Ep191. 一人にするための儀式
『接続先以外は退室してください』
白い岩壁が、ゆっくり閉じていく。最初から、そういう仕組みだった。選ばれた者だけを封鎖室へ残し、泉と接続させ、逆流を行わせる。他の者を排除する。父の記録には『互いを信じろ』とあった。それなのに、儀式そのものは一人で行うよう作られている。おかしい。
「閉めさせるな!」
ゲイルが、開きかけた岩壁へ肩を入れる。巨大な石の扉は、人の力で止められる速さではない。それでも彼は両腕で押した。
「オリヴィア!」
「分かってる!」
オリヴィアも反対側へ身体を滑り込ませる。バーバラは俺を抱いたまま、封鎖室の内側へ立っている。ダグラスが白石を持ち、入口の術式を睨む。
「こいつは扉じゃない」老人が言った。「岩そのものを戻している」
「壊しても埋まるぞ」
白い壁は左右から閉じるのではない。開いた空間を、新しい岩が埋めている。削る、砕く、そういう問題ではない。
「接続先以外は退室してください」無機質な声が、もう一度告げる。
「嫌よ」バーバラが答えた。術式へ、泉へ、誰へ向けた言葉かは分からない。「この子を一人にはしない」
『規定に反します』
「知りません」
母は俺を抱く腕へ力を込める。
『逆流成功率が低下します』
「だからって」
『接続先以外の生体魔力は根の増殖源となります』
空気が変わった。皆の魔力が根の餌になる。それは事実だ。昨日の花も、近くにいる人間から魔力を吸った。第一の根は、さらに大きい。封鎖室の中へ複数の人間が残れば、逆流させるどころか根を活性化させる可能性がある。
「なら」ゲイルが歯を食いしばる。「俺たちは外で待つ」
「でも」
「バーバラ」彼は母を真っ直ぐ見る。「中に残れば、ルークの邪魔になる」
正しい。母も分かっている。だから何も言えない。
「私が残る」オリヴィアが言った。「魔力が少ないから」
『許可されません』
「聞いてない」
『退室してください』
封鎖室の中央、銀色の根が僅かに動いた。人の気配へ反応している。青い水の輪が大きく明滅する。胸の線も同時に熱を持った。
『接続率、六十八』
上がった。皆が封鎖室へ入ったことで、周囲の魔力が増えた。泉主の男が水の向こうで笑う。
『見ただろう。誰かといるほど、お前は危険になる』
違う。これは物理的な魔力の問題。信頼とは別だ。だが泉は同じものとして扱わせようとする。
『一人で来い。初めからお前はそういう者だ』
俺は男を見ない。バーバラの肩を叩く。
「下ろして」
「嫌」
「母さん」
「嫌よ」声が震えている。「外へ出たら扉が閉まる。あなたが何をされても、助けられない」
助けられない。その恐怖が母をここへ縛っている。だが今、残ることが俺を危険にする。
「母さん」俺は母の服を掴んだ。「信じて」
その言葉に、バーバラの顔が歪む。
「信じてる。でも」
「なら」俺は入口を指差す。「外で待って」
母の目から涙が落ちる。
「帰る」俺はもう一度言った。「約束」
絶対ではない。成功する保証もない。それでも、帰るために一人で儀式へ入る。一人で抱え込むこととは違う。皆は外へ行く。だが見捨てるのではない。俺が戻る場所として、外にいてくれる。
「……分かった」母はようやく言った。俺を床へ下ろす。足へ力は入らない。すぐゲイルが壁際に置かれた石の台を引き寄せる。俺が座れる高さ。バーバラはそこへ俺を座らせた。毛布を巻く。胸元の第一鍵を確かめる。
「苦しくなったら声を出して」
閉じれば声は届かないかもしれない。それでも俺は頷く。
「絶対に帰ってきて」
「うん」
「ルーク」母は俺の額へ口づけた。それから離れた。一歩、また一歩。入口へ向かう。何度も振り返る。
オリヴィアも俺の前へしゃがんだ。
「これ」白石を両手で差し出す。俺が受け取る。月の白石。父が残した、逆流のための石。
「一人で全部やろうとしないでね」
矛盾している。今から一人で封鎖室に残るのに。だが意味は分かる。
「私たちのこと、思い出して。それも力になるから」
俺は頷いた。オリヴィアが少しだけ笑う。
「戻ったら、前世の恋愛話も聞かせてもらうから」
今それを言うのか。俺が眉を寄せると、
「その顔、絶対いろいろある」
ある。話したくない。だが続きを約束する言葉としては悪くない。
「話さない」
「じゃあ、無理やり聞く」
オリヴィアは立ち上がった。ゲイルが最後まで入口へ残る。
「俺たちは」彼が言う。「扉の外でできることを探す。記録も読む。岩も調べる。お前が戻るまで諦めない」
俺は頷いた。
「だから、中で勝手に死ぬな」
「うん」
ゲイルが俺の頭を一度だけ撫でる。乱暴。だが温かい。彼も外へ出る。
ダグラスが入口の手前で止まった。
「脈は弱い。魔力も足りん。医者としては絶対にやらせたくない」
当然だ。
「だが、今できることは、お前が自分の状態を見誤らないことだ」
老人は俺の胸を指差す。
「痛み、息苦しさ、手足の痺れ、視界。どれか一つでも急に変わったら、儀式より先に自分の身体を守れ」
逆流を優先しすぎれば、途中で意識を失う。そうなれば泉口になる。身体の状態を常に観察する。医魔術師として最も基本的なこと。
「分かった」
「よし」
ダグラスも外へ出る。最後にバーバラが入口の向こうから俺を見る。白い岩が顔の半分を隠している。
「ルーク」
「母さん」
「愛してる」
言葉が胸へ入る。前世で、最も聞きたくて聞けなかった言葉。今、何度も与えられている。
「俺も」自然に声が出た。「愛してる」
バーバラが涙のまま笑った。白い岩壁が閉じる。母の顔が見えなくなる。最後の細い隙間。光。消える。ごうん。重い音。完全に封鎖された。
◇ ◇ ◇
静かだった。外の声は聞こえない。岩を叩く音も届かない。封鎖室の中には水音だけ。中央の青い輪、その周囲を銀色の根が何重にも囲んでいる。天井、壁、床、すべて乳白色の石。月の白石と同じ性質。魔力を吸わず、余分な流れを分散する。この部屋全体が巨大な逆流装置。中央には三角形の台座。父の記録通り、第一鍵を置く場所。そこまで十歩ほど。今の俺には遠い。
立つ。足が震える。石台へ手をつき、ゆっくり身体を起こす。右足、前へ。左足、追いつく。一歩。胸の線が痛む。青い水の輪が俺へ向かって揺れる。
『接続先、中央へ進んでください』
無機質な声。泉主は水の向こうに立ったまま俺を見ている。
『皆を外へ出したか』男が言う。『結局、一人だ』
「違う」
『ここには誰もいない』
「外にいる」
『見えない』
「いる」
姿が見えなくても、声が聞こえなくても、待っている。それは孤独ではない。俺はまた一歩進む。足元の銀色の根が僅かに動く。触れない。俺を中央へ導くように道を空ける。
『お前は』泉主が続ける。『彼らを信じているつもりだ。だが儀式に失敗した時、誰も助けには来られない』
「分かってる」
『死ぬぞ』
「分かってる」
『怖くないのか』
「怖い」認める。恐怖を隠さない。俺は死にたくない。泉口になりたくない。母を悲しませたくない。それでも進む。
『ならば私へ任せろ』男が手を伸ばす。『身体を渡せ。私なら逆流を完成させられる。一度失敗した。だからこそ次は成功する』
嘘ではないかもしれない。泉主は逆流の仕組みを知っている。泉の流れも第一の根も、俺より理解している。身体を渡せば成功率は上がる可能性がある。だが戻ってくるのは俺ではない。この男。母へ、俺の顔で別人が帰る。それは死ぬのと同じ。
「断る」
『お前の技量では魔力の流れを制御できない』
正しい。今の身体では魔力操作は未熟。それでも白石が流れを整える。第一鍵が逆流の道を作る。一人の力で完璧に制御する必要はない。
「道具がある」
『道具は使う者を選ばない。弱い者が持てば共に砕ける』
「なら、助けてもらう」
『誰に』
俺は白石を見る。父。第一鍵。バーバラ。オリヴィア。ゲイル。ダグラス。ここへ来るまでに皆が渡したもの。知識。魔力。言葉。それを使う。
「皆に」
泉主の顔が僅かに歪む。俺は中央へ辿り着いた。三角形の台座、表面に三本の溝。胸元から第一鍵を外す。手が震える。重い。薄い金属板なのに、今の俺には大きな鉄板のように感じる。両手で持ち上げ、台座へ置く。かちり、溝にはまる。封鎖室全体へ青い光が走った。
『第一鍵、確認。月の白石を重ねてください』
白石を鍵の中央へ置く。親指ほどの石。金属板へ触れた瞬間、銀色の線が三方向へ広がる。壁、天井、床、封鎖室全体の白石とつながった。巨大な術式が完成する。
『接続先、中央環へ入ってください』
青い水の輪。台座の奥、銀色の根に囲まれた人一人分の空間。俺はそこへ入らなければならない。水ではない。魔力が液体のように流れている。触れれば接続が一気に進む。父の記録には『自ら受け入れろ』とある。拒めば根は強く侵入する。受け入れれば同じ道を通り戻せる。理屈は分かる。身体が進むことを拒んでいる。足が動かない。青い輪から冷気が流れる。胸の線が呼応する。
『接続率、六十九』
あと一。七十。泉が思考を読む境界。だが、すでに読まれている。記憶層を通じて、もっと深い場所まで。それでも父が七十を基準にしたなら、何か決定的な変化がある。迷う時間はない。俺は青い輪へ右足を入れた。冷たい。水に触れた感覚。だが濡れない。魔力が皮膚を通り抜ける。足首、膝、身体の中へ銀色の線が一気に這い上がる。
「っ……!」
痛い。火ではない。冷たさによる痛み。骨の中へ氷水を流し込まれているような感覚。それでも左足も入れる。身体全体が青い輪の中へ入った。
『接続率、七十』
音が変わった。無機質な声ではない。泉主と同じ声。
『接続先の意思領域を確認。記憶、恐怖、愛着対象、すべて取得』
頭の中へ無数の指が入る。思考を掻き回す。バーバラ。母。幼い頃。前世。患者。女たち。孤独。怒り。失敗。すべてが引き出される。俺は第一鍵へ両手を置いた。白石。冷たい。
『逆流儀式を開始します。接続を受け入れてください』
受け入れる。抵抗しない。泉の魔力が胸へ流れ込む。青い線が一瞬で全身へ広がる。右腕、左腕、腹、背中、首、頬、視界の端まで青く光る。身体が器へ変わる。泉口。あと僅かで完成する。
今、戻す。俺は自分の魔力を探す。ほとんどない。小さな火種。昨日、母とオリヴィアから受け取った温かさ。父の術式に触れた流れ。それだけ。泉の巨大な魔力に比べれば砂粒。だが必要なのは押し返す力ではない。道を示す力。自分へ入ったものへ帰る方向を教える。泉の魔力は第一の根から俺へ来た。同じ道。第一鍵。白石。封鎖室。根。泉。逆にたどらせる。
俺は胸の奥の魔力を指先へ流す。第一鍵へ、金色の光が青の中に現れる。小さい。だが消えない。白石がその光を受け取り、乳白色へ変え、三本の溝へ分ける。封鎖室の壁が一斉に輝いた。青い魔力の流れが止まる。俺の身体の中で押し合う。
『逆流方向を確認。接続先、意思を固定してください』
意思。戻す。帰る。それだけ。だが泉主が俺の前に現れた。実体のない男。青い輪の中、俺と同じ位置へ立つ。
『無理だ』男が言う。『お前は私だ。泉を戻せば私も消える』
「知らない」
『助けると言った』
「言ってない」
助けるとは言わない。何者か決めつけない。そう言った。今優先するのは、第一の根を封鎖すること。
『私を見捨てるのか』
「今は止める」
『同じことだ』
「違う」
止めることと見捨てることは違う。危険な者を自由にしない。それでも後で調べる。方法を探す。約束ではない。可能性を閉じない。
『詭弁だ』
「そうかもな」
俺は第一鍵へ魔力を流す。金色の線がさらに太くなる。青い魔力が胸から腕へ、逆方向へ動き始めた。
『逆流率、三』
わずか。だが始まった。青い線の先端が指から薄くなる。白石へ、第一鍵へ戻っていく。その瞬間、泉主が俺の記憶を開いた。目の前に、バーバラが現れる。封鎖室の床へ倒れている。
「ルーク」胸から血が流れている。「助けて」
偽物。分かっている。外にいる。無事。だが姿、声、匂い、すべてが本物と同じ。
『逆流を止めれば母親を助ける』泉主の声。
偽物。それでも身体が反応する。魔力の流れが僅かに乱れる。
『逆流率、二』
下がった。迷い。恐れ。泉がそこへ根を伸ばす。
「ルーク」バーバラの姿が手を伸ばす。「置いていかないで」
俺は目を閉じた。見るな。声も聞くな。そうしようとした。だが逃げれば、泉の作った母と本当の母を区別できない。恐怖を隠せば強くなる。俺は目を開けた。偽物の母を見る。
「母さんは、そんなこと言わない」
「どうして?」
「俺を止めない」
母は怖くても、最後には俺を信じて外へ出た。助けてと泣きつき、儀式を止めさせたりしない。偽物のバーバラが表情を失う。水へ崩れる。
『逆流率、五』
戻る。次にオリヴィア、ゲイル、ダグラス。次々と現れる。
「お前には無理だ」「子どもなんだから諦めて」「前世の知識があっても今は役に立たない」
全部、俺が心の中で恐れている言葉。誰かが言ったのではない。自分が自分へ向けている。無力。未熟。役立たず。前世では誰より優れていた。今は歩くことさえ難しい。その差が耐え難い。だから知識を見せ、自分が特別だと証明しようとする。
俺は偽物たちを見る。
「そうだ」認める。「今の俺は弱い」
魔力も身体も技術も足りない。
「だから借りる」
父の記録。母の愛情。オリヴィアの魔力。ゲイルの判断。ダグラスの忠告。第一鍵。白石。
「弱いまま、やる」
偽物たちが一斉に消える。
『逆流率、十二』
青い線が腕から消える。胸へ集まる。第一鍵の溝へ青い光が流れ込む。封鎖室の根が激しく震え始めた。水の輪が逆方向へ回る。泉主の顔から余裕が消える。
『やめろ』
「嫌だ」
『お前が逆流を完成させれば、第一の根は眠る』
「そのために来た」
『お前も私の記憶を失う』
何。
『第一の根が保持している記憶には前世の一部が含まれる。逆流すれば、それも泉へ戻る』
前世の記憶。医魔術師。知識。技術。俺を俺たらしめているもの。それが失われる。
『全てではない。だが医魔術の知識、魔力操作、お前が最も頼る部分から失われる』
揺さぶり。嘘かもしれない。だが完全な嘘ではない。逆流は泉から入ったものだけでなく、同じ道へ重なった俺自身の魔力や記憶まで巻き込む可能性がある。泉主が失敗した理由。自分の記憶を失うことを恐れ、途中で流れを止めた。その結果、身体ごと泉へ取り込まれた。
選択。前世の知識を守るか、第一の根を封鎖するか。知識を失えば、俺はただの子どもになる。これまで自分が価値を持つ根拠、誰かを救える力、すべて消えるかもしれない。
『逆流率、十五』
流れが止まりかける。第一鍵の光が弱くなる。泉主が静かに笑った。
『それを失えば、お前には何も残らない』
胸の奥へ言葉が刺さる。前世の知識がなければ俺は何だ。幼い身体。未熟な魔力。何もできない。母に守られるだけ。村の役にも立たない。天才でもない。特別でもない。ただ弱い子ども。
それでも母は俺を愛すると言った。前世が誰でも、魂が何でも、今の俺が自分の子どもだと。価値は知識だけではない。役に立つかどうかだけでもない。俺はそれをまだ完全には信じられない。だが信じると決めた。
「残る」
『何が』
「俺が」
知識を失っても、記憶が薄れても、今ここで選んだこと。帰りたいと思う気持ち。母を愛していること。それが残るなら、俺は俺だ。
「持っていけ」
泉主の顔が強張る。
「必要なら前世の知識を全部」
第一鍵へ両手を押しつける。自分の魔力、記憶、区別しない。逆流へ乗せる。金色の光が一気に広がった。
『逆流率、三十一』
青い線が首から消える。顔から消える。胸へすべてが集まる。頭の中で何かが抜ける。術式。薬草の名。治療法。前世の患者。女の顔。自分の部屋。記憶が水へ溶ける。怖い。だが止めない。
『逆流率、四十六』
泉主が叫ぶ。
『やめろ!』
男が俺の腕を掴む。実体がある。冷たい指。俺と同じ顔。
『お前が失えば私も消える』
「だから?」
『私はお前だ!』
「違う」
『同じ魂だ!』
「今の選択が違う」
男は逆流を止めた。俺は止めない。それだけで別の人間。
『逆流率、五十八』
封鎖室の銀色の根が次々と白くなる。青い魔力が抜け、石のように固まる。水の輪も小さくなる。俺の身体は軽くなるのではない。空になる。魔力。知識。記憶。何が残っているのか分からない。視界が揺れる。手に力が入らない。第一鍵から指が離れそうになる。
その時、閉じた岩壁の向こうから音がした。どん。何かが壁を叩いている。どん。もう一度。声は聞こえない。だが分かる。外。母たち。扉を叩いている。ここにいると知らせている。一人ではない。俺は指へ力を戻した。
『逆流率、七十一』
七十を越える。今度は接続ではない。逆流。泉主の身体が崩れ始める。青い光の粒になる。
『待て』男が俺を見る。怒りではない。恐怖。『一人にするな』
俺は男の手を見た。水。記憶。長い孤独。救えるか。今は分からない。だが、
「止めた後」声がほとんど出ない。「調べる」
『嘘だ』
「分からない」
約束はできない。だが忘れない。もし記憶が消えても何か残す。俺は第一鍵から片手を離した。男の腕へ触れる。触れられる。なら、こいつも逆流へ乗せられる。泉へ返すのではない。白石へ、第一鍵の記録層へ、意識を一部だけでも移せないか。危険。儀式の途中、そんな余計な操作をすれば逆流が乱れる。父と同じ失敗をする。だが泉主をそのまま泉へ戻せば、再び根を起動する可能性がある。封鎖しても意識が残る。なら切り離す。第一鍵は記憶を保持できる。父の声も術式も情報を残していた。男の意識を鍵へ移す。俺は残った魔力を泉主の腕へ流す。金色の線、男の青い身体へ混ざる。
『何をする』
「分ける」
『やめろ』
なぜ拒む。泉から出たいのではなかったか。
『私は欠けたくない』
完全な自分。すべての記憶、すべての力。それを保ったまま俺の身体へ移りたい。それだけ。救われたいのではない。失いたくない。泉主が逆流を止めた時と同じ。自分が欠けることを何より恐れている。
「なら残れ」
俺は男の手を離した。無理に救う必要はない。本人が変わることを拒むなら、今は封じる。
『待て!』
『逆流率、八十九』
泉主の身体が水の輪へ引かれる。銀色の根が男の足へ絡む。
『お前も同じになる。いつかすべてを失うことを恐れ、一人で抱え込む。必ず』
「その時は」壁の向こう。どん。音がする。俺を待つ者。「また誰かに話す」
泉主の顔が歪む。怒り、悲しみ、恐怖。それらを残したまま、青い水へ沈んでいく。
『ルーク!』最後に俺の名を叫ぶ。『私は消えない! お前が私である限り!』
水の輪が閉じる。男の姿が見えなくなる。
『逆流率、九十七』
あと三。身体の中、青い魔力は胸の中央にだけ残っている。同時に前世の記憶も大きく抜けている。名前。医魔術。母。今世。何が何だか分からなくなる。手が第一鍵から離れる。駄目だ。あと少し。だが力がない。意識が暗くなる。
壁の向こうから音。どん。どん。一定の間隔。呼びかけ。俺は誰かと約束した。帰る。誰に。顔が思い出せない。それでも帰らなければ。その思いだけが残る。
俺は身体を前へ倒した。両手ではない。胸ごと第一鍵へ触れる。残った青い線、そのすべてを白石へ押しつける。
『逆流率、百』
封鎖室が白い光に包まれた。
『逆流完了。第一の根、封鎖します』
銀色の根が一斉に石へ変わる。青い水が消える。第一鍵の光も消える。胸の線、痛み、すべてなくなった。代わりに俺の中から、何か大切なものが完全に抜け落ちる。
俺は誰だ。ここはどこだ。なぜこんな場所にいる。
壁がゆっくり開く。光が差す。向こうから誰かが走ってくる。女。泣いている。俺を抱き上げる。
「ルーク!」
名前。俺の。そうだった気がする。
「よかった、帰ってきた」
女は俺を強く抱きしめる。温かい。知っているはず。だが名前が出ない。俺は女の顔を見る。
「……だれ?」
その瞬間、封鎖室の中で第一鍵が小さく、青く光った。




