Ep198. 二人目の泉口
保存器の箱は閉じたまま、白石にも囲まれている。それでも赤い声は部屋の隅々まで響いた。
王弟エリアス、接続率四十三。国王、接続率三。第二の根が二人同時に、王家の兄弟へつながった。
「国王の名前は?」俺が尋ねる。保存器はすぐには答えない。箱を開けていない。詳しい情報を表示するには第一鍵との接続が必要だという。
「開けるな」ダグラスが俺より先に言った。「名前を知るためだけに、また泉へ道を作る必要はない」
「でも、手紙に国王が危険だと書くなら名前は不要だ」
王都へ届く手紙——王立医術院、セオドア、北井戸、王弟、国王。それだけで十分だった。
「追加の手紙は、もうオリヴィアが持って行った」バーバラが言う。「今からさらに送っても追いつかない」
なら、オリヴィアたちが宿場町へ着く前に何とか知らせる方法はないか。
「王弟へ」俺は白石を巻かれた手を見る。「伝えられるかもしれない」
銀色の線、王弟との接続。声が届いた。なら国王の危険を王弟へ伝えれば、王宮の中で北井戸を止められる。王へ水を近づけない。眠らせない。誰かをそばへ置く。できることがある。
「また線を使うつもりか」ダグラスの声が低くなる。
「向こうから声が来るのを待つ間に、国王の接続率が上がる。でも、こっちからつなげば俺の線も増える」
分かっている。一度目、王弟の声へ答え、線は指先から手首近くまで伸びた。次は腕、胸、第二の根への完全な道ができる可能性がある。
「王弟が国王へ近づけるなら、俺より安全に止められる」王弟自身も接続率四十三、泉主の誘惑から完全には逃れられていない。それでも今は自発接続を止めている。妹の偽物を疑い始めている。
「王弟へ伝えた後すぐ切る」「誰が切る?」バーバラが尋ねる。「母さん」「方法は?」「白石を線に当てて、俺が返事しなくなっても離さない」
母の顔が厳しくなる。「あなたが痛がっても?」「うん」「やめてと言っても?」
泉主に考えを変えられ、接続を望むかもしれない。その時の俺は今の俺ではない。「離さないで」「分かった」
バーバラは白石の板を握る。ダグラスも反対はしなかった。代わりに俺の腕へ別の白石を巻きつける。「線が肘を越えたら強制的に止める」「どうやって?」「魔力路を一時的に塞ぐ」「痛い?」「かなり」「分かった」「簡単に言うな」「国王よりは安い」
ダグラスが俺の額を軽く叩く。「命を値段で比べるな」「うん」
言葉では分かる。だが今、王都では数万人の生活を支える水路、その権限を持つ国王へ第二の根がつながった。国王が泉口になれば王都全体へ泉の水を流せる。一人の接続では終わらない。
「呼びかける」俺は白石の下へ意識を向ける。銀色の線、冷たさ、遠い場所、暗い夢。その中に王弟の気配を探す。「エリアス」返事はない。「王弟」
冷たさが指先から手首へ動く。線が僅かに光る。「聞こえる?」
しばらくして、かすかな息遣い。『また、お前か』王弟。
「国王が危ない」向こうの気配が止まる。『兄上が?』「北井戸の水を飲んだ。第二の根が副接続先に選んだ」『なぜ分かる』「保存器。父さんの接続率は三」『三』
王弟は、その数字の意味をどこまで理解しているのか。「あなたは四十三」『……そうか』
驚かない。自分の身体が泉へ近づいていると感じている。『兄上は今夜、評議会後に北井戸の水を口にする』「今夜?」『王宮の北井戸は王家の夜会議でのみ使われる』
「今は何時?」部屋の窓を見る。昼を少し過ぎた頃。王都まで同じ時刻とは限らないが、大きくは違わない。『会議はすでに始まっている』
夢ではない。王弟は起きている。「今どこ?」『私室だ。目を覚ました後、身体が動かない』
接続率四十三。泉主は王弟を眠らせ夢へ戻そうとしている。身体を止めている。「人を呼べる?」『声が出ない』
今、俺と話している声は接続を通じた思考。現実の身体では話せない。「鐘」「物を倒す」「何かない?」『手も動かない』
完全に身体の自由を奪われている。王弟が自発接続を拒んだため、泉主は力ずくで夢へ戻そうとしている。
「近くに人は?」『扉の外に侍従がいる』「聞こえるように何かできない?」『魔力なら僅かに』
王弟は高い魔力を持つ。第二の根の接続条件。身体が動かなくても魔力を外へ出せるかもしれない。「扉へ魔力をぶつけて」『そんなことをすれば接続が深まる』王弟の魔力路にはすでに根がある。魔力を使えば泉の道も広がる。
「それでも国王を止める」『お前は自分の接続を深めて私へ知らせたのか』「少し」『愚かだな』「父さんも、あなたを愚か者って呼ばなかった」
王弟が微かに笑った。『あの男ならお前を叱るだろう』「ダグラスにはもう叱られた」老人が横で眉を寄せる。声は聞こえない。それでも俺が何を話しているか表情で分かるらしい。
『分かった』王弟が言う。『兄上を止める』「北井戸も」『閉鎖させる』「あと、リディアの約束」
王弟の気配が揺れる。『何の話だ』「窓辺で、あなたが答えなかった約束」長い沈黙。『なぜそれを知っている』「リディアの影が俺に見せた」『あれが?』「自分を消してほしいって、あなたに自分の人生を生きてほしいって」
『嘘だ』王弟の怒り。銀色の線が手首から腕へ伸びる。冷たい痛み。バーバラがすぐに白石を強く当てる。「続ける?」「うん」
『あれは私へ戻りたいと言った』「泉主に書き換えられてる。本当の影は戻りたくない」『黙れ』「リディアはあなたが消えることを望まない」『黙れ!』
線がさらに伸びる。肘の少し手前。ダグラスが俺の肩へ手を置く。「もう限界だ」「あと少し」「駄目だ」
王弟へ言わなければ。「本物の妹なら、あなたの身体を使って戻ることを選ばない」『分かったような口を利くな!』「分からない。でも母さんも、父さんが戻るために俺を差し出さない。大切だから、そんな戻り方を選ばない」
王弟の怒りが急に止まる。銀色の線も肘の手前で止まった。『大切だから戻さない』「うん」『それが愛だと言うのか』「たぶん」
俺にはまだ愛が何か完全には分からない。前世では誰かを必要とすることを弱さだと思っていた。今は失いたくないと思う。守りたい。そばにいてほしい。だからこそ、その人が望まない形へ変えてはいけない。
『私は妹を愛していた』王弟の声が小さくなる。「うん」『だから戻したい』「うん」『だが戻さないことも愛なのか』「リディアがそう言ってる」
王弟は答えない。代わりに遠くで何かが割れる音。魔力。王弟が現実の部屋で何かへ力をぶつけた。『侍従が入ってきた』「伝えて」『声が』「紙に書く。指が動かなくても魔力で」
王弟の気配が現実へ向く。俺との接続が薄くなる。『エドワードの息子』「なに?」『王都へ来るな』「行く」『第二の根はお前を待っている』「知ってる」『ならば』「父さんが俺を近づけないために全部したことも知ってる」『それでも来るのか』「父さんが守ろうとしたものを俺も守る」
王弟はしばらく黙り、『似ていないな』「誰に?」『エドワードに』「そう?」『あの男はもっと慎重だった』「俺も慎重」横でダグラスが呆れた顔をする。
『だが』王弟の声に僅かな温かさが混じる。『同じ目をしている気がする』「見えてるの?」『今は少しだけ』王弟の夢と俺の意識が重なっている。向こうにも俺の姿が見える。
『子どもだな』「知ってる」『本当にあの男の息子なのか』「何度聞くの」『エドワードがこんなに無謀な子を残したとは思えん』「母さんにも似た」
バーバラが目を細める。聞こえていないはずなのに自分の話だと分かったらしい。『そうか』王弟の声が遠ざかる。『侍従へ伝える。兄上を止める』
「待って」『何だ』「第二鍵。リディアの遺体にある」沈黙。『何を言っている』「父さんが鍵を使って身体に取り込まれた。王家霊廟。セオドアは知ってる」『霊廟へ入るには国王の許可が必要だ』「だから国王を助けて」『分かった』
「それから、王都で会ったら」『まだあるのか』「父さんに何を言いたかったか教えて」王弟の気配が止まる。『なぜ』「聞きたい」『本人へ言うべきだった』「もう言えない」
長い沈黙。『謝りたかった』王弟の声は静かだった。『信じなかったことを、追放したことを、妹を救えなかった責任を、全て押しつけたことを』「父さんは恨んでなかった」『それでも』「じゃあ俺が聞く」『お前が?』「父さんの代わりじゃない。息子として」
王弟は小さく息を吐いた。『なら王都で』接続が急に揺れる。泉主。青い声が割り込む。『そこまでだ』王弟の気配が引き離される。
『兄さま』リディアの声。甘い。泉主に書き換えられた影。『私を置いていくのですか』『違う』王弟が苦しそうに答える。『お前はリディアではない』
初めて王弟が自分の口で否定した。泉主の気配が激しく揺れる。『違いなどない。記憶、声、姿、全て同じだ』『ならば』王弟が言う。『本物のリディアが私へ何を望んだかも同じはずだ』
窓辺の約束。兄の人生を生きて。王弟は思い出した。『お前は私と共に来いと言った。だからお前はリディアではない』
青い影が悲鳴を上げる。少女の姿が崩れる。『兄さま、助けて』王弟の感情が大きく揺れる。それでも『すまない』王弟は影から手を離した。『今度こそお前を見送る』
◇ ◇ ◇
接続の向こう、強い光。『第二接続先』『自発接続』『解除』保存器の声。『接続率』『四十三』『三十七』『二十九』数字が急速に下がる。王弟が泉主の誘いを拒絶した。根はまだ身体に残っている。だが自ら受け入れる道は閉じた。
「切る!」ダグラスが叫ぶ。バーバラが俺の腕へ白石を押し当てる。俺も王弟との道から意識を引く。だが泉主が俺の側へ移ろうとしている。『王弟が不要ならお前でいい』
銀色の線が肘を越える。胸へ向かう。痛い。冷たい。身体の中を根が走る。「ルーク!」「切って!」ダグラスが俺の腕の魔力路へ指を当てる。強い熱、焼けるような痛み。銀色の線が途中で膨らみ、そして途切れた。
指先側の線は残る。だが肘から上、胸へ向かっていた光は消えた。接続、切断。俺は息を吐き、バーバラの腕へ倒れた。
「ルーク」「聞こえる?」「うん」「名前は?」「ルーク」「私は?」「母さん」「泉主は?」頭の中、声。ない。「いない」
ダグラスが腕を確認する。魔力路を無理に塞いだ部分が赤く腫れている。「しばらく右腕は動かすな」「王弟は?」「今は自分を心配しろ」
保存器の箱から再び声。『第二接続先』『接続率』『二十二』下がり続けている。王弟は自分で拒絶した。完全に切れるまで時間はかかる。それでも泉口になる危険は大きく減った。
だが『副接続先』『接続率』『十一』国王。三から十一。王弟と話している間に上がっていた。しかも『副接続先』『夢層移行』国王も泉主の夢へ入り始めた。
「何を見せる?」バーバラが呟く。王弟には妹。国王も同じ妹を失っている。泉主は同じ餌を使うのか。保存器の声が答える。『提示対象を選定』『最重要欲求』『王国の存続』
妹ではない。国王が最も望むもの。国を守ること。『提示内容』『滅亡の未来』泉主は死者ではなく未来を見せる。国王が泉を受け入れなければ王国が滅びる。そう信じさせる。
『副接続先』『受容反応』『上昇』『接続率』『十七』王弟を救えた。その代わり今度は国王が、国を守るために泉へ手を伸ばし始めた。




