Ep196. 一本だけ戻った線
指先に現れた銀色の線を、全員が見ていた。細い、髪の毛ほどの線が、右手の人差し指から手の甲へ向かって、ほんの少しだけ伸びている。
「動くな」ダグラスが俺の腕を掴んだ。指先、爪、手首と順番に確認する。
「痛みは?」
「ない」
「痺れは」
「少し冷たい」
「魔力を感じるか」
胸の奥へ意識を向ける。第二の根とつながった時に感じた冷たさは、もう消えている。残っているのは指先の線だけだった。
「今は」
「何も」
ダグラスが線へ布を当てる。反応なし。冷水、白石、どちらを近づけても色は変わらない。
「接続率は一だった」オリヴィアが言う。「切れたなら、この線も消えるんじゃないの?」
「完全には切れてない」俺は答えた。
第一の根を封じた後、胸にあった線は消えた。だが今回の接続は、第二の根から直接ではない。第一鍵、保存器、王弟の夢――複数の道を通った。その途中で、欠片だけが残ったのだ。
「鍵を開けるな」ゲイルが言う。「少なくとも王都へ着くまで、第一鍵と保存器を近づけない」
「でも」俺は箱を見る。「王弟の接続率、確認できない」
「確認するたびに、お前がつながるなら意味がない」
正しい。情報を得るために俺が第二の根へ接続されるなら、王弟を助ける前に俺も泉口へ近づいてしまう。
「別の人が見る」オリヴィアが言った。「私が第一鍵を触らずに、保存器の表示だけ確認する」
「駄目」ダグラスが止める。「保存器だけでも泉主の断片が入っている。誰にどう反応するか分からん」
箱の中の泉主の意識は、小さな断片だ。それでも王弟の夢を見せ、俺たちへ話しかけた。安全な道具ではない。
「王弟は」俺は言う。「父さんを知ってた」
皆の視線が俺へ戻る。『エドワードの息子』『生きていたのか』――王弟は確かにそう言った。父が俺の存在を王弟へ話していた。あるいは俺が生まれる前から、泉と俺の関係を知っていたのだ。
「父さんの記録」バーバラが机の引き出しを見る。「まだ調べていない物がある」
薬師小屋から、保存器だけでなく父の古い道具や紙も持ち帰っていた。湿気で傷んだ冊子、薬草の記録、水質調査、意味の分からない数字。その中に王弟、第二鍵、王立医術院――何かが残っているかもしれない。
「手紙を書く前に確認する」ゲイルが言う。「王弟の名前があれば、内容を変える必要がある」
手分けして父の記録を開く。俺は文字を読めるが、医魔術の専門用語は抜けているものが多い。見覚えがあるのに意味が出てこない。その度にダグラスへ渡す。
「これは薬の配合だ」「こっちは血流と魔力循環の比較」
「父さんは」俺が尋ねる。「普通の薬師だった?」
「少なくとも」ダグラスは紙から目を離さず答える。「普通ではない。この記録は王立医術院の研究者が書く水準だ」
父――村の薬師、無口で、石を集め、水を調べていた。それだけではなかった。王都で高度な医術と魔力研究を学び、そして泉へ近づいた。
◇ ◇ ◇
「これ」オリヴィアが一冊の薄い帳面を見つける。表紙に文字はない。中には日付と、人名らしき頭文字だけが並んでいる。E、S、L。同じ三つが何度も出てくる。
「Eは父さん?」
「エドワード」バーバラが頷く。「Sはセオドア」
「Lは?」
リディア。王弟の妹の頭文字はLだ。だが王族の少女と父が直接関わっていたのか。
帳面の後半、文字が急に増えている。
『L、発熱継続』
『通常治療へ反応なし』
『魔力路に青色変質』
『北井戸の水を停止するよう進言』
『却下』
リディアは病だった。事故ではない。青色変質――泉の影響だ。
「父さんは王妹を診てた?」バーバラの顔が青ざめる。
ダグラスが帳面を受け取り、頁をめくる。
『Sと共に地下水路を調査』
『第二鍵を発見』
『封鎖室への道は閉鎖』
『王家の許可がなければ進入不可』
『E殿下へ説明』
『信じてもらえず』
E殿下、エリアス。当時の王弟。父は妹の病が泉によるものだと説明した。だが信じてもらえなかった。
「だから」俺は呟く。「王弟は父さんを知ってた」
次の頁、文字が乱れている。
『L、死亡』
『青色変質は死後消失』
『遺体に泉の反応なし』
『第二の根は接続先を失った』
リディアは第二の根に選ばれていた。だが完全に接続する前に死亡した。泉は彼女を泉口にできなかった。王弟は妹を病で失ったと思っている。本当は泉に侵されていたのだ。そして今、泉主はその妹の姿を使い、今度は兄を接続先に選んでいる。
「ひどい」オリヴィアが小さく言う。「自分が死なせた人を使って、兄まで騙してる」
泉主にとって人の悲しみは接続を深める道具でしかない。誰が死んだか、何を失ったか、意味はないのだ。
「続きがある」ダグラスが頁をめくる。
『E殿下、我々を告発』
『地下調査は王家への反逆と判断』
『S、医術院に残る』
『第二鍵を託す』
『私は王都を離れる』
父が村へ来た理由――王弟に告発され、王都を追われたのだ。セオドアだけが医術院へ残り、第二鍵を守った。
「父さんは」バーバラが帳面を見る。「そんなこと一度も話さなかった」
話せなかったのだろう。王家の秘密、泉、反逆の疑い。母を巻き込まないため、すべて隠した。だが隠したまま父は死んだ。
帳面の最後、短い文章があった。
『泉は孤独を道にする』
『私が一人で調べ続ける限り』
『あれは私を見失わない』
『だから離れる』
『次に鍵を使う者が』
『一人でないことを願う』
俺はその文字をしばらく見つめた。父も気づいていたのだ。孤独、秘密、一人で抱えること――それが泉との接続を強める。だから王都を離れた。第二鍵も自分で持たず、セオドアへ託した。
「手紙には」ゲイルが言う。「この帳面の内容を入れる」
「全部?」
「いや、セオドアにしか分からない部分だけだ」
父が使った符号――リディア、第二鍵、北井戸。これだけあれば本人なら事態を理解する。バーバラが手紙を書き始める。
俺は指先の銀色の線を見る。先ほどより少し長い。手の甲へ一寸ほど伸びている。
「ダグラス」呼ぶと、老人がすぐに気づく。「増えたな」
「接続は切れたのに」
「残った魔力が身体の中で道を作っている可能性がある」
「止められる?」
「白石を当て続ける。冷やす。それでも伸びるなら――」ダグラスは言葉を止める。
「何?」
「指を切るとか」
オリヴィアの顔が強張る。
「そこまでは言っていない」ダグラスが睨む。「だが局所に留まるなら、流れを遮断する方法は考えられる」
医魔術で魔力路を結ぶ、焼く、塞ぐ。戻った知識の欠片で自分の指へ施術する――だが今の俺の魔力では無理だ。
「王都へ行くまで伸び方を見る」
ダグラスが白石の薄い板を俺の手へ巻きつけ、布で固定する。冷たい。線は見えなくなった。
「痛みや声が出たら、すぐ言え」
「うん」
「隠すな」
「分かってる」
◇ ◇ ◇
その時、指先。白石の下から小さな声がした。
『ルーク』
王弟だ。泉主ではない。かすかで、遠い。
『聞こえるか』
俺は動きを止めた。
「声」すぐに言う。「誰の?」
「王弟」
全員が俺の手を見る。第一鍵も保存器も箱の中、白石で囲まれている。それでも銀色の線を通じて、王弟の声が届いている。
『時間がない』『あれは』『私の記憶を変え始めた』
「返事できる?」バーバラが尋ねる。
「分からない」
声に出す。「聞こえる」
届くか分からない。だが王弟が息を呑む気配がした。
『本当に』『エドワードの息子なのか』
「うん」
『名は』
「ルーク・E・オリバー」
沈黙の後、王弟が苦しそうに笑った。
『あの男は』『息子には』『泉を近づけないと言っていた』
父は俺が生まれる前から、泉との関係を知っていたのだ。
「父さんは」「俺のことを何て言ってた?」
『泉に見つかる子だと』
胸が冷える。
『だから』『自分が先に』『全ての根を封じると』
父の病、死、第一鍵、第二鍵、記録。すべて俺を泉から遠ざけるためだった。
「王弟」俺は言う。「妹は」「泉に殺された」
向こうで息が止まる。
『何を』
「父さんの記録」「リディアは」「第二の根に接続されてた」「青い変質」「北井戸」
『黙れ』
王弟の声が急に強くなる。
『お前に』『何が分かる』
「分からない」「妹を失ったことも」「王弟の気持ちも」「でも」「今見えてる妹は」「本人じゃない」
『黙れ!』
指先に痛み。銀色の線が白石の下で光る。王弟の怒りが接続を通じて流れてくる。悲しみ、後悔、自分が父を告発したこと、父を追放したこと、妹を救う機会を自分で失ったのではないかという恐怖。王弟は知りたくないのだ。泉が原因だったと認めれば、父の言葉を信じなかった自分が妹を死なせたことになる。
『違う』王弟が低く呟く。『あれは』『リディアだ』『私を責めていない』
泉が作った妹は、王弟が望む言葉だけを言う。兄は悪くない、戻ってきてほしい、受け入れて――それだけだ。
「偽物だから」「責めない」
『お前に何が分かる!』
痛みが増す。ダグラスが白石を重ねる。
「もう話すな」
「でも」
「接続率が上がる」
「お前の方もだ」
白石の下、線は手首近くまで伸びている。速い。王弟の感情が俺を通じて道を広げている。
「王弟」最後に俺は呼ぶ。「父さんは」「あなたを恨んでなかった」
帳面に王弟への恨みはなかった。告発、追放。それでも父は王弟を責める言葉を書かなかった。ただ第二鍵を残した。次に救うために。
『なぜ』王弟の声が揺れる。『なぜ分かる』
「記録に」「書いてないから」
『それだけで』
「父さんは」「嫌いな相手なら」「もっと書く人だったと思う」
知らない、記憶もない。だが母から聞いた父は、無口で、優しいことを隠し、自分を責める人だった。人を簡単には責めない。
『エドワードは』王弟の声が遠くなる。『最後まで』『私を愚か者と呼ばなかった』
「うん」
『それが』『一番』『腹立たしかった』
声の向こうで王弟が泣いている。泉主の声が低く近づく。
『聞くな』『その子は』『お前から妹を奪う』『手を離せ』
王弟が何かへ引かれている。
「王弟」「妹を戻したいなら」「まず」「本物じゃないものを」「妹にしないで」
長い沈黙。指先の痛みが急に弱くなる。銀色の線が止まった。
『接続率』保存器の箱の中から声が響く。『第二接続先』『四十三』
四十一から二上がった。だが十倍の上昇ではない。王弟はまだ受け入れていない。続けて――
『自発接続』『一時停止』
全員が息を吐く。止めた。完全ではない。それでも時間を作った。
『警告』新しい表示。『代替接続先を探索』
「代替?」俺が呟く。
『第二の根』『主接続先の拒絶を確認』『副接続先選定を開始』
王弟が拒めば、泉は別の人間を探す。王都には何万人もいる。高い魔力、水路への権限、王家の血――王弟以外にも条件を満たす者がいる。
「誰を選ぶ?」
返事はない。第一鍵を開いていないため、詳しい情報は見られない。だが王家の血、王弟の次に最も近い者――
「国王」ゲイルが言う。
現王、王弟の兄。リディアの兄でもある。同じ喪失を持つ。泉主が同じ姿を使えば、次は国そのものを動かせる人間へ接続する。
◇ ◇ ◇
「手紙」俺は言う。「今すぐ送る」
バーバラが最後の一文を書き終える。ゲイルが封をする。
「俺が宿場町へ持っていく」
「一人で?」オリヴィアが聞く。
「速さが必要だ」「馬で行く」
「でも」「村に残る人も必要」
「トムの父親へ任せる」
ゲイルはすでに決めている。「俺は手紙を出した後、そのまま王都へ向かう馬車を確保する。夕方までには戻る」
「俺たちは?」
「準備だ」ダグラスが答える。「ルークを休ませる。薬、食料、白石、父親の記録――全部まとめる」
王都へ向かう。もう迷う時間はない。ゲイルが手紙を持ち、家を出る。蹄の音が村の東へ遠ざかる。
俺は白石を巻かれた手を見る。線は止まっている。だが消えてはいない。王弟との道、第二の根との道――それが一本だけ、身体に残った。
「王弟は」俺は言う。「また話しかけてくるかな」
「話すつもりか?」ダグラスが睨む。
「向こうから来たら」
「一人では答えない」「約束しろ」
「うん」
バーバラが俺の手を包む。「王都へ着くまで」「その線を増やさないで」
「できるだけ」
「できるだけじゃない」「増やさない」
「……うん」
母の声は怒っている。だが震えている。怖いのだ。また俺を失うことが。だから俺は、白石を巻いていない方の手で母の指を握った。
「母さん」
「なに?」
「王都に行っても」「一人で決めない」「約束する」
バーバラはすぐに答えなかった。俺の目を見て、本当に信じていいか確かめる。
「絶対?」
「絶対」
母はようやく頷いた。
その直後、白石の下、銀色の線が一度だけ、脈のように光った。王弟でも泉主でもない、別の声。若い女――
『兄さまを』『助けないで』
リディア。泉が作った偽物、そう思った。だが続く言葉は、泉主が望むものとは逆だった。
『私を』『もう一度』『死なせて』




