Ep203. 第三の鍵を持つ者
『マティアスが第三鍵を所持している可能性あり』――遠隔筆記器に浮かんだその文字を、誰もすぐには読み上げなかった。
第一の根、第二の根。二つは中央の泉へ至る扉を守る錠だ。そしてマティアスは、その扉を開くための第三の鍵を持っているという。「中央の泉って、今までの泉と違うの?」とオリヴィアが尋ねると、俺は「第一と第二は中央から伸びた根で、たぶん本体は別にある」と答えた。
森の岩清水、採石場の第一の根、王都地下の第二の根。どれも泉そのものではなく、地中へ伸びた道であり、眼であり、出口だったのだ。「中央の泉が開けば、何が起こるの?」と、バーバラが俺を抱く腕へ力を込める。分からない。だが第一の根だけで村の水脈が汚染され、第二の根だけで王都全体の地下水路へ影響を及ぼそうとしていた。本体が解放されれば、根を一つずつ封じる意味すらなくなる。
「全部の根が同時に動くかもしれない。第一と第二だけではない。三本の紋章なら、第三の根もある」とダグラスが言った。三本――父の白石に浮かんだ紋章だ。第一、第二、そしてまだ場所も分からない第三の根。オリヴィアが「第三鍵と第三の根は別?」と尋ねる。「名前が同じだけかもしれない。第三鍵は中央の泉を開く鍵で、第三の根は別の出口。そう考えるのが自然だ」と俺は答えた。だが、父の記録には第三鍵も中央の泉も書かれていなかった。泉主が最後に残した『鍵はもう一つある』という言葉は、嘘ではなかったのだ。
「セオドア様へ、第三鍵について知ってるか聞いて」と俺がアーヴィンに頼むと、遠隔筆記器へ『第三鍵および中央の泉について情報を求む』という短い文章が送られた。
返事を待つ間、バーバラが俺の胸へ触れて尋ねる。「本当に線は消えたのね?」「うん」「痛みは?」「右腕が少し」。逆封鎖の時、黒石を押し当てた場所が赤くなっている。だが銀色の線はない。冷たさも、泉主の声も消えていた。「今度こそ休んで」と言われるが、「でも、中央の泉が……」と口にしかけると、母の声が強くなった。
「ルーク、あなたが今すぐ王都へ行っても何も変わらない。マティアスを追うのは王都にいる人たちの役目よ」。他人へ任せる、信じる。頭では分かる。だが、中央の泉や第三鍵の仕組みを理解できるのは自分だけかもしれない――そう考える癖がまた顔を出す。
オリヴィアが俺の顔を覗き込んできた。「今、自分が行かないと駄目だって思ったでしょ」「少し」「少しじゃない顔。今すぐ寝台から抜け出しそうな顔」「固定されてる」「固定しておいてよかった」。革帯はまだ手足に巻かれている。逆封鎖が終わったなら外してもいいはずだが、誰も外そうとしなかった。「逃げない」「本当に?」「母さんがいる」「それなら外してあげます」とバーバラが言い、左手、右手、足と順番に革帯を緩めてくれた。自由になった腕だが、起き上がる力はない。身体は逆封鎖で完全に疲れ切っていた。
ダグラスが杯を差し出す。「水だ。飲んだら眠れ」「返事が届けば起こして」「絶対にか?」「重要ならな」「重要じゃない返事って?」「『第三鍵を知らん』という返事だ」。それも重要だと思うが、今は反論する力もない。水を飲むと、喉と身体が少しだけ楽になった。
その時、遠隔筆記器へ新しい文字が浮かんだ。「来た」とアーヴィンが紙を読み上げる。
『第三鍵、記録上は存在しない。ただし、エドワードが死の直前に残した未解読文書に三つ目の鍵を示す記述あり』
セオドアも知らなかったのだ。そして父は、第三鍵を知っていながら通常の文字では残せなかった。泉に読まれないため、暗号や術式、あるいは特定の人間にしか意味が分からない形で記録を残したのだろう。「未解読文書の場所は?」と聞くと、『王立医術院地下保管庫。現在確認中』と返ってきた。
「文書をこっちへ送れる?」とアーヴィンが問いを書き込むと、『遠隔筆記器では術式図形を正確に転写できない』と返答があった。文章ではなく、図や魔術式、あるいは地図のようなものなのだろう。遠隔筆記器は細かな線までは映せない。さらに『文書はエドワードの血縁にのみ反応』と続いた。
俺が必要だ。また王都へ行く理由が増えてしまった。口に出すと、バーバラがすぐに首を横へ振る。「今すぐではありません」「分かってる」「本当に?」「身体が動かない」「動けるようになったら、勝手にいくつもりでしょう」「勝手には行かない。皆で行く」。母は俺の目を見て、まだ疑っている。「約束する。出発する時期も皆で決める」「うん」「体調が戻るまでは王都へ向かわない」。
少し迷う。体調が戻るとはどこまでを指すのか。魔力、歩行、記憶、接続率――。「ダグラスが行けるって言うまで」と付け足すと、老人がこちらを見た。「俺が許可しなければ、ずっと行かないのか」「それは困る」「なら信用できんな」「回復したらちゃんと許可して」「回復したらな」。こうして条件が決まった。
遠隔筆記器にはさらに文章が届く。『マティアスの捜索継続。中央泉への入口は未確認。第一および第二封鎖室、現時点で異常なし』。今すぐ中央の泉が開く状態ではない。少なくとも入口も場所も見つかっていない。「時間はある」とオリヴィアが言い、その言葉に身体から緊張が抜けた。
「眠る」と俺が言うと、「ようやく?」と声が返ってくる。「起きたら文書のことを考える」「起きてからね」とバーバラが毛布をかけてくれた。俺は目を閉じる。水音も、泉主の声も、銀色の線もない。代わりに皆の声がある。紙を片づける音、ダグラスが薬を準備する音、オリヴィアが警護官たちへ祭りの話をしている音。
母の手が額へ触れる。「母さん」「ここにいる」「起きたら、煮込み作って」「作ります」「鳥肉」「分かっています」「塩は薄すぎないように」「文句を言うなら作りません」「言わない」「もう言ってる」。声に笑いが混じる。俺はその温もりを感じながら、眠りへ落ちた。
◇ ◇ ◇
夢を見た。暗い水はなく、何も置かれていない白い部屋だった。その中央に、一枚の紙だけが浮いている。見たことはないはずなのに、それが父の未解読文書だと分かった。
紙には文字がなく、代わりに三つの円が描かれている。第一、第二、第三。三つ目の円だけが他の二つと違い、根へつながっておらず、人の形へつながっていた。
「第三鍵……」と俺が呟くと、紙の上から父の声が響いた。
『鍵は物ではない。第一と第二は泉を閉じるために作られた。だが、第三は泉が自ら選んだ』
三つ目の円の中の人の形へ、名前が浮かび上がる。――ルーク・E・オリバー。俺の名前だ。「俺が、第三鍵?」と問うと、父の声が応えた。『違う。お前だけではない』。人の形が二つに分かれ、一つは今の幼い身体、もう一つは大人の前世の俺になった。そしてその後ろに泉主が重なり、三つが同じ輪の中へ納まる。
『第三鍵とは、同じ魂が三つの生を持つこと』
泉主、前世の俺、今世の俺。同じ魂を持つ三つの存在。中央の泉は物では開かず、三つの人生の記憶を一つへ重ねた時に鍵となるのだ。「マティアスが持ってる第三鍵は?」と尋ねると、父の声が初めて迷うように揺れた。
『偽物だ。だが偽物でも、扉を傷つけることはできる』
三つの円へ亀裂が入り、中央から青い水が漏れ出す。
『本物の第三鍵は、泉の外にはない』
紙に描かれた俺の胸、心臓、魂の場所へ印が浮かぶ。『中央の泉はお前を待っている』。それは泉主の声ではなく父の声だったが、言葉の意味は同じだった。
『ルーク、王都へ来るな。お前が近づけば、扉は鍵を認識する』
夢の部屋が青く染まり、紙が青い水へ変わって床に落ち、足元から広がっていく。最後に父の声が聞こえた。
『第三鍵を、完成させるな』
◇ ◇ ◇
「ルーク!」
目を開けると、バーバラが俺の肩を揺らしていた。窓の外は夕方。眠っていたのはわずか数刻のことだった。「夢……父さんの文書……」と声が掠れる。ダグラス、オリヴィア、アーヴィン、全員がこちらを見ていた。「何を見た」と問われ、俺は呼吸を整えて答えた。
「第三鍵は物じゃない。泉主、前世の俺、今の俺……三つの人生、同じ魂。それが第三鍵だ」
部屋が静まり返る。「マティアスは?」という問いに、「偽物を持ってる。扉は開けられない。でも傷つけることはできる」と返した。そして最も重要なことを伝えた。「俺が王都へ行くと、中央の泉が本物の鍵を見つける。父さんは『王都へ来るな』って言っていた。以前セオドア様も同じことを書いたけど、今理由はっきり分かった。俺が中央の泉へ近づくこと自体が、最も危険なんだ」
王都へ行かなければ、セオドアの持つ未解読文書を読めない。マティアスも第三鍵も止められない。だが王都へ行けば、俺自身が中央の泉を開く鍵になってしまう――。
その時、遠隔筆記器へ新たな文字が浮かび上がった。アーヴィンがそれを読み上げる。
『マティアスの位置を確認。王都地下水路ではない。西門より王都外へ逃走』
マティアスは中央の泉を王都地下で探していなかったのだ。さらに文字が続く。
『推定進路――エドワード・E・オリバーの故郷』
俺たちの村だ。第三鍵を持つ男が、王都からこちらへ向かっている。
俺が王都へ行く必要はなくなった。中央の泉を開こうとする者の方から、本物の鍵である俺を求めて近づいてきていたのだった。
◇ ◇ ◇
知らせを聞いた室内は、静寂に包まれた。マティアスがこの村へ向かっているという現実は、あまりにも唐突で、そして最悪のタイミングだった。
「どうして、この村に……」とオリヴィアが絞り出すような声をあげる。「エドワード様の故郷……ここに、何かがあるの?」
「第三の根か、あるいは中央の泉への別の入り口か」とダグラスが険しい顔で顎を撫でた。「あるいは、最初からルークを狙ってのことか。マティアスの持つ鍵が偽物であるなら、本物の鍵――ルークを手に入れようとするのは自然な流れだ」
バーバラが俺を強く抱きしめる。「渡さない。絶対に、あの男にはルークを触らせない」
その手は震えていたが、声には強い覚悟が籠もっていた。俺は胸の奥が熱くなるのを感じながら、自分の体を確かめるように力を込めてみた。逆封鎖の疲労は深く、指先を動かすのがやっとだ。今マティアスが現れても、俺には戦う術がない。
「アーヴィン」俺は掠れた声で呼んだ。「セオドア様に伝えて。『マティアスは俺を、あるいは村にある何かを狙っている。未解読文書の解析を急いでくれ』と」
「分かった」アーヴィンがすぐにペンを走らせる。
「それと」ダグラスがアーヴィンに付け加えた。「王都からの騎士団の追撃はどうなっているかも確認させろ。マティアスが単騎で逃亡しているのか、配下を連れているのかで、こちらの防衛策が変わる」
筆記器がカタカタと音を立て、セオドアからの返信を刻み始めた。
『騎士団の精鋭部隊を即座に追撃に向かわせた。だが、マティアスは古代の転移術式の一部を使用した形跡あり。到達までの時間は予想以上に早い可能性がある』
「転移術式……」俺は眉をひそめた。水脈を使った移動術か。だとしたら、数日かかるはずの距離を一気に詰めてくるかもしれない。
「村の警備を強化しよう」とオリヴィアが立ち上がった。「幸い、先ほどの逆封鎖で警護官たちが集まっている。村の入り口と、第一の根があった森の周辺に巡回を配置するわ」
「待て、オリヴィア」ダグラスが止めた。「下手に刺激すれば、村人が巻き込まれる。マティアスの目的がルークである以上、奴は一直線にここ――この屋敷を目指してくるはずだ」
「じゃあ、ルークをどこか別の場所に隠す?」
「いや」俺は首を横に振った。「隠れても無駄だ。俺が近づくだけで泉が反応するように、マティアスの持つ偽物の鍵も、近くに来れば本物の鍵である俺を感知するはずだ。下手に村の中に隠れれば、探す過程で村に被害が出る」
「じゃあどうするのよ!」オリヴィアが声を荒らげる。「ルークは今、まともに歩くこともできないのよ!?」
「ここで迎え撃つ」
俺の言葉に、部屋中の視線が集まった。バーバラが「ダメよ」と即座に否定する。「そんな身体で何ができるというの。お願いだから、今は休んで……」
「母さん、逃げても解決しないんだ。父さんが残した未解読文書……その意味を解き明かさないと、マティアスを倒しても、第三の根や中央の泉の問題は残る。そして、マティアスがここに来るということは、父さんが隠した『何か』がこの村にあるということだ」
父・エドワードはこの村で育ち、そして泉の秘密に触れた。第一の根が村の地下にあったのも偶然ではない。父さんはこの村で何を見つけ、何を隠したのか。
「ダグラスさん」俺は老医師を見た。「俺の体に、魔力を一時的に活性化させる薬はあるか?」
「あるわけがなかろう」ダグラスは冷たく言い放った。「そんな無理をすれば、お前の精神回路は今度こそ焼き切れる。逆封鎖で命を繋ぎ止めたばかりだというのに、自滅する気か」
「でも、動けないままじゃ……」
「動くのは俺たちの役目だ」ダグラスが杯をテーブルに強く置いた。「お前はそこで指示を出せ。泉の知識、術式の構造、それを見抜くお前の『眼』があればいい。体まで動かす必要はない」
老人の強い言葉に、俺は言葉を詰まらせた。ダグラスは本気で俺を守る気だ。自分たちの命をかけて。
「アーヴィン、セオドア様へもう一つ」ダグラスが指示を出す。「『未解読文書の図形を、簡易的な文字コードに変換して送れ』とな」
アーヴィンが驚いた顔をした。「そんなことができるのですか?」
「エドワードが使っていた暗号術式なら、俺も昔少し見せられたことがある。完全な転写は無理でも、骨組みとなる魔術式の配列なら文字として書き起こせるはずだ。セオドアの側にいる術者なら、それくらい知恵を絞らせろ」
アーヴィンは頷き、迅速に文章を送り送った。数分後、遠隔筆記器が激しく文字を打ち込み始めた。それは意味をなさないアルファベットと数字の羅列、そして記号の組み合わせだった。一見すると無作為な文字列だが、俺の頭の中で、前世の知識とこの世界の魔術理論が組み合わさり、一つの立体的な構造体として組み上がっていく。
「これは……」俺は文字の羅列を目で追った。「術式の構築式だ。父さんは、第三鍵を打ち消すための『逆位相の術式』を書き残していたんだ」
「逆位相……?」オリヴィアが尋ねる。
「波を打ち消す波を作るように、第三鍵が持つ『三つの生の重なり』という概念そのものを一時的に遮断する術式だ。これを使えば、俺が中央の泉に近づいても鍵として認識されなくなる。そして……マティアスの持つ偽物の鍵の波動も、無効化できるかもしれない」
父さんは知っていたのだ。いつか、泉がルークを鍵として求め、あるいは誰かが偽物の鍵を使って扉を暴こうとすることを。その時のために、この術式を用意していた。
「だが、その術式を動かすには何が必要だ?」ダグラスが問う。
「エドワードの血……そして、一定以上の魔力だ」俺は自分の右腕を見た。赤く腫れ上がった皮膚。魔力は底をついているが、血ならある。
「血なら私のでも……」バーバラが言いかけたが、俺は首を振った。「父さんの直系で、なおかつ泉との接続を経験した血じゃないとダメだ。母さんの血じゃ、術式の『鍵』として機能しない」
「結局、ルークの負担になるじゃない」バーバラが悲しそうに眉をひそめる。
「大丈夫だ、母さん。全魔力を放出するわけじゃない。術式の陣を描き、血を垂らすだけでいい。発動のための魔力は、村の周囲に満ちている水脈の残滓を使える」
第一の根は封印されたが、その名残として地中にはまだ活性化した魔力が漂っている。それを触媒にすれば、今の俺の僅かな魔力でも術式を起動できるはずだ。
「よし」ダグラスが立ち上がった。「配置につくぞ。オリヴィア、お前は警護官たちを率いて、屋敷の周囲に魔術障壁を展開しろ。時間を稼ぐだけでいい。正面突破を狙うマティアスを、この部屋に入る前に足止めするんだ」
「任せて」オリヴィアが力強く頷き、剣の柄を握りしめた。「ルークには指一本触れさせないわ」
「アーヴィンはセオドア様との連絡を維持しつつ、王都からの追撃部隊の接近を知らせろ。少しでもマティアスに圧力をかける」
「承知いたしました」
二人が部屋を飛び出していく。残されたのは、俺とバーバラ、そしてダグラスだった。
ダグラスは棚からナイフと羊皮紙、そして精錬された銀の粉末を取り出した。「ルーク、術陣の配置を指示しろ。俺が描く」
「ありがとう、ダグラスさん」
俺は遠隔筆記器から流れてくる記号の羅列を解読しながら、ダグラスに術陣の形を伝えた。円形をベースに、三つの重なる三角形。それぞれの頂点に父の暗号を示すルーン文字を配置していく。ダグラスの手は正確で、迷いなく床に銀の粉で陣を描いていった。
作業を進める間、窓の外の空は急速に暗くなり、濃い紫色の夜が訪れようとしていた。風が強まり、屋敷の木の窓枠がカタカタと揺れる。
ただの風ではない。水気が湿んだ、冷たい風だ。泉の魔力を帯びた、あの嫌な気配が近づいてきている。
「来た……」俺は呟いた。
「マティアスか?」ダグラスが手を止めずに尋ねる。
「ああ。村の外縁の境界線を越えた。速い……もう森の近くまで来てる」
マティアスの移動速度は異常だった。おそらく、自らの身体を泉の魔力で変質させ、人外の速度で移動しているのだろう。なりふり構わないその執念が、遠くからでも肌を刺すような悪意となって伝わってくる。
「術陣は完成した」ダグラスが立ち上がり、銀色の陣を指し示した。「あとはお前の血と、合図だけだ」
「バーバラ」ダグラスは母を見た。「ルークを抱えて、術陣の中央へ」
「ええ」母は俺を優しく、しかし確かな力で抱き上げ、床に描かれた銀の円の中心へと座らせてくれた。母自身もその隣に寄り添い、俺の体を支える。
「ルーク」母が俺の目を見つめた。「何があっても、私があなたを守るから。前世がどうとか、泉がどうとか関係ない。あなたは私の子供よ」
「うん……分かってる、母さん」
その言葉だけで、胸の奥の冷たい恐怖が溶けていくのが分かった。前世の記憶があろうと、泉主との魂の繋がりがあろうと、今の俺を形作っているのはこの温かい家族だ。それだけは、マティアスにも、中央の泉にも奪わせない。
外で激しい金属音が響いた。
続いて、オリヴィアの叫び声と、魔力が弾ける爆発音。戦いが始まったのだ。
「早いな!」ダグラスが扉に向かって構える。「オリヴィアたちがどこまで持たせられるか……」
壁を隔てた廊下から、足音が近づいてくる。一つは重く、引きずるような、水音の混じった足音。もう一つは、それを防ごうと交差する激しい踏み込みの音。
「くそっ、硬い……! 剣が通らない!」オリヴィアの切迫した声が聞こえる。
「退がれ、オリヴィア!」警護官の叫び声。
そして、ドシン、という重い衝撃とともに、部屋の扉が外枠ごと吹き飛んだ。
煙と木屑が舞う中から、一人の男が姿を現した。
マティアス。
かつて見た彼の面影は、もはや半分以上失われていた。右半身は人間の皮膚を保っているものの、左半身は青黒い結晶と水のような流体で覆われ、その瞳は正気を失った濁った光を放っている。胸の central には、黒く輝く小さな石――「偽物の第三鍵」が埋め込まれていた。
「見つけたぞ……エドワードの息子……」
マティアスの声は、まるで水底から響いてくるかのように二重に重なっていた。「本物の……鍵……。それがあれば……中央の泉は……我がものとなる……」
「マティアス!」オリヴィアが背後から斬りかかるが、マティアスの左腕から伸びた水の触手がそれを弾き飛ばした。オリヴィアは壁に激突し、苦しげに喘ぐ。
「オリヴィア!」ダグラスが叫び、腰の薬品瓶を投げつけた。煙幕が弾け、マティアスの視界を奪う。
「今だ、ルーク!」ダグラスが怒号をあげる。
俺は躊躇わず、ダグラスから受け取っていたナイフで自分の手のひらを浅く切った。赤い血が零れ落ち、床の銀の術陣へと染み込んでいく。
「父さん……力を貸して!」
血が触れた瞬間、銀の術陣が鮮やかな青白い光を放ち始めた。その光は、マティアスの胸にある黒い石から発せられる歪んだ魔力を真っ向から打ち消し、部屋全体を包み込んでいく。
「グアアアッ!?」
マティアスが苦悶の声をあげて胸を押さえた。黒い石がパキパキと音を立てて亀裂を生み出していく。「何だ……これは……!? 鍵の反応が……消える……!?」
「これが父さんの作った逆位相術式だ」俺は掠れた声でマティアスを見つめた。「お前の持っている鍵も、俺の魂の波長も、すべて相殺される。お前はもう、中央の泉を開くことも、扉を傷つけることもできない!」
「貴様ぁぁぁっ!」
マティアスが狂乱し、異形と化した左腕を振り上げて俺へと襲いかかってきた。動きは速い。だが、術陣の光に触れたその身体は、まるで酸を浴びたように崩れ始めていた。
「ルークには触らせない!」
バーバラが俺を庇うように前に躍り出、その手にはダグラスが手渡していた防衛用の魔導具――圧縮された空気の衝撃波を放つ筒が握られていた。
ズドンッ! という凄まじい風切り音が部屋に響き渡る。
ゼロ距離で衝撃波を受けたマティアスは、崩れかけた身体を大きく後方へと吹き飛ばされ、破壊された扉の向こうの廊下へと転がり出た。
「はぁ……はぁ……!」バーバラが息を荒らげながら、筒を構え続ける。
廊下に倒れたマティアスは、胸の黒い石が砕け散り、左半身の水の結晶も次々と崩壊していった。偽物の鍵が破壊され、暴走していた泉の魔力が彼自身の身体を苛んでいるのだ。
「バカな……私は……選ばれたはずだ……泉の主として……」
マティアスは力なく手を伸ばしたが、そのまま動かなくなった。体から青黒い水が抜け出し、ただの崩れた肉塊へと変わっていく。完全に魔力の供給が絶たれ、彼の野望はここで潰えたのだ。
静寂が部屋に戻ってきた。
「終わった……の?」オリヴィアが体を起こしながら、信じられないといった様子で呟く。
「ああ……マティアスは倒れた」ダグラスがマティアスの遺体に近づき、死脈を確認してから頷いた。「息はない。偽物の鍵も完全に砕け散った」
俺は重い安堵の息を漏らした。緊張が切れた瞬間、全身の力が完全に抜け、視界がグラリと揺れる。
「ルーク!」バーバラが抱きとめてくれた。「大丈夫!? 血が……」
「大丈夫……かすり傷だ……」俺はかすれた声で笑ってみせた。「術式は……うまく動いたみたいだ……」
銀の術陣は光を失っていたが、胸の奥にあった嫌な圧迫感――中央の泉に引き寄せられるような感覚は、綺麗に消え去っていた。父の残した逆位相の術式が、俺の中の「鍵」としての波長を一時的に遮断してくれたのだろう。
その時、遠隔筆記器が再び音を立てた。アーヴィンが駆け寄り、紙を読み上げる。
『王都追撃部隊、村の近郊に到着。マティアスの確保および状況の報告を乞う』
「セオドア様に伝えてくれ」俺はアーヴィンを見た。「マティアスは倒した。偽物の第三鍵も破壊した、と」
『了解した。……それと、セオドア様より追加の報告あり』
アーヴィンが紙の続きを読み進め、目を見開いた。
『王立医術院の保管庫より、エドワードの未解読文書の解読が最終段階に入った。文書の末尾に、彼が最期に残したメッセージが復元された』
「父さんの……メッセージ?」
アーヴィンは息を飲み、一枚の紙を俺に見せるように掲げた。そこには、遠隔筆記器の文字でこう打たれていた。
『第三鍵を完成させるな。ルーク、お前が三つの生の記憶を受け入れ、一つの魂として調和した時、お前は泉の鍵ではなく、泉を永久に封じる『蓋』となる。選択はお前にある。生きることを諦めるな』
部屋の中に、父の温かい声が響いたような気がした。
父さんは、俺が鍵として泉に呑み込まれることを望んでいなかった。前世の記憶に苦しみ、泉主に引きずられるのではなく、今世の「ルーク」として生きることで、泉の脅威そのものを終わらせる道を示してくれていたのだ。
「蓋……」俺は自分の手を見つめた。
鍵として扉を開けるのではなく、三つの生の記憶を力に変えて、完全に泉を封印する。それが父エドワードが俺に託した、本当の未来だった。
「ルーク」バーバラが俺の頬を優しく撫でた。「意味はよく分からないけれど……エドワードは、あなたに生きてほしいと言っているのね」
「うん……」
「だったら、決まりだな」ダグラスが満足そうに頷いた。「まずはその体を完全に治すことだ。王都へ行くにしても、泉をどうにかするにしても、健康な体くなければ何もできん」
「そうよ!」オリヴィアも笑顔を見せた。「今度こそ、ちゃんと休みになさい! 煮込み料理も、体が良くなるまでお預けよ!」
「えっ、煮込みは……」
「文句を言わないの」バーバラがクスリと笑う。「体調が戻ったら、特大のを作ってあげますから」
皆の笑い声が、静かな部屋に広がっていく。
窓の外を見ると、夜空の雲が切れ、澄んだ星空が広がっていた。恐怖も、水音も、もう聞こえない。俺を温かく包み込む、家族と仲間の気配だけがそこにあった。
俺は深い安らぎの中で、今度こそ静かに目を閉じた。
明日からのリハビリは大変そうだが、今はただ、この温かい眠りに身を任せよう。父さんが残してくれた希望と、みんなが守ってくれたこの場所で。




