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Ep197. 死者の声

『私を』『もう一度』『死なせて』——若い女の声が、白石の下から確かに聞こえた。俺だけではない。バーバラも、ダグラスも、オリヴィアも、全員が息を止めている。


「今の声、聞こえた?」とオリヴィアが呟く。「聞こえた」とバーバラが答え、俺の手を握る力を強めた。


泉主の声ではない。王弟エリアスでもない。保存器の映像で見た、淡い金色の髪の女——リディア。泉が王弟の記憶から作り出した、死んだ妹の偽物だ。


「返事をするな」とダグラスが言う。「相手が何であれ、接続を深める可能性がある」。白石をさらに重ねると、銀色の線の光は弱くなった。だが声は消えない。


『聞こえていますか』先ほどより、はっきりとした声。『エドワードの息子』。俺を知っている。泉が作った存在なら、王弟の記憶にはないはずの情報も、泉主から与えられる。だからそれだけでは、本物の証明にならない。


「何も答えないで」とバーバラが言う。「うん」そう答えた直後、『兄さまは』『私を救えなかったことを』『ずっと悔やんでいます』と声が続いた。静かな響きで、王弟を誘う時の甘さとは違う。『ですが』『私は』『戻りたくありません』。


「泉主に、そう言わされてる?」俺は思わず口を開いた。「ルーク」と母の声がする。約束——一人で答えない。「皆に聞いてる」と俺は言い直す。「これ、どう思う?」


ゲイルは不在。今いるのはバーバラ、ダグラス、オリヴィアの三人。互いを見交わす。


「罠だと思う」最初に答えたのはオリヴィア。「助けてって言われたら警戒するけど、死なせてって言われたら本物かもしれないって思う。そこを狙ってる可能性がある」「私もそう思う」とバーバラが頷く。「あなたに保存器を開けさせたいのかもしれない」


ダグラスは白石の位置を確かめながら言う。「だが、声が泉主の意図に反していることも事実だ」「どういうこと?」「記憶から作られた存在が、作った者の命令へ必ず従うとは限らん」


記憶、姿、声、感情——本人に近づけるため、泉主は王弟の中にあるリディアの全てを使った。その結果、泉主の道具ではなく、自分をリディアだと認識する存在が生まれた可能性がある。


「偽物でも、自分で考えてる?」と俺は言う。「可能性はある」とダグラスは答えた。「だが、本人かどうかは別の話だ」


『私は』『リディアではありません』——全員の表情が変わった。自分で否定した。『兄さまの記憶から』『作られました』『兄さまが覚えている私しか、私は知りません』


泉が作った偽物だと、本人も分かっている。「どうして泉主に逆らえる?」と俺は尋ねる。母が俺を見たが、止めなかった。一人で決めず、皆の前で話すなら許す——そういう目だった。


『兄さまが』『私を強く覚えているからです』『私は』『泉の命令より』『兄さまの記憶に近い』。王弟の中のリディアは兄を愛していた。兄を利用して身体を奪おうとはしない。だから偽物であっても、その記憶通りに兄を守ろうとしている。


「もう一度死なせてって、どういう意味?」『私を構成する記憶を』『第二の根から切り離してください』『そうすれば』『兄さまを誘惑するものがなくなります』。リディアの姿を消し、泉主が王弟をつなぎ止めるための最も強い餌を失わせる、という意味だ。


「切り離すには?」『第二鍵が必要です』。やはり王都、王立医術院か。「今はできない」『分かっています』『ですから』『王都へ来てください』


「罠じゃない証拠は?」オリヴィアが俺より先に尋ねた。声は少し沈黙する。『ありません』。正直だ。それすら罠に見える。『私が』『泉主の一部ではないと』『証明する方法はありません』


「じゃあ、どうして信じてもらえると思ったの?」とオリヴィアが言う。『信じてほしいとは』『思っていません』『ただ』『兄さまへ』『伝えてほしいことがあります』——王弟へ、リディアの偽物からの言葉。


「何を?」『あなたは悪くない』。短い言葉。それは泉主が王弟を誘惑するためにも使った、責めない言葉——あなたは悪くない。同じ言葉だが、続きが違う。


『だから』『私を取り戻そうとしないで』『兄さまが』『これから生きるために』『私を忘れてください』。白石の下、銀色の線が弱く震える。『それが』『本物の私なら』『きっと望んだことです』


王弟の記憶から作られた存在だからこそ、王弟が心のどこかで知っている。本当の妹なら、自分を犠牲にしてまで蘇らせてほしいとは言わない。その思いが、偽物の言葉になっている。


「王弟に直接言えない?」と俺は言う。『兄さまは』『私の言葉を』『泉の言葉として受け取ります』「今も?」『私が』『戻りたくないと言うたび』『泉主が記憶を修正します』


王弟が見ているリディアは帰りたいと言い、兄を求める。それは泉主が都合の悪い部分を何度も書き換えているからだ。『私は』『消されるたびに』『また兄さまの記憶から作られます』。生まれる、泉主へ逆らう、消される、また作られる——同じことを何度も。


『死ぬのは』『怖くありません』『私はすでに』『死んだ人の影です』『ですが』『兄さまが』『私のために消えることは』『耐えられません』。声が途切れ始める。泉主に見つかりかけている。


『王都へ』『来る前に』『覚えておいてください』『泉は』『人を生き返らせません』『失った人を』『失えないままにします』


銀色の線が強く光った。俺の頭に一つの景色が流れ込む——王宮の白い部屋、窓辺に座る少女。リディア、まだ生きている。向かいに若い王弟エリアス。


『兄さま』『私が死んでも』『ずっと泣いていてはいけませんよ』『死なせない』『もしもの話です』『もしもでも言うな』『では』『約束してください』。少女が笑う。『私がいなくなっても』『兄さまは』『兄さまの人生を生きると』


王弟は答えなかった。記憶はそこで途切れる。最後にリディアの声。『あの約束を』『思い出させてください』


銀色の光が消えた。声も完全に途絶える。俺は息を吐く。指先が熱い。ダグラスがすぐに白石を外す。銀色の線は手首の少し手前で止まっている。増えてはいない。だが線の中に、淡い金色の点が一つだけ混ざっていた。


「今の記憶、お前の中へ入ったのか」とダグラスが尋ねる。「うん」「リディアの?」「王弟の記憶」。正確には、第二の根が読み取った王弟の記憶を、リディアの偽物が俺へ渡した。


「危険だ」とダグラスが言う。「他人の記憶を、これ以上受け入れるな」「今回は勝手に来た」「次から遮断する」「できる?」「方法を探す」


言いながら俺は指先の金色を見る。保存器へ移せるか、第一鍵を使えば調べられる。だが今は開かない。約束、そして王弟へ伝える言葉を失うわけにはいかない。


「忘れないように、書いて」と俺は言う。バーバラがすぐに紙を取る。俺が見た記憶——窓辺、少女、約束。一つずつ、母が書き留める。


「兄さまの人生を生きて」とオリヴィアが小さく繰り返す。「それを聞けば、王弟も目を覚ますかな」「分からない」。泉主はもっと強い言葉を使う。妹は戻る、罪は消える、過去を変えられる。それに比べ、リディアの言葉は失った事実を受け入れろと言う。苦しい方だ。簡単ではない。


「それでも」とバーバラが筆を置く。「本当に大切な人の言葉なら、苦しくても分かることがある」。母は父を失っている。戻せると言われたらどうする。聞けない。だが母は俺の考えを読んだように言う。


「お父さんが戻ると言われても、私は泉を受け入れない」「どうして?」「あなたを失うから」——迷わない。母は父の帳面へ触れる。「それに、お父さんはそんな方法で戻ることを望まない」「本物なら?」「本物でも」とバーバラは答えた。「死んだ人を戻すために、生きている人を差し出すなら、それは再会じゃない」


母の中にも会いたい気持ちはある。それでも選ばない。王弟にも同じ選択ができるか。


「手紙に、リディアの言葉を入れる」と俺は言う。「全部?」「全部は危険」。途中で読まれれば、王家の秘密、妹の死、泉——知られる。「セオドアに、王弟へ伝えてもらう」「窓辺の約束、それだけ」


セオドアがリディアを診ていたなら、その約束を知っている可能性がある。あるいは王弟へ俺たちより近づける。バーバラが手紙の最後へ一文を加えた。『窓辺で交わされなかった約束を、殿下へ』。本人にしか意味が分からない。


「これでいい」封をやり直す。だがゲイルは、すでに宿場町へ向かった。最初の手紙を持って。


「追加の手紙、追いかける?」とオリヴィアが言う。「私が行く」「駄目」とバーバラが止める。「あなた一人では危険よ」「でも、ゲイルに追いつける人が必要」


馬は村にもう一頭いる。速さはゲイルの馬より劣る。それでも急げば、宿場町へ着く前に追いつける可能性がある。「俺が」「行けるわけないでしょ」とオリヴィアに先に言われた。「言ってない」「顔に書いてある」。身体が動かない。馬に乗る以前の問題だ。


「私が行く」とオリヴィアはもう一度言った。「村の人に途中まで一緒に来てもらう」「手紙を渡したら、すぐ戻る」。現実的だ。バーバラは迷う。「トムのお父さんへ頼みましょう」「村の見張りは?」「他の人へ引き継ぐ」


誰も一人で動かない。父の記録——泉は孤独を道にする。それを忘れない。オリヴィアは追加の手紙を服の内側へ入れた。「行ってくる」「無理しないで」「ルークに言われたくない」「俺は一番無理する」「分かってるなら直して」


そう言い残し、オリヴィアは部屋を出た。しばらくして、馬の蹄が東へ向かう。


   ◇ ◇ ◇


静かになった部屋で、ダグラスは俺の手を再び調べた。「金色の点、増えてはいない」「痛みは?」「ない」「声は?」「聞こえない」「記憶の混乱」「今のところない」


リディアの景色は自分の記憶ではないと分かる。窓辺、少女、王弟——明確に他人のもの。第一鍵で一部だけ戻した時に起きるとされた、他者の記憶と認識する状態。今回はそれでいい。自分のものと混ざる方が危険だ。


「少し眠れ」とダグラスが言う。「ゲイルたちが戻るまで、身体を回復させろ」「王都へ行く準備」「お前がしなくても進む」。バーバラも頷く。「服も薬も私が用意する」「父さんの記録は?」「ダグラスさんと分けて読む」「俺も」「休んでから」


反論できない。身体はすでに重い。頭も他人の記憶を受けたせいか、熱を持っている。「眠ったら第二の根に入られるかも」と俺は指先を見て言う。「白石を巻いたままにする」とダグラスが答える。「俺もそばにいる」「母さんも」「もちろん」


一人ではない。なら眠る。寝台へ移される。バーバラが毛布をかける。「母さん」「なに?」「父さんが戻ってくるって言われても、本当に断れる?」さっき聞いた。答えも聞いた。それでも確認したかった。


母は俺の髪へ触れる。「断れる」「悲しくない?」「悲しい」「会いたくない?」「会いたい」「じゃあ、会いたいことと戻していいことは別よ」母の声に迷いはない。「大切だからこそ、その人が望まない戻し方を選んではいけないの」


王弟へその言葉を届けたい。妹を大切に思うなら、妹が望まない形で戻してはいけない。「寝る」「ええ」「起きたら王都へ行く」「まず食事をしてから」「……うん」


目を閉じる。白石の冷たさ、母の手、ダグラスが紙をめくる音。それらを感じながら、意識が沈む。


   ◇ ◇ ◇


夢ではない。暗い場所。水も泉主もいない。ただ遠くに窓がある。その前へ少女が座っている。リディア。先ほど見た記憶と同じ。だが顔がない。


「また来た?」と俺が尋ねる。少女は首を横へ振る。『私は』『先ほどの私ではありません』「誰?」『あなたの中へ残った記憶です』。他人の記憶が夢の中で形を持った。


「本物じゃない」『はい』「泉の偽物でもない?」『はい』「じゃあ何のためにいる?」少女は窓の外を見る。そこには王都、高い城壁、王宮、そして地下へ広がる銀色の根。『忘れた情報を』『あなたへ渡すためです』「誰が?」『エドワード』


父だ。景色が変わる。王立医術院の地下。若い父、セオドア、そして寝台に横たわる幼い少女、リディア。父は少女の胸へ第二鍵を当てている。『第二鍵は』『医術院の地下にはありません』


王弟は地下を探せと言った。だが鍵はそこにない。「どこ?」『リディアの中です』。少女の胸、青い変質。父は第二鍵を使い根との接続を切ろうとした。失敗し、鍵は少女の魔力路へ取り込まれた。死後、青い変質は消え、遺体に泉の反応もなかった。父の記録には、そう書かれていた。


では鍵は遺体と共に——「墓」と俺は呟く。『王家霊廟』。王宮の地下、王族の墓。第二鍵はリディアの遺体と共に埋葬されている。


「医術院にあるって、保存器は言った」『最後に記録された場所が』『医術院だったからです』。第一鍵も保存器も完全ではない。記録された情報、更新されない事実は間違う。王都へ着いて医術院だけを探せば、時間を失う。


「王弟は知ってる?」『知りません』「セオドアは?」『知っています』。だから父は第二鍵を託したと書いた。物として渡したのではなく、鍵がリディアの中にあることを秘密として託した。


「どうして今これが分かる?」『王弟の記憶に』『セオドアの言葉が残っています』。景色は、リディアの葬儀、棺。若いセオドアが王弟へ言う。『殿下』『どうか』『御遺体を焼かないでください』『なぜだ』『エドワードが』『最後に守ろうとしたものが』『残っています』


王弟は意味を知らないまま土葬を許した。第二鍵は今も王家霊廟、リディアの遺体の中にある。


「これをどうやって皆に伝える?」『目覚めれば』『記憶として残ります』「本当に?」『あなたが』『忘れなければ』。少女の姿が薄くなる。


「待って」『時間です』「リディアの偽物は、まだいる?」『何度でも作られます』「助けられる?」『助けるという言葉が』『何を意味するかによります』


存在を残す、自由にする、消す——どれが彼女を救うことになるのか。『彼女が望むのは』『終わることです』「消すしかない?」『兄さまが』『自分の記憶として』『妹を受け入れれば』『影は必要なくなります』


死者を外へ戻すのではなく、自分の中の記憶として受け入れる。それが王弟に必要なことだ。少女が消える。最後に、窓の外——王都の地下、銀色の根の一部が赤く染まった。『急いでください』『王が』『北井戸の水を飲みました』


   ◇ ◇ ◇


「母さん!」目を開ける。身体を起こす。眩暈がする。それでも止まれない。バーバラがすぐに俺を支える。「どうしたの?」「第二鍵」「医術院じゃない」息を整える。「リディアの遺体」「王家霊廟」


ダグラスが父の帳面を持ったまま、こちらを見る。「夢で見たのか」「他人の記憶」「王弟の中にあった」「セオドアは知ってる」「鍵は」「リディアの身体に取り込まれた」


そしてもう一つ。「国王が北井戸の水を飲んだ」。部屋が静まる。王弟が拒絶したことで、第二の根は代替接続先を探した。王家の血、高い魔力、水路への権限、すべてを持つ国王へ。


「いつ?」とダグラスが尋ねる。「分からない」「でも始まった」。白石の下、銀色の線が急に脈打つ。保存器の箱は閉じているのに、赤い声が響く。『副接続先』『選定完了』『接続率』『三』


王弟、四十三。国王、三。泉は一人を諦めたのではない。二人同時に、王家の兄弟へ根を伸ばし始めた。

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