Ep192. 忘れた名前、残った温度
「……だれ?」
その言葉を口にした瞬間、俺を抱いていた女の身体が凍りついた。腕の力だけは緩まない。むしろ壊さないように、逃がさないように、さらに強く俺を抱きしめる。
「ルーク」女が言う。震える声で。「私よ」
私。誰だ。顔を見ても名前が浮かばない。けれど知らない人間ではない、そう思う。この腕、匂い、声。胸へ耳をつけた時に聞こえる速い鼓動。身体のどこかが覚えている。頭だけが追いつかない。
「母さんよ」女は自分を指差した。「あなたの母さん」
母。その言葉を俺は知っている。子どもを産んだ女。育てる者。血縁。家族。意味は分かる。だが目の前の女とその言葉が結びつかない。
「……母さん」繰り返すと、女の目から涙が溢れた。「そう」「そうよ」「バーバラ」「私はバーバラ」「あなたのお母さん」
バーバラ。名前を聞く。何か胸の奥で小さく揺れた。記憶ではない。魔力でもない。もっと曖昧なもの。安心。温かさ。眠る前、いつもそばにあったもの。
「バーバラ……」「うん」女は泣きながら頷く。「母さん」「……母さん」「そう」「私はここにいる」
俺の頬へ涙が落ちた。温かい。封鎖室の床は冷たい。空気も石もすべて冷えている。この女だけが温かい。だから俺はその服を掴んだ。理由は分からない。離れてほしくない、そう思った。
「大丈夫」バーバラが言う。「離れない」その言葉に身体の力が抜けた。
「ルーク」別の声。若い女が俺の横へ膝をつく。明るい色の髪。泣いている。だが無理に笑おうとしている。「私、分かる?」
分からない。俺は首を横へ振った。女の笑顔が一瞬崩れる。それでもすぐに戻した。「オリヴィア」自分の胸へ手を当てる。「オリヴィアよ」「あなたを勝手に抱っこして」「よく外へ連れ出す人」
抱っこ、外、日差し、風。ぼんやりと感覚だけが浮かぶ。誰かに持ち上げられ、家の外へ運ばれる。少し怖くて、少し腹が立つ。けれど空を見る。そんな輪郭のない欠片。
「……勝手」俺が言うと、オリヴィアは目を見開いた。そして泣きながら笑った。「そう」「勝手にやる人」「覚えてるじゃない」
覚えてはいない。ただその言葉が自然に出た。
次に、大きな男が近づく。肩幅が広い。斧を持っている。服も手も泥で汚れている。「俺はゲイルだ」男は言った。「お前に何度も無茶をするなと言って」「全然聞いてもらえない人間だ」
「……ゲイル」「ああ」「怒る人」ゲイルの眉が動く。オリヴィアが小さく吹き出した。「そこは覚えてるんだ」「覚えてない」俺は答える。「でも」「怒る顔」「知ってる」
ゲイルはしばらく何も言わなかった。それから俺の頭へ大きな手を置いた。「それで十分だ」
最後に、老人が来る。「ダグラスだ」短く名乗る。「今はお前を診る」俺の瞳、脈、呼吸、胸、腕、首。一つずつ確認する。冷静。周囲が泣き、動揺している中で、老人だけが感情を抑えている。だが手がほんの僅かに震えている。
「胸の線は消えている」ダグラスが言う。「呼吸も戻った」「魔力は」俺の胸元へ手を当てる。老人は顔をしかめた。「ほぼ空だ」「昨日よりもひどい」
「魔力経路は?」バーバラが聞く。「今は判断できん」「流れそのものが弱すぎる」「ただ」ダグラスは俺の手足を確かめる。「動かせるか?」
右手、指を開く、閉じる。左手、同じ。足、重い。だが僅かに動く。「痺れは?」「……分からない」「痛みは?」「ない」「頭は?」
頭。痛くはない。ただ何もない。大きな部屋から家具をすべて運び出したような空白。知っていたはずのものが消えている。
「ここがどこか分かるか?」周囲を見る。白い石。銀色だった根はすべて灰白色へ変わっている。中央の台座、青い水は消えた。「分からない」「自分の名前は?」
ルーク。先ほど皆がそう呼んだ。「ルーク」「姓は?」出ない。俺はバーバラを見る。「ルーク・E・オリバー」母が答えた。「ルーク・E・オリバー」繰り返す。名前。自分のものだと、まだ感じられない。
「年齢は?」分からない。自分の手を見る。小さい。身体も皆よりずっと小さい。「子ども」「何歳だ?」答えられない。バーバラの顔がまた強張る。
「無理に聞くな」ゲイルが言う。「今はここから出す方が先だ」「待て」ダグラスが第一鍵へ目を向ける。儀式は終わった。白石の光も消えている。だが台座の上に置かれた銀色の板だけが青く明滅していた。俺が「だれ?」と尋ねた時からずっと小さく光っている。
「さっきから光ってる」オリヴィアが言う。「ルークが起きた時に」
第一鍵。俺はその名称を知っていた。なぜ。記憶がないのに、物の役割だけが言葉として残っている。
「触るな」ゲイルが言う。誰に向けた警告か、皆手を伸ばしていない。だが第一鍵は自ら動いた。銀色の板が台座から僅かに浮かぶ。青い光が空中へ集まる。人の形。小さい。手の平に乗るほど。頭、胴体、腕、脚。輪郭だけの青い男。顔は見えない。それでも俺は知っている気がした。
『逆流完了を確認』
第一鍵から声が流れる。父の声ではない。封鎖室の無機質な声でもない。あの男、泉主。俺に似ていた男。姿はほとんど光の影。だが声には怒りも恐怖もなかった。淡々としている。
『意識分離率』『四』
「意識?」ゲイルが斧の柄へ手をかける。
『記憶層転送』『失敗』『不完全断片のみ保存』
男の意識を第一鍵へ移そうとした。誰が。俺だ。そうした。その記憶はない。だが意味だけが分かる。
「泉主」俺が呟く。全員の視線が俺へ向く。「分かるの?」バーバラが聞く。「分からない」「でも」「泉主」
光の男がこちらを向いた。顔はない。それでも俺を見た、そう感じる。
『器』
「違う」反射的に答えた。なぜ否定した、分からない。ただその呼び方が酷く不快だった。
『不一致』『記憶欠損を確認』
光の男は俺へ手を伸ばす。『ルーク・E・オリバー』『記憶返還を要求するか』
記憶。返せるのか。バーバラが息を呑む。「戻せるの?」男は母へ反応しない。俺だけを見ている。
『逆流時に流出した記憶の一部を』『第一鍵が保持』『保持率』『推定十二』
「十二……」オリヴィアが呟く。全体の十二。何の十二。前世の記憶。医魔術の知識。今世の記憶。どれが、どれほど残っているのか。
『返還を要求するか』光の男が繰り返す。
俺は答えられない。記憶がない。何を失ったのかさえ分からない。知らないものを戻してほしいと言えるのか。だが目の前で泣いている母を覚えていない。オリヴィア、ゲイル、ダグラス、皆俺を知っている。俺だけが知らない。この空白を埋めたい。
「戻す」俺が言うと、バーバラがすぐに俺の肩を掴んだ。「待って」母は第一鍵を警戒している。「安全なの?」
『返還時』『記憶混濁の可能性』『人格境界の不安定化』『泉主断片の混入率』『不明』
「駄目」バーバラは即座に言った。「そんなもの戻せない」「でも」「ルーク」「あなたの記憶が入っているとしても」「泉主のものも混ざっているかもしれない」
光の男。俺に似た古い魂。自分の器にしようとした者。そいつの意識まで戻ってくる。人格が混ざる。俺が俺ではなくなる。
「今すぐ決める必要はない」ゲイルが言う。「鍵は持ち帰る」「安全な場所で調べる」「こいつが動くなら」「封じる方法も探す」
『保持時間』第一鍵が新しい言葉を告げる。『三日』
全員が黙る。「三日って」オリヴィアが尋ねる。『第一鍵内の記憶は』『泉へ再吸収される』『残存時間』『推定三日』
三日、それを越えれば記憶は泉へ戻る。二度と取り戻せない。「急に選ばせるな」ゲイルが低く言う。第一鍵は感情を持たない。ただ残り時間を告げる。
『返還を要求するか』
俺は光の男を見る。欠けた泉主。意識分離率四。記憶保持率十二。完全ではない。それでも危険。今の俺には何を選ぶべきか判断する材料がない。医魔術の知識も泉の仕組みも分からない。なら一人で決めない。なぜかその考えだけは強く残っていた。
「後で」俺は答えた。
『保留を確認』
光の男が第一鍵へ戻る。青い光が消える。銀色の板はただの金属のように静かになった。
「持ち帰れるのか?」ゲイルが布を巻いた棒の先で第一鍵へ触れる。反応はない。彼は厚い布で板を包んだ。白石も別の布に包む。白石は乳白色、紋章の赤い線は消えていた。三本の銀色の根も薄くなっている。
「ここを出るぞ」ゲイルが言う。「根が完全に止まったか」「外も確認しないといけない」
バーバラが俺を抱き上げる。俺は抵抗しなかった。歩けない、それもある。だがこの腕の中が安心できる場所だと身体が知っている。
封鎖室を出る。開いた白い壁の向こう、採石場の通路。来た時には壁一面へ青い線が走っていたらしい。今は何も光っていない。銀色の根も石になっている。触れると崩れそうな白灰色の柱。
「水音が消えた」オリヴィアが言う。確かに静か。泉の流れ、第一の根、すべて止まった。だが完全に終わったわけではない。三本のうち封鎖されたのは第一だけ。第二、第三、どこかに眠っている。その事実を俺はなぜか知っていた。誰かから聞いた。父。名前。父。
「父さん」俺は呟いた。バーバラが足を止める。「父さんのこと、覚えてる?」「分からない」「でも」「父さん」
頭の中に顔は出ない。声も記憶もない。ただその言葉には寂しさがある。自分のものではないような遠い悲しみ。
「エドワード」バーバラが言う。「あなたのお父さんは」「エドワード・E・オリバー」「もう亡くなっているわ」
亡くなった。死。戻らない。胸の奥が僅かに痛む。「父さんが」「ここを知ってた?」「ええ」「あなたを助けるために」「記録を残してくれていた」
俺を助ける。顔も思い出せない人間が俺のために道を残した。第一鍵、白石、逆流。すべて父が。父。頭の空白の中で、その言葉だけが小さな重みを持った。
◇ ◇ ◇
採石場の入口が見える。外の光、夕方。入った時より空が赤くなっている。どれほど時間が経ったのか、封鎖室の中では感覚が曖昧だった。外へ出た瞬間、冷たい風が顔へ当たる。大勢の声。村人たち、避難せず遠巻きに採石場を見守っていた者たち。
ゲイルが眉を吊り上げる。「南へ避難しろと言っただろ!」「根が止まったから」トムの父が答える。「様子を見に来たんだ」
採石場から伸びていた巨大な銀色の根、地上部分はすべて白い石へ変わっていた。山肌から突き出た本体も今は巨大な枯れ木のように固まっている。地面を走っていた赤い光も消えた。村へ向かって伸びていた亀裂、その中に青い水はない。
「終わったのか?」誰かが尋ねる。「第一の根は止まった」ゲイルが答える。「だが」「まだ安全だと決まったわけじゃない」「石には触るな」「採石場にも入るな」「今夜も村の北側へ近づかないように」
皆へ指示を出す。俺はその声を聞きながら村人たちを見る。知らない顔ばかり。相手は俺を見ている。心配、安堵、恐れ、様々。
誰かが「ルーク」と呼ぶ。振り返る。少年、少し年上、不安そうな顔。誰。「トム」オリヴィアが小声で教える。
トムは俺へ近づこうとした。父親に肩を掴まれ止められる。「今は休ませろ」「でも」トムが俺を見る。「大丈夫?」
問い。俺は答えに迷う。大丈夫、何を。身体、記憶、第一鍵、どれも大丈夫ではない。「分からない」正直に言う。トムは困った顔をした。それから「じゃあ」「元気になったら」「また話そう」そう言った。
また。以前も話したことがある。何を。分からない。でも「うん」俺は頷いた。トムの顔が少し明るくなる。約束が一つ増えた。記憶がなくても、今から新しく作れる。そう思った。
◇ ◇ ◇
村へ戻る頃には、陽が沈み始めていた。家、見ても思い出さない。だがバーバラが扉を開け中へ入ると匂いがした。木、乾燥した薬草、湯、布。身体が僅かに緩む。
「家よ」バーバラが言う。「あなたの家」
俺の家。寝室へ運ばれる。寝台、白い天井、窓、毛布。すべて知らないはずなのに、横になると自然に身体が収まった。いつもこうしていたのだろう。
ダグラスが改めて俺を診る。「発熱なし」「脈は弱いが安定」「水を少し」バーバラが杯を口元へ運ぶ。飲む。水、普通、青く光らない、冷たい。「気分は?」「空っぽ」「頭が?」「うん」
ダグラスは椅子へ座る。「記憶が全部消えたわけではない」老人が言う。「言葉は分かる」「物の名前も一部知っている」「身体の使い方も忘れていない」「話せる」「考えられる」「おそらく失われた場所に偏りがある」「特定の記憶だけがまとめて抜けた可能性がある」
前世、医魔術、泉、今世。どれが残り、どれが消えたのか。
「試すぞ」ダグラスが机の上の物を指差す。「これは?」「杯」「これは」「布」「これは」「燭台」一般的な知識はある。「薬草」乾燥させた葉、見ても名前が出ない。「これは月眠草だ」ダグラスが言う。「効能は?」「分からない」「これは?」別の葉。「分からない」
薬草、医学、抜けている。医魔術師だった、皆がそう言っていた。前世、俺が最も頼っていた知識、消えた。
「魔力は使える?」オリヴィアが尋ねる。ダグラスがすぐに顔をしかめる。「試させるな」「確認だけ」魔力、胸の奥を探す。何もない。火種さえ感じない。「分からない」「今は使うな」ダグラスが言う。「魔力が戻るまで」「最低でも数日」「それまでは」「記憶返還も行わない」
第一鍵は机の上、木箱の中。白石とは分けられている。三日、残り時間。
「でも」オリヴィアが言う。「三日しかない」「分かっている」「明日まで待て」「今の状態で返還をすれば」「記憶に耐えられず意識を失うかもしれん」「混ざった泉主の意識に抵抗もできない」
正しい。今の俺は何も知らない。自分が誰か、泉主が何か、区別する基準がない。そこへ他人の記憶を流し込めば、自分のものだと受け入れてしまう。
「今日は眠れ」ダグラスが言う。「目を覚ましてから」「どれだけ自然に戻るか確認する」「記憶は身体を休めるだけで戻ることもある」
期待はできない。逆流で意図的に抜けた分は第一鍵が保持している。なら自然に戻る分は少ないだろう。それでも今は眠るしかない。
ダグラス、ゲイル、オリヴィア、皆が部屋を出ようとする。バーバラだけ残る。
「母さん」俺が呼ぶと、彼女はすぐ振り返った。「ここにいる」寝台の横へ椅子を寄せる。「眠るまで」「手を握っていてもいい?」
なぜそんなことを尋ねる。母なら当然ではないのか。だが俺の中に、他人へ触れられることを嫌う感覚が残っている。それも前世の癖。記憶はなくても性格の一部は消えていない。
「いい」俺は答える。バーバラの手が俺の手を包む。温かい。採石場で最初に知った温度。
「母さん」「なに?」「俺は」何を聞きたい。「どんな子だった?」
バーバラは少し驚いた顔をした。それから困ったように笑う。「とても賢くて」「とても頑固」「人の話を聞いているようで」「途中から自分で考え始めて」「勝手に答えを出す」
あまり良い子ではない。「それから」「困っている人を放っておけない」「自分は冷たい人間だって思ってるみたいだけど」「誰かが苦しんでいると」「結局、助けようとする」
俺が。「無茶ばかりする」「今日みたいに?」バーバラの笑顔が少し消える。「今日みたいに」「怒ってる?」「怒ってる」「でも」母は俺の手を握り直す。「帰ってきてくれたから」「今は、それでいい」
「前世の俺は?」「詳しくは知らないわ」「封鎖室へ入る前に」「少しだけ話してくれた」「医魔術師だったって」「一度死んで」「この身体に生まれたって」「それを聞いて」「嫌じゃなかった?」「驚いた」「怖くなかった?」
この問い、さっきも聞いた気がする。記憶にはない。だが同じ恐怖が身体に残っている。
「ルーク」バーバラが真っ直ぐ俺を見る。「あなたが前に誰だったとしても」「今、私の子どもであることは変わらない」
同じ言葉。以前も聞いた。だから安心する。記憶は消えても、言葉を受け取った跡は残るのかもしれない。
「もし」俺は机の木箱を見る。「記憶を戻して」「別の人になったら?」
泉主。混ざる。人格境界。母はすぐには答えなかった。「分からない」正直な言葉。「でも」「あなたが苦しんでいたら」「何度でも名前を呼ぶ」「今のあなたへ戻れるように」
今の俺、何も覚えていない、空っぽ。それでも母は今の俺を俺だと言う。
「戻さない方がいい?」バーバラの手が僅かに震える。「私だけの気持ちなら」「戻さなくていいって言いたい」「危ないことはしないで」「このままでも」「また一緒に過ごせばいいって」「そう言いたい」「でも」母は木箱を見る。「失ったものが」「あなたにとって大切なら」「私が怖いからって」「諦めさせたくない」
選ぶのは俺。だが一人では決めない。
「明日」俺は言う。「皆で考える」「うん」「一人で決めない」
その言葉にバーバラが微笑む。「それは」「ちゃんと覚えてるのね」
覚えている。記憶ではない。決めたこと、心に刻んだもの。逆流でも流されなかった。
俺は目を閉じる。眠い。身体が限界。「母さん」「ここにいる」「離れない?」「離れない」
手の温度を感じながら眠りへ落ちる。
◇ ◇ ◇
夢を見た。青い泉、静かな水。その中央に男が立っている。顔は俺と同じ、いや大人。前世、泉主。どれが誰なのか分からない。男はこちらへ背を向けている。
「お前は誰だ」俺が尋ねる。男は答えない。「俺なのか」水面が揺れる。
『お前は』『何を覚えている』「何も」『なら』『お前は空だ』
違う。母、バーバラ、温かい手。オリヴィア、勝手。ゲイル、怒る顔。ダグラス、医者。トム、また話す。覚えた、今、新しく。
「空じゃない」
男がゆっくり振り返る。顔がない。青い光だけ。
『なら』『記憶は要らない』
第一鍵が水の中に沈んでいる。『捨てろ』『過去を捨てれば』『泉主も戻らない』
危険な記憶、泉主、前世、すべて諦める。そうすれば今の家族と新しく生きられる。悪い選択ではない。むしろ安全。だが父、泉、第二の根、第三の根。過去を知らなければ次の危険へ備えられない。医魔術の知識、誰かを救える力。失ったまま、本当にいいのか。
『選べ』男が言う。『過去か』『今か』
二つに一つ。泉がそう見せる。だが違う。
「両方」『不可能だ』「決めつけるな」
俺の言葉。なぜか懐かしい。夢の中で第一鍵へ手を伸ばす。水が腕へ絡む。冷たい。
『触れれば』『私も戻る』「なら」「戻ってきたら」「また止める」
男の顔に初めて笑みが浮かぶ。『できるか』「一人じゃない」
その瞬間、遠くから声がした。「ルーク」母。「朝よ」
夢の泉が白い光へ変わる。男の姿が消える。最後に水の底から一つの声。
『残り』『二日』
◇ ◇ ◇
目を開ける。朝。窓から薄い光。バーバラが寝台の横にいる。手を握ったまま椅子で眠っている。離れないと言った、本当に一晩中ここにいた。
「母さん」呼ぶ。バーバラの目が開く。「ルーク?」「朝」「そうね」母はすぐに俺の額へ手を当てる。「気分は?」「昨日よりいい」
身体は重い。だが頭の霧は少し薄い。「何か思い出した?」尋ねられる。俺は目を閉じる。家、森、診療所、父、前世。どれも像にならない。だが一つだけ言葉が浮かんだ。
「逆流」「昨日のこと?」「違う」もっと前。術式。魔力を戻す流れ。医魔術。知識の欠片。完全ではない。だが自然に戻った。
「少しだけ」俺は言う。「分かる」バーバラの顔が明るくなる。「戻ってきてる?」「全部じゃない」
机を見る。木箱、第一鍵、三日。夢では残り二日。ただの夢ではない。第一鍵が俺へ伝えた。
「鍵」俺は言う。「今日」「調べる」「ダグラスさんが来てから」「皆で」母は頷く。「ええ」
俺はもう一度木箱を見る。その瞬間、蓋の隙間から青い光が漏れた。
『記憶保持率』『十一』
昨日、十二。一つ減っている。
『残存時間』『四十七時間』
夢の声は正しかった。さらに第一鍵は告げる。
『返還対象内に』『第二の根』『位置情報あり』
第二の根。記憶を戻さなければ場所は失われる。だが戻せば泉主の断片が俺の中へ入る。選択の時間は二日もない。記憶はすでに少しずつ泉へ戻り始めていた。




