Ep204. 故郷へ向かう追跡者
『推定進路』『エドワード・E・オリバーの故郷』——遠隔筆記器に浮かんだ文字を、バーバラが何度も繰り返し読み返していた。
「この村へ、マティアスが来るの?」
「可能性が高い」
アーヴィンがそう答える。
「王都を出た時刻から考えれば、早馬を使っても到着まで二日以上かかります」
二日。長いようで、短い時間だ。マティアスは泉の身体強化を受けている。普通の旅人と同じ速さで進むとは限らない。
「目的はルーク?」
オリヴィアが尋ねる。
「本物の第三鍵が、俺なら……たぶん」
マティアスが持つ偽物の第三鍵だけでは、中央の泉を開くことはできない。ただ扉を傷つけることしかできないのだ。だからこそ、彼は本物を探し求めている。泉主、前世の俺、そして今の俺。三つの人生が重なった魂を持つ者を。
「でも」と俺は口を開く。「俺が第三鍵だってこと、マティアスは知ってるのかな?」
「泉主から聞いている可能性がある」
ダグラスが重々しく答えた。
「第二封鎖室で泉とつながっていたなら、必要な情報を与えられていても不思議ではない」
俺が王都へ向かわなくても、危険が去るわけではない。向こうから、ここへやって来るのだ。
「村を離れましょう」とバーバラが言った。「ルークを、別の場所へ移すの」
「どこへ?」
「分からない。でも、ここにいれば村の人まで巻き込まれてしまう」
母の言う通りだ。マティアスの狙いが俺なら、村にとどまる理由はない。だが、俺が移動すればマティアスも追ってくる。中央の泉へ近い場所へ、無意識に誘導される危険だってあるのだ。
「逃げる方向を、先に決めるのは危険だ」と俺は言った。「泉主が、俺に行かせたい場所があるかもしれない」
「なら、ずっと村にいるの?」とオリヴィアが焦りを見せる。「それも危ないよ」
選択肢のどちらを選んでも、泉主に利用される恐れがあった。残れば村が戦場になり、逃げれば中央の泉へ導かれるかもしれない。
「第三鍵について、もっと知る必要がある」
俺は父の記録へと目を向けた。夢で聞いた父の声。だが、それが本当に父だったのか、あるいは保存器に残った記憶なのか、第一鍵の影響か、泉主が見せた偽物なのかすら断定できない。夢の記憶だけでは圧倒的に情報が足りなかった。
「未解読文書」とアーヴィンが呟く。「王都にある。だが、ルークを近づけさせるわけにはいかない」
「文書だけ、こちらへ運べないの?」
遠隔筆記器では術式図形を正確に送信できない。なら、現物を王都からこちらへ運ぶしかないのではないか。
「伝令より時間がかかる」とダグラスが言った。「早馬で二日。マティアスと変わらん。だが、文書が先に届くなら準備はできる」
アーヴィンが遠隔筆記器へ短く問いを書き込んだ。『未解読文書を村へ移送可能か』
返答を待つ間、俺は寝台から起き上がろうとした。
「駄目です」
すぐに母に肩を押さえつけられる。
「話を聞くだけだから」
「横になったまま聞けます」
「身体は、少し戻ったよ」
「少しでは足りません」
逆封鎖の後、胸と右腕の黒い線は消えていた。だが魔力はほぼ底をついており、自力で座り続けることすら怪しい状態だ。
「マティアスが来るまで二日ある」とバーバラの声は反論を許さない力強さがあった。「だからこそ、二日休んでちょうだい。明日、少し動けるようになってから、村を出るか守る準備をするか決めます」
「皆で?」
「ええ、皆で」
約束だ。一人で勝手に決めたりはしない。俺は素直に寝台へ背を預けた。
やがて遠隔筆記器に、セオドアからの返答が浮かび上がった。
『文書移送は不可能』
「どうして……?」
アーヴィンが続きを読む。
『保管庫から出した場合、術式が消失する。エドワードの血縁が現地で触れる必要あり』
やはり、俺が王都へ行かなければ読むことはできないらしい。だが王都へ近づけば、中央の泉に「鍵」として認識されてしまうリスクがある。
「セオドアは文書を見ているんだよね?」と俺は尋ねた。「反応しないだけで、形は見えているはずだ。術式の意味は読めなくても、図形や配置、紙の状態なら、口頭や文章で説明できるはず」
「図形を文字で説明してもらう、か。完全には無理だろうが」とダグラスが言う。「それでも、何もないよりは遥かにいい」
アーヴィンが再び問いを送る。『未解読文書の図形構成を文章で報告願う』
今度の返答には時間がかかった。王都でセオドアが慎重に文書を確認しているのだろう。その間、バーバラは俺の右腕へ薬を塗ってくれた。黒石を当てた場所には、痛々しい赤い腫れが残っていた。
「痛む?」
「少し」
「我慢しないでね」
「我慢してないよ」
「『痛い』って、今言ったじゃない」
「言う前に、ずっと平気な顔をしてたでしょう。顔に出ないから困るの」
母は布を巻きながら、何度も俺の腕を確認する。
「王都へ行くとしても、この腕が治ってからです」
「二日後には治るかもしれないよ」
「『かもしれない』では駄目です。ダグラスが決めることです」
また老人へと判断が預けられた。
「わしを悪者にするな」とダグラスが苦笑する。「医者か、薬師か」
「どっちでもいいだろ」
「違うわ」
いつもの他愛もないやりとり。記憶を失っても、俺はこの人たちとの関係を、再び一から紡ぎ直しているのだと実感する。
その時、遠隔筆記器へ長い返答が現れた。
『未解読文書:中央に三重円。外側二円は第一鍵および第二鍵の術式と一致。最内円は空白』
「空白……?」
第三鍵を示す核心部分に、何も描かれていないというのか。
『三重円の周囲に三体の人型。第一人型:胸部に青い泉印。第二人型:頭部に金色術式。第三人型:全身に白色空白』
泉主、前世、今世。夢で見た三つの人生だ。第一の胸に刻まれた青い泉印は、泉主。第二の頭部にある金色術式は、前世の医魔術師。そして第三の全身が白い空白は……記憶を失った、今の俺。
「空白なのは」と俺は呟く。「今世の記憶が、まだ完成していないからなのかな」
「あるいは」とダグラスが文面を見つめる。「これから何にでもなれるという意味かもしれん」
前世も、泉主も、すでに形が決まっている。だが今世の俺はまだ幼く、人生の途中だ。だからこその白い空白。
「続きがある」とアーヴィンが読んだ。
『三体の人型から最内円へ線。ただし、第三人型のみ線が途切れている』
今世の俺から第三鍵へ、まだ線がつながっていない。完成していないのだ。夢の中で、父はこう言っていた——『第三鍵を完成させるな』と。
「完成条件は、三つの記憶を一つにすることだ」
泉主、前世、今世。現在、俺の今世の記憶の大部分は失われたまま、保存器に預けられている。
「記憶を戻したら……」バーバラの顔が強ばった。「第三鍵が完成してしまうの?」
「可能性が高い」
今まで、記憶を戻すかどうかについては、泉主の断片が混ざる危険性ばかりを懸念していた。だが、すべてを戻してしまえば、三つの人生が俺の中で一つになり、中央の泉を開く本物の第三鍵が完成してしまうのだ。
「じゃあ」とオリヴィアが言う。「記憶は戻さない方がいいね」
「ああ、今はな」
失った前世の知識も、今世の記憶も、父との想い出も取り戻したい。だが、それが泉を開く条件になってしまうのなら、安易に選ぶわけにはいかなかった。
「マティアスの持つ偽物の第三鍵については?」とアーヴィンが追加の問いを送った。
返答が届く。
『未解読文書の余白に模造鍵に関する記述あり。三生の記憶を一人へ集められない場合、三人の身体へ分けても扉を傷つけることは可能』
三人。泉主の記憶を持つ者、前世の記憶を持つ者、そして今世の俺と同じ魔力を持つ者。それぞれを別の人間へと分ける。
マティアスが持つ「偽物の第三鍵」とは、単なる物ではない。三人の人間、あるいは三つの「器」そのものなのだ。
「マティアスは一人じゃない」と俺は言った。「他に二人いるんだ」
泉主の記憶を受け入れた者。前世の俺の記憶を移された者。そして今世の俺の魔力を模した者。その三人が揃えば、扉を傷つけることができてしまう。
「でも」とオリヴィアが眉を寄せる。「前世のルークの記憶なんて、どうやって他の人へ移すの?」
保存器、第一鍵、そして逆流で失った記憶。その一部は泉へ戻る前に父の保存器へ移された。だがそれ以前、前世で死んだ時や転生する間に、泉主が俺の魂に触れていたとしたら——記憶の写しを持っている可能性は十分にある。
「泉に前世の記憶が残っていて、そこから誰かに注入されているんだ。俺が第一鍵で記憶を返還されたように、別の人間へ移して……」
「マティアスが、泉主の記憶を持つ者ということか」とダグラスが言う。
「たぶん」
第二封鎖室で身体強化を受け、泉主に従っていた彼こそが第一の器。なら、残りの二人——今世の俺の魔力を模した者と、前世の俺の記憶を持つ者は、一体どこにいるというのだろう。
「マティアスはこの村へ、一人で来るとは限らないわね」
バーバラの言葉に緊張が走る。彼の目的は俺を捕まえることだけではないのかもしれない。三つ目の器を作り出すため、俺から今世の魔力を採取するか、あるいは記憶を奪いに来るのだ。
「村の防御を固めます」とアーヴィンがすぐに立ち上がった。「部下を配置し、王都へも増援を要請します」
「間に合うか?」
「早馬で二日。マティアスと同じくらいですが、間に合うかは分かりません」
「ゲイルは宿場町で馬車を探してるよ」とオリヴィアが言う。「戻ったら、すぐ村を出るつもりだったけど……」
「今は移動する方が危険かもしれない」と俺は考える。「マティアスが俺の正確な位置を知らないなら、真っ直ぐこの村へ来る。俺たちが動けば、かえって追跡されやすくなるかもしれない」
「でも、村の人たちが危ないわ」
二つの選択肢。どちらを選んでもリスクが付きまとう。
「避難だけさせよう」と俺は提案した。「村の人たちは南へ移ってもらう。俺たちはここに残るんだ」
マティアスの狙いが俺なら、無関係な人々を遠ざけるのが最善だ。
「囮になるつもり!?」と母が鋭い声をあげる。
「違うよ、ここで迎撃するんだ」
「同じことです!」
「逃げても、どこへ行けば安全なのか分からない。なら、準備ができる場所で待つ方がいい」
家、診療所、父の記録、白石、保存器、太陽の黒石。ここには使えるものがすべて揃っている。
「皆で決めるんだ」と俺は付け加えた。「ゲイルが戻ってからね」
母はすぐには頷かなかったが、「村の人を巻き込まない。それを最優先にするなら……」と静かに言った。
◇ ◇ ◇
日が沈む前、ゲイルが戻ってきた。王都へ向かうために馬車を二台確保してきたという。だが、事情を聞くとすぐに方針を切り替えた。
「村人を南の宿場へ移す。馬車は避難に使い、動ける者は徒歩だ。荷物は最低限にまとめさせる。採石場と井戸に見張りは残さない」
「誰も残さないんですか?」
「マティアスが来るなら、見張りが一番危険だ」
村全体を一時的に完全な空にする。そして、俺たちだけが残るのだ。
「残る人数は……」とゲイルが部屋を見渡した。「俺、バーバラ、オリヴィア、ダグラス、アーヴィンたち、そしてルーク。合計九人か」
「トムの父さんも……」と俺が口を挟むと、ゲイルは即座に首を振った。
「駄目だ。村人をまとめる人間が必要になる」
トムも、その家族も避難させる。彼らまでここに残す必要はない。
「分かった」
一人で全員を守ろうとしてはならない。それぞれの役割を信じて任せるのだ。
「マティアスが来るまで二日」とゲイルが言う。「その間に罠を作る」
「殺す罠?」とバーバラが顔を強ばらせる。
「捕らえるためだ。奴は泉の強化を受けている、普通の縄じゃ抑えきれない。白石を使う」
泉の魔力を分散させる白石を、村の周囲や街道、家の前に埋め込むのだ。マティアスが俺に近づけば近づくほど、その泉の力を弱められるように。
「保存器は別の場所へ隠そう」と俺は言った。「家に置いておいたら取られてしまう」
「どこへ隠す?」
父の墓、採石場、薬師小屋。どこもすでに泉に知られている場所ばかりだ。
「人に持たせるのは?」とオリヴィアが提案する。「避難する人たちの中に紛れ込ませるとか」
「それは危険だ」
泉主の断片、記憶、第二の根の情報が詰まったものを村人に持たせるわけにはいかない。
「地面へ埋めよう」とゲイルが言った。「白石で囲い、場所を知るのは三人だけにする」
泉は孤独を道にする。だからこそ、秘密を一人で抱え込んではいけない。
「俺、ゲイル、母さん」
場所を共有するのだ。誰か一人が捕まってもすぐに吐露させられないよう、三人で少しずつ違う情報を持つようにする。
「一人で隠すよりずっといい」とダグラスも頷いた。
準備、避難の手配、白石の設置、保存器の隠蔽。夜になるまで、誰もが慌ただしく動き回っていた。寝台から指示を出すことしかできず、動けない自分がもどかしい。だが、今の俺の役割は身体を休めることだ。明日、少しでも動けるようになるために。
「ルーク」
母が湯の入った杯を持って入ってきた。
「飲んで」
「苦い……」
「薬ですからね」
「何の?」
「回復用です」
「ダグラスが作ったの?」
「私が作りました」
「余計に不安なんだけど」
「飲まないなら、無理やり口へ流し込みますよ」
母の目は本気だった。俺は観念して杯を受け取り、一気に飲み干す。苦い。だが、身体に染み渡る感覚があった。
「偉いですね」
「子ども扱いしないでよ」
「子どもです」
反論できなかった。
外からは、村の避難を知らせる鐘の音が響いていた。人々が最低限の荷物を抱え、南へと向かっていく。窓の外を、トムが家族と共に通り過ぎるのが見えた。彼は俺の家に気づき、足を止める。父親に促されながらも、こちらに向かって大きく手を振ってくれた。
俺も痛む右腕をかばいながら、左手を高く上げる。
「また話そう」
声は届かなかったかもしれない。けれど、これは約束だ。村へ戻ってきたら、またみんなで話すのだ。この大切な場所を、絶対に失いはしない。
◇ ◇ ◇
夜になると、村からすっかり人の気配が消え失せた。静まり返った道、灯りの消えた家々。俺たちの家だけが窓を閉切り、最低限の灯りを点けていた。
「マティアスが夜に来る可能性は?」と俺が尋ねる。
「二日というのはあくまで見積もりだ」とアーヴィンが答える。「泉の力で休まず進めるなら、明日の夜にも到着し得る」
「今夜は?」
「完全には否定できません」
見張りは交代制で行うことになった。ゲイル、警護官、オリヴィア、ダグラス、そして母。決して一人にならない組み合わせだ。俺のいる寝室には、母とダグラスが付き添ってくれていた。
「眠れそう?」とバーバラが優しく尋ねる。
「分からない……」
「怖いの?」
「少しね」
マティアス、三つの器、第三鍵、中央の泉、記憶。深く考え始めれば、とても眠れそうになかった。
「未来の話をしましょうか」と母が言う。
「何の話?」
「祭りの次は冬、その次は春でしょう? 王都の薬草園の話」
「王都へ行っていいの?」
「危険がなくなってからです」
「いつ頃になるのかな」
「全部終わってからよ。中央の泉も、第三鍵も、マティアスも」
そんな終わりが本当に来るのだろうか。分からない。それでも——
「春、間に合うかな」
「間に合わせます」
母の声には強い意志が宿っていた。
「では、春に王都へ行きましょう」
「約束?」
「約束です」
未来の約束が、また一つ増えた。
俺は静かに目を閉じる。外を吹き抜ける風の音、見張りの足音、母の温かい手、ダグラスが椅子へ深く座り直す音。泉の嫌な声は聞こえない。
だが——眠りへ落ちる直前、遠い場所から、地を這うような別の声が脳裏に直接響いた。
『見つけた』
泉主の声ではない。低く、冷たい男の声——マティアスだ。
『第三の器』
ハッと目を開ける。
「母さん……!」
「どうしたの!?」
「声が……!」
ダグラスがすぐに立ち上がった。
「泉主か!?」
「違う、マティアスだ」
「何と言ったんだ」
「『第三の器を見つけた』って……」
俺のことではない。俺は本物の第三鍵だ。マティアスが探しているのは、偽物を完成させるための「三つ目の器」のはずだ。
「誰を狙っている……!?」
答えは言葉ではなく、情景のビジョンとして頭の中に直接流れ込んできた。
暗い夜の街道を、一台の馬車がひた走っている。王都からこの村へと向かう街道だ。その荷台の中には、眠らされている一人の少年がいた。俺と同じくらいの年齢の少年。彼の胸には、鮮やかな金色の術式が刻み込まれていた。前世の俺が持っていた医魔術の記憶を刻まれた器。
そしてその隣には、青い目をした少女が横たわっている。彼女の全身には、白い空白のような魔力が満ちていた。今世の俺を模すための器。
三人ではない。マティアスを含め、偽物の第三鍵を完成させるために必要な「三つの器」は、すでにすべて揃っていたのだ。
馬車は一直線に、俺たちの待つこの村へと向かって来ている。
そして——荷台の少年が、ゆっくりと目を開けた。
『ルーク』
視線が交差したかのように、少年が俺の名を呼ぶ。
『お前の前世を、返してもらうぞ』




