Ep190. 前世より前の記憶
知らない男だった。だが、その顔を俺は知っている。額の形、細い目、人を見下すような笑み――前世の俺、ルーク・E・オリバーによく似ていた。いや、鏡を見ている感覚だった。年齢は三十代ほど、髪は後ろへ束ね、衣服は前世よりも遥かに古い様式だ。
男は青い泉の前に立ち、周囲には銀色の根と白い岩壁、床を覆う透明な水。背後には白い外套の者たちが並び、全員が膝をついていた。「泉主様」と誰かが呼ぶ。
男が水面へ手を伸ばすと金色の魔力が流れ、泉は最初から一つだったように混ざる。「第一の根を開け」低く傲慢な、前世の俺に似た声で命じる。「西の集落へ水を通す。この泉の力があれば病も飢えも消える」
善意に聞こえるが、膝をつく者たちは誰も喜んでいない。老人が恐る恐る言う。「第一の根はまだ安定しておりません、人の身体へ接続する恐れが」男が見ただけで空気が凍る。「私が制御する。二度言わせるな」
男が泉へ両手を入れる。青い光が腕を這う――俺の胸に現れたものと同じ線だ。だが男は笑っている。「私を通せ、私が泉口となる」銀色の根が集まり、青い水が身体へ入る。魔力、生命力、記憶がすべて混ざっていく。
その瞬間、俺の胸に激痛が走った。「ルーク!」遠くでバーバラの声。だが目を開けられない。身体は採石場にあるのに、意識だけが泉の記憶へ引き込まれている。「第一記憶層」――これは泉が見た過去、水と根に蓄えられた古い記録だ。
男の身体から青い光が広がり、遠くの集落へ届く。乾いた井戸から水が湧き、病人が治り、畑に芽が出て人々が歓声を上げる。男は泉の力で集落を救った――そう見えた。
だが翌日、井戸の底に青い砂が沈む。三日後、水を飲んだ者の腕に銀色の線が浮かぶ。七日後、集落の中央に巨大な銀色の花が咲き、周囲の魔力を吸い始める。人々が倒れ、家畜が痩せ、生命力が消える。それでも水は止まらず、青白い糸が集落全体を巨大な根へ変えていく。逃げようとする人々の足に銀色の糸が入り込み、身体を固定し魔力を奪う。最後には誰も動かなくなり、青い水だけが流れ続けた。
男はその光景を根を通してすべて見ていた。「なぜだ、私は制御したはずだ」泉は答えない。水面に映る男の目に青い光が宿っていた。「止まれ、第一の根を閉じろ」――閉じない。銀色の根はさらに広がり、地中を進む。男の腕の青い線はすでに胸まで届いている。泉口――男自身が泉の出口になっていた。
「切れ、私と泉の接続を切れ!」老人が白い石を持って前へ出る。「逆流させます」白石を胸へ押し当て、乳白色の光が広がる――昨日俺たちが見たものと同じだ。青い魔力が身体から抜け、集落へ伸びた糸が崩れていく。
成功するかに見えた矢先、男の顔に恐怖が浮かぶ。逆流する魔力の中に記憶や感情、自分の意思までもが混じり、泉へ吸い込まれていく。「待て、私まで持っていくな」止めようとしたことが失敗だった。流れが乱れ、青い魔力が激しく衝突する。白石が砕け、老人が吹き飛ばされ、銀色の根が一斉に男へ突き刺さる。「やめろ!」――記憶がそこで途切れた。
次に見えた時、泉の前には誰もいなかった。青い水面に、一人の男の顔だけが映っている。肉体も声もなく、意識だけが泉に残されていた。その顔がこちらを、長い時間を越えて真っ直ぐに見た。
「戻れ、私の器」
違う、俺はお前ではない。「戻れ、ルーク・E・オリバー」――なぜ俺の名を知っている。俺の前世は医魔術師、同じ名前。偶然ではない、泉が俺の魂を追っていたのだ。
前世よりさらに古い時代。この男が俺だったのか。俺は前世で死に、赤子として自分自身へ転生したと思っていた。だがその前にも別の人生があった。同じ魂、同じ傲慢さ。泉主。第一の根を開き、一つの集落を滅ぼした男。その意識の一部が今も泉に残り、俺を器と呼んでいる。
「帰還せよ」水面から無数の水の手が伸び、記憶の中へ引き込もうとする。実体はないと分かっているのに、掴まれた感触は冷たい。「接続率、六十三」白石の声が響く。現実でも接続が進んでいる。戻らなければ七十を越え、泉は俺の思考を完全に読む。すでに記憶を使い、恐れを引き込む材料にしている。
「お前は私だ。同じ魂、同じ名、同じ力。否定する必要はない」
否定する。「何が違う」男が笑う。「弱みを見せるくらいなら一人で死ぬ。他人は自分より劣ると心の底で信じている」――否定できない。今でも自分で考えた方が早いと思う瞬間がある。「ならば戻れ。泉の力があれば病も死も、母親さえ治せる」
水面にバーバラが倒れ、胸に銀色の根が刺さった姿が映る。「お前が器となれば母親は助かる」――嘘だ。父の記録では接続先を殺しても次へ移るだけ。だがそう考えさせられる。「選べ、お前一人か、母親と村人か」水面にバーバラやオリヴィア、ゲイル、村人たちの顔が浮かび、皆根に絡まれている。「多くを救うために一人を切り捨てることは正しい」
前世の俺ならそう判断した。自分が一人の側なら迷わず切り捨て、それを強さだと思っていた。だが今は違う。俺は帰ると約束した。自分が消えればいいと考えることも、一人で抱え込むことと同じだ。父は言った、「互いを信じろ」。逆流は一人ではできない。
俺は水の手に掴まれたまま、前世の声で言った。「お前ではない。同じ魂だ、それでも今何を選ぶかは俺が決める。俺は帰る」
男の笑みが消えた。「帰る場所などない」「ある」――バーバラ、母、家、診療所、皆が俺を待っている。「俺は一人で死なない」水の手が強く腕を引く。「ならば全員死ぬ」「死なせない」「どうやって」「皆と考える」
男が初めて怒りを見せた。「無力な者へ頼るのか」「ああ」「裏切られるぞ」「それでも」信じる。絶対の保証はない。それでも一人ですべてを決め、失敗した男より少しはましだ。「俺はお前と同じ失敗をしない」
そこへ別の声が届いた。「ルーク!聞こえる?戻ってきて!」バーバラが現実から呼んでいる。肩へ触れる温かい手、泉の冷たさとは違う。「目を開けて!」オリヴィア。「しっかりしろ!」ゲイル。「脈が落ちてる!」ダグラス。一人ではない。俺は水の手を振り払い、男へ背を向けた。
「待て」男の声に焦りが混じる。「お前が去れば、私はまた一人になる」
足が止まりそうになった。泉の中で数え切れない年月、意識だけが残され、自分の失敗を何度も見続ける――孤独。それは前世の俺が最も恐れたものだ。男は俺を器として欲しいのではない、自分を泉から出してほしいのだ。一人でいることに耐えられず、同じ魂を探し、名まで引き継がせた。
「お前を助けるとは言わない。今は俺たちを殺そうとしている。だが逆流が成功した後、泉から切り離す方法があるなら考える。一人ではなく皆で」
男は何も言わなかった。俺は現実の声へ向かって歩く。水面が遠ざかり、銀色の根が足元へ絡むが、今度は振り払わず前へ進む。バーバラの声、母の手、俺の名前――すべてが道になる。最後に男の声がした。「ならば証明しろ、お前が私ではないことを」水面が大きく割れた。
◇ ◇ ◇
目を開けた。岩の天井、青く光る線、俺を覗き込むバーバラの顔。「ルーク!分かる?」俺は頷いた。喉も胸も焼けるように熱いが、戻った。
「時間は?」「ほんの少しよ。急に反応しなくなって」バーバラの手が震えている。俺はその手へ触れた。「戻った。帰るって言った」母の目に涙が浮かぶ。「約束したでしょう」
俺たちはまだ採石場の最初の通路にいた。壁の青い道は奥へ続き、第一鍵は胸元で光り、白石が赤く明滅する。「接続率は?」ゲイルが白石を見ると声が響いた。「六十七」――記憶層にいる間に七上がった。あと三で七十を越える。「急ぐぞ」
だが俺は伝えねばならなかった。「待って」泉主のこと、同じ魂のこと、泉に残った意識のこと――隠してはいけない、一人で考えないと約束した。「見た。泉の記憶。昔、男がいた。俺に」
言葉が続かない。前世の話すら誰にもしていないのに、さらに前の人生を話せるか。隠せばまた一人になる。だが言えば、母は俺を本当の子どもではないと感じるかもしれない――泉はその恐れを利用しようとしている。
俺は母を見た。拒まれることが怖い。前世の俺なら拒まれる前に自分から離れた。だが今は信じると決めた。「俺、一度死んだ。生まれる前、この身体の前。大人だった、医魔術師、ルーク、同じ名前」
オリヴィアが口元を押さえ、ゲイルは黙って聞き、ダグラスの目が鋭くなる。「死んで、ここに生まれた、記憶がある」バーバラは目を逸らさない。驚きと混乱と恐れ、すべてがある。
「さっき、もっと前を見た。泉の男、俺と同じ魂。たぶん第一の根を開いて失敗した。泉に残ってる。泉は俺を戻したい、器にする。だから俺の名前を知ってる」
言い終える。沈黙。水音だけが聞こえる。来なければよかった――一瞬そう思った。だがそれは前世と同じだ。
「そう」バーバラは静かに言った。「ずっとそんなことを抱えていたのね。私に話すのが怖かった?」「俺じゃないと思う」「誰が?」「母さん」
言葉にした瞬間、胸が痛んだ。「私が?あなたを?」俺は頷くこともできなかった。母はしばらく黙り、俺の額へ自分の額を重ねた。「前に誰だったかなんて、今のあなたが私の子どもじゃない理由にはならない。私のお腹の中で育って、産んで、泣いて、笑って、毎日一緒に生きてきた。それが消えるの?」
消えない。「大人だった記憶があっても、今ここにいるあなたはルークでしょう。私がそんなことであなたを手放すと思ってたの?」思っていた。「それは傷つくわ」母の声に笑いが混じる。「あとで全部話してもらいます」
責められている。なのに胸の奥が温かい。「でも今は帰ることだけ考えましょう」オリヴィアが目元を拭きながら笑う。「大人の記憶があるなら、どうりで生意気だと思った」ゲイルも息を吐く。「今のお前が子どもなのは変わらん、無茶をしていい理由にはならないぞ」ダグラスは鼻で笑った。「今の身体は診れば分かる。ただの無茶をする病人だ」
誰も離れない。恐れたことは起きなかった。胸の青い線が少し薄くなった気がした。泉が俺の恐怖を利用できなくなったのだ。
白石が再び声を出す。「接続率、六十五」下がった。逆流の儀式はまだ行っていないのに、秘密を話し恐れを手放したことで接続が弱まった。父の記録――「七十を越えれば根は意思を読む」。逆に意思を利用できなければ接続は進みにくい。泉は魔力だけでなく、孤独や恐怖、隠し事――誰にも見せない部分へ根を伸ばすのだ。父が「互いを信じろ」と言った理由は、泉へ対抗する方法そのものだった。
「まだ下げられるかもしれない」ゲイルが言う。「話しながら進むぞ」俺たちは青い道を進み、第一封鎖室へ向かう。通路は狭くなり、壁の銀色の根が揺れるが、先ほどまでのように胸を強く引かれない。皆の声が泉の声より近くにある。
やがて白い岩壁が現れた。第一鍵が強く光り、壁に三本の溝が浮かぶ。ゲイルが鍵を壁へ重ねると、青い光が走り、白い石が左右へ開いていく。
その奥、巨大な空間の中央に銀色の根が絡み合い、根の中心に人一人が入れる青い水の輪がある。水の向こうに、記憶で見た男が立っていた。実体のない、青い光で形作られた泉主の姿。
「ようやく戻ったな」男が笑う。白石が無機質に告げる。「第一封鎖室、開放。逆流儀式を開始します。接続先以外は退室してください」
入口の白い壁がゆっくり閉じ始める。俺一人を封鎖室へ残そうとしていた。




