Ep193. 失われる前に選ぶもの
『記憶保持率、十一』『残存時間、四十七時間』——木箱の中から響いた声に、バーバラの表情が強張った。昨日は十二だった記憶保持率が、一晩で一つ減っている。第一鍵に残された俺の記憶は、少しずつ泉へ戻り始めていた。「第二の根……」バーバラが呟く。『返還対象内に、第二の根の位置情報あり』第一の根は封鎖した。だが、泉の紋章には三本の根があった。第二と第三が残っている。位置情報を失えば、次は何も知らないまま根の起動を迎えることになる。だが、記憶を俺へ戻せば、泉主の意識まで混入する危険がある。
「ダグラスさんたちを呼ぶわ」立ち上がろうとした母の袖を、俺は反射的に掴んだ。「一人で行かないで」自分でも驚いた。ただ人を呼びに行くだけなのに、母が離れることが怖い。記憶を失ったせいなのか。それとも以前から、心の奥では同じように恐れていたのか。バーバラはすぐに座り直した。「分かった。誰かが来るまでここにいる」窓から通りかかった村人へ声をかけ、使いを頼む。母は俺の手を握ったまま離さなかった。
◇ ◇ ◇
ほどなくして、ダグラス、ゲイル、オリヴィアが集まった。ゲイルによれば、採石場の第一の根は完全に石化し、赤い光も水の異常も消えているらしい。「まず、鍵から聞けることを聞く」ゲイルの言葉に全員が頷いた。第一鍵を木箱から出すと、青い光が集まり、手の平ほどの男の姿を作った。『保留状態、継続中』『残存時間、四十六時間』時間は確実に減っている。
「返す記憶を選べる?」俺が尋ねる。『分類返還、可能』光の男は、保存された情報を列挙した。『前世記憶』『現世記憶』『医魔術知識』『泉記憶』『根位置情報』『泉主意識断片』——必要なものだけ戻せる。そう思ったが、続く説明は甘くなかった。『記憶領域は相互接続』『単独返還時、欠損および人格不整合の可能性あり』一部だけを戻せば、映像や知識を他人のものだと認識するかもしれない。関連する感情や前後の経緯が欠ければ、自分の記憶として統合されない可能性もある。
「泉主の意識だけ除外できる?」『不可能』「どうして?」『泉主意識断片は、返還経路管理層と結合』記憶を戻すためには、泉主の意識を最低でも一部受け入れなければならない。『最小混入率、一』数は小さい。しかし、意識の一が何を意味するのか分からない。
「戻さなかった場合は?」『全情報を泉へ再吸収』『泉主意識強度、増加』戻さなくても安全ではない。記憶と泉主の断片が泉へ戻れば、次に現れる泉主はさらに強くなる。「別の物へ移せないの?」オリヴィアの問いを俺が伝える。『代替保存器が必要』「作れる?」『作成情報は返還対象内』保存器を作る知識を得るには、先に危険な記憶を戻さなければならない。
行き止まりかと思った時、ゲイルが尋ねた。「エドワードは、記憶を別の物へ移したことがないのか?」俺が父の名を出すと、第一鍵が答えた。『エドワード・E・オリバー』『外部保存実験、一回』「成功した?」『部分成功』「保存器は残ってる?」『現存』空中へ地図が描かれた。村の西。川沿いの森にある、小さな建物。バーバラが息を呑む。「昔の薬師小屋……」父が結婚前に使っていた場所らしい。
「その保存器へ、鍵の記憶を移せる?」『適合確認が必要』成功する保証はない。それでも、記憶を俺へ戻さず、泉にも返さない唯一の可能性だった。「今から行く」俺が言うと、ダグラスが顔をしかめた。「今のお前は一人で立つこともできん」「荷車で休む」「だが――」
『選択記録を泉へ送信』第一鍵が突然告げた。部屋の空気が凍る。「今の話が泉に伝わった?」『第一鍵は泉の管理端末』『通信継続中』保存器の場所も、俺たちが向かおうとしていることも、泉主に知られた可能性がある。「通信を止められる?」『不可』「白石で囲えば?」『通信減衰、推定八十七』「すぐ包め!」ゲイルが第一鍵を白石と厚い布で囲んだ。完全には止められない。だが、今より弱められる。
「待っていれば、泉に先回りされる」俺が言うと、ダグラスも反対をやめた。「移動中は横になれ。水と食事を取る。魔力は使わない。異変があれば即座に中止だ」「分かった」「それから、自分の知識を過信するな。今のお前には欠けている部分がある」「分からない時は聞く」「それでいい」
◇ ◇ ◇
荷車で村の西へ向かった。バーバラが俺の隣に座り、ダグラスが状態を確認する。ゲイルたちは周囲の水や地面を警戒していた。道中、オリヴィアが笑う。「この道、前にも通ったことがあるよ。赤ちゃんのルークを勝手に抱っこして連れ出した時」「母さんに怒られた?」「すごく」「当然です」バーバラが冷たく答える。記憶は戻らない。それでも、その会話を聞いていると、胸の奥へ僅かな温かさが広がった。過去を思い出せなくても、今からまた関係を作ることはできる。だが。第二の根の情報だけは、失うわけにはいかなかった。
◇ ◇ ◇
父の薬師小屋は、川沿いの木々に隠れるように建っていた。古い屋根。色褪せた壁。蔓に覆われた扉。周囲に鳥の声がない。小屋を中心に、草が外向きへ倒れていた。「何かが広がった跡だ」ゲイルが斧へ手をかける。バーバラが古い鍵を使い、扉を開ける。中の床は濡れていた。机の下から細い青い水が流れ、床板の上で円を描いている。その中央には、銀色の小さな芽が出ていた。「泉が先に来た」俺は呟く。ゲイルたちが冷水をかけると、芽の動きは鈍った。しかし枯れない。
床板を剥がすと、その下には白石が敷き詰められていた。中央のひびへ、銀色の針のような根が刺さっている。そこから青い水が湧いていた。「抜くな」俺はゲイルを止めた。根を抜けば、水量が増すかもしれない。持参した白石でひびを囲むと、青い光と水の勢いが弱まった。時間は作れる。
俺はバーバラに抱かれ、小屋の中へ入った。第一鍵を白石の包みから出す。青い光が走り、小屋の壁や机に乳白色の術式が浮かんだ。光は、机の一本の脚へ集まる。俺が触れた瞬間、父の声が響いた。『接続者を確認』『保存器を開放する』机の脚が割れ、中から透明な筒が現れた。内部には、金色の糸が浮いている。第一鍵と筒の間に、青い光の橋が生まれた。『外部保存器』『記憶転送、可能』
安堵しかけた時。金色の糸が赤く染まった。『警告』『外部汚染を検出』『泉接続、進行中』床下の根は、すでに保存器へ接続していた。このまま記憶を移せば、その情報は保存されず、泉へ送られる。「接続を切る方法は?」『切断術式、存在』「使える?」『必要情報は、返還対象内』また記憶が必要だった。だが、必要な部分だけなら戻せる。『必要返還量、二』保持率十一のうち二。同時に、泉主意識断片一も入る。
「二だけ戻す」「ルーク」バーバラの腕に力が入る。「戻さなければ、保存器は泉に取られる」時間をかければ、床の芽も成長する。他に方法はない。「一人ではやらない」俺は皆を見た。「戻った知識を説明する。皆で切る」バーバラは迷った末、頷いた。
◇ ◇ ◇
俺は第一鍵へ手を置いた。『部分返還を要求するか』「要求する。切断術式に必要な二だけ」『泉主意識断片一を含む』「始めろ」冷たい光が、指から頭へ流れ込んだ。医魔術の術式。患者の魔力経路。病に侵された流れを切り離す技術。泉の根も同じだ。保存器には、表面、中心、記憶層の三つの接続がある。すべて同時に切らなければ、すぐにつなぎ直される。
同時に。頭の中で男の声がした。『懐かしい』泉主。『この身体は弱い。だが、私によく馴染む』「黙れ」「誰と話してるの?」バーバラが尋ねる。「泉主。戻ってきた」声は聞こえる。だが、身体を奪われてはいない。「三つの経路を切る」俺は説明した。「俺が中心。オリヴィアが表面。母さんが記憶層」「私たちにできるの?」「俺が道を示す」ゲイルたちは、小屋から川まで白石を並べた。切断した瞬間に溢れる泉の魔力を、普通の水へ流して薄めるためだ。
俺は保存器へ右手を、第一鍵へ左手を置く。バーバラとオリヴィアが、俺の両肩へ触れた。二人の温かな魔力が入ってくる。『無知な者へ任せるのか』泉主が囁く。「任せるんじゃない」俺は答えた。「一緒にやる」床の銀色の芽が開き始める。時間はない。「三」三つの接続へ、それぞれ魔力を合わせる。「二」ゲイルたちが冷水で芽を押さえる。「一」保存器の赤い光が強くなる。『やめろ!』「切る!」三つの接続を同時に断った。
保存器が激しく震え、青い水が噴き上がる。泉の魔力が俺たちへ逆流した。「川へ流す!」白石が順番に光る。青い魔力は小屋の外へ走り、川へ入った。水面が一瞬青く染まる。だが、すぐに薄まり、流れていく。『外部汚染率、零』保存器の色が金へ戻った。床下の銀色の針も白くなり、崩れる。接続は切れた。
◇ ◇ ◇
『外部保存器への転送が可能』第一鍵が告げる。「残った記憶を全部移す」『返還済み情報を除外』『残存保持率、九』「俺の中へ入った泉主の断片も移せる?」『可能』『ただし、混在した記憶が同時に失われる可能性あり』今戻した医魔術の知識も、再び薄れるかもしれない。それでも。泉主を頭の中へ残す方が危険だ。「抜け」冷たい何かが、頭の奥から引き出される。
『待て』泉主が声を上げる。『第二の根について、まだ言っていない』「保存器の記憶から調べる」『間に合わない』青い光が額から抜け、第一鍵へ流れる。『第二の根は――』声が遠ざかる。『王都の下だ』王都。『もう遅い』最後の言葉と共に、泉主の気配が消えた。第一鍵に残っていた記憶も、泉主の断片も、すべて透明な保存器へ移る。『転送完了』『第一鍵保持情報、零』銀色の板から光が消えた。俺の中も静かだった。
「ルーク?」バーバラが覗き込む。「私は分かる?」「母さん」「オリヴィアは?」「勝手な人」「ひどい」「ゲイル」「怒る人」「他にないのか」「ダグラス」「病人を怒る薬師」「それでいい」皆のことは分かる。昨日から作った記憶も消えていない。だが。「第二の根は王都の下」俺の言葉に、全員の顔が強張る。「泉主は、もう遅いと言った」「起動しているのか?」「分からない」保存器を調べれば確認できる。ひとまず時間制限はなくなった。記憶も泉へ戻らない。
そう思った時。透明な筒の中で、金色の糸に包まれた青い人影が動いた。保存器の表面へ、赤い文字が浮かぶ。『第二の根』『接続率』『九』第一の根を封じてから、まだ一日も経っていない。それなのに。泉はすでに王都の地下で。次の泉口を探し始めていた。




