでも、これから違う選択をしていく。それだけで、別の人間になる。泉主と俺が、違ってしまったように。母の言葉には、いつも余計な迷いがなかった。
「眠る」
「起こして、必ず」
目を閉じる。今度は夢を見たくない。だが意識が沈む直前、少年の声がもう一度聞こえた。
『お前は俺から人生を奪った』
暗闇の中、少年が立っている。胸の金色術式が強く光っている。周りには何もない。ただ闇と、少年と、その光だけがあった。
「俺は、お前を知らない」
『俺は知っている。ルーク・E・オリバー、天才医魔術師。その全てを』少年の背後に、前世の診療室、患者、研究室、女たち――俺が失った記憶の断片が浮かび上がる。少年はそれを持っている。俺よりも、鮮明に。「お前は何も覚えていない。なら俺の方が本物だ」
泉主と同じ問いだ。記憶が同じなら、誰が本人なのか。俺はこの問いに、まだ自分なりの答えを持てていない。
「お前の名前は?」
少年は初めて表情を揺らした。『ルーク』
「元の名前があるだろ」
『捨てた。俺が選んだ』
嘘か本当か、断定はできない。だが声が僅かに震えていた。その震えだけが、少年自身のものであるような気がした。
「前の家族は?」『いない』「友達は」『必要ない』「好きだったものは」『医術』「記憶を入れられる前は」
少年の顔が歪む。胸の術式が、いっそう強く光る。『俺はルークだ!』
夢が激しく揺れる。少年の声に、別の小さな声が重なった。『違う……僕は――』幼い、少年自身のものらしい声。だが続きは聞こえない。金色の術式が、その声を押し潰していく。俺はその声をもう一度聞こうと手を伸ばしたが、届かなかった。指先が届く前に、景色そのものが崩れ始める。
『夜明けに、全て返してもらう』前世の俺自身の声を最後に、夢が切れる。
◇ ◇ ◇
「ルーク」目を開ける。外はまだ暗い。母が俺の手を握っている。「馬車が第三監視所を通過した」
窓の向こう、遠く、森の入口で合図の灯りが一度上がる。マティアスたちが来た。夜明け前、村まではあと半刻もない。心臓が、一拍だけ強く跳ねた。
「少年と話した。夢で」俺が言うと、母の表情が強張る。「名前はルークって言った。でも、別の声もあった」
「元の子?」
「たぶん。まだ消えてない」前世の俺の記憶に押し込められている、少年自身の声が、確かにあった。あの震える一言だけは、噓ではなかったはずだ。
「助けられる」今度は希望ではなく、確信に近い響きで言えた。「本人が中にいる」
その時、森の方角で白い光が上がった。一つ、二つ、三つ。白石の罠が作動する。続けて木が倒れる音、馬の悲鳴が響く。そして夜の村全体へ、男の声が響き渡った。
『ルーク・E・オリバー。第三の鍵を迎えに来た』
窓の外、村へ続く道に青い光が浮かぶ。馬車は森の入口で止められたはずだ。だが一つの人影が罠を越え、こちらへ歩いてくる。マティアスではない。胸に金色の術式を持つ、あの少年だった。歩き方は、疲れているようにも、何かに突き動かされているようにも見えた。
彼は暗い道の中央で立ち止まり、俺たちの家をまっすぐに見た。
『出てこい、偽物』
同じ顔ではない。同じ身体でもない。それでも、そこに立つ少年から、前世の俺と同じ魔力が、はっきりと感じられた。夜明け前の暗さの中で、その気配だけが、やけに鮮明だった。俺は寝台の上で身を起こし、窓の外に立つその小さな影を、じっと見つめ続けた。




