Ep188. 第一の根、起動
『第一の根』
『接続を開始』
白石から響いた声は、命令でも警告でもなかった。ただ、すでに決まった手順を告げるような、感情のない声だった。
次の瞬間、村の北から三度目の音が響く。ごうん。窓硝子が震えた。棚の瓶が小さく音を立てる。診療所だけではない。家全体、いや、地面そのものが低く揺れている。
「地震?」
オリヴィアが窓枠へ手をつく。違う。揺れは大地全体から来ているのではない。北、採石場の方角から、一定の間隔で届いている。何か巨大なものが岩の奥で動くたび、その振動が地中を伝わっている。
「全員、外へ出よう」
ゲイルが言った。
「家が崩れるほどじゃないが、ここにいる必要はない」
正しい。俺はまだ歩けない。バーバラが毛布ごと俺を抱き上げる。
「寒くない?」
今は、そんなことを気にしている場合ではない。だが、俺が首を横へ振ると、母はさらに毛布を巻き直した。
俺たちは家の前へ出た。朝から晴れていた空は、いつの間にか薄い雲に覆われている。風は弱い。鳥の声もしない。村の人々も次々と家から出てきていた。
「何の音だ?」
「北からだ」
「採石場が崩れたんじゃないか?」
「でも、崩れた音なら一度で終わるだろ」
不安そうな声が飛び交う。誰も、あの場所で何が起きているか知らない。俺たちも詳しくは分からない。ただ、白石は赤く光り続けていた。
ゲイルが木箱ごと地面へ置く。箱の蓋を開ける。白石の表面、三本の銀色の根。そのうち北を示す一本だけが赤く脈打っている。ごうん。地面が揺れる。白石の赤い光も同じ間隔で強くなる。完全に連動している。
「接続って、何と何をつなぐんだ?」
ゲイルが問う。答えはおそらく、泉の本体と第一の根。森の岩清水は、三本の根のどれかから分かれた末端。それを目覚めさせたことで、泉側が眠っていた根との接続を始めた。問題は、接続が完了した時、何が起こるかだ。水が湧く。魔力が流れ込む。採石場全体に銀色の植物が生える。あるいは先ほどの花のように、周囲の人間から魔力を奪う。
父は言っていた。
『北へ行かせるな』
『根を起こすな』
第一の根は、起こしてはいけないものだった。だが、俺たちは採石場へ行っていない。触れてもいない。なぜ目覚めた。白石。俺の胸に残った青い魔力。銀色の花を森へ返したこと。そのどれかが起動条件になった。いや、すべてかもしれない。泉へ水を返したことで、俺の存在が本体へ伝わった。泉は俺を見つけ、最も近い根を起動した。目的は、俺を呼ぶため。
そう考えた瞬間、胸の青い魔力が強く引かれた。
「っ……」
喉から僅かに声が漏れる。
「ルーク?」
バーバラが俺を見下ろす。痛い。昨日のように魔力を吸われているわけではない。胸の中に残った青い力が、身体の外へ出ようとしている。北へ。第一の根へ。俺は胸元を押さえた。
「また苦しいの?」
母の声が硬くなる。俺は北を指差した。
「採石場に引っ張られてる?」
頷く。
「なら、白石をしまえ」
ゲイルがすぐに蓋を閉じようとする。だが、木箱へ手を伸ばした瞬間、白石から細い光が弾けた。
「うっ」
ゲイルの手が後ろへ弾かれる。火傷はない。だが、指先が痺れたらしく、何度も手を握り直している。
「触るなってことか」
白石は俺以外を拒んでいる。そう見えた。ゲイルが触れたからではない。昨日までは、彼が運んでも何も起きなかった。今、第一の根が起動したことで、白石の性質が変わった。いや、鍵として使用者を選び始めた。俺の中に残った青い魔力。白石の紋章。第一の根。すべてがつながっている。
「ルークへ持たせるのは駄目よ」
バーバラが言う。当然だ。俺も触れるつもりはない。触れれば、今以上に強く接続される可能性がある。だが、放置すれば根の起動は進む。どうすれば止められる。父の記録。白石。古い採石場。何か、停止方法が残されているはずだ。
俺はバーバラの腕を叩き、記録帳を示す仕草をした。
「父さんの記録?」
頷く。
「家の中に取りに戻る?」
揺れは弱い。今なら短時間なら入れる。
「私が取ってくる」
オリヴィアが言った。
「どこにある?」
「寝室の机の一番下」
バーバラが答える。
「皮の表紙のものを全部持ってきて」
「分かった」
オリヴィアが家へ入る。その間、村の北で新しい変化が起きた。採石場の方角、山の斜面から赤い光が立ち上る。炎ではない。細い柱。白石と同じ、銀色を含んだ赤。
「見ろ!」
村人の一人が叫ぶ。光は空まで届くほど高くはない。だが、村のどこからでも見える。山肌の一部が、内側から透けているように光っている。ごうん。音とともに赤い柱が一度明滅する。次に、山の斜面を細い線が走った。地表の亀裂に沿うように、赤い光が下へ伸びていく。採石場から村へ。
「こっちへ来てるぞ」
ゲイルが低く言う。根が伸びている。物理的な根か、魔力の流れか。まだ分からない。だが方向は明らか。村。正確には俺。第一の根が接続先を探している。
「村の人を南へ避難させよう」
トムの父が言った。
「何が来るか分からん」
「賛成だ」
ゲイルが頷く。
「子どもと年寄りから動かす」
「荷物は最低限」
「井戸には近づくな」
村人たちが動き始める。誰かが鐘を鳴らす。火事や魔物が現れた時に使う村の警鐘。甲高い音が何度も響く。混乱はある。だが誰も勝手に採石場へ向かおうとはしない。ゲイルたちが昨夜のうちに森と水脈の異変を伝えていたからだ。未知の光へ興味だけで近づく者はいない。少なくとも今のところは。
オリヴィアが記録帳を抱えて戻ってきた。
「これで全部?」
五冊。父が残した、森、薬草、水、鉱石、病気。それぞれを記録した帳面。俺は水と鉱石の記録を選んだ。地面へ広げてもらう。
「何を探せばいい?」
バーバラが尋ねる。第一の根。採石場。北。接続。起動。停止。俺は知っている文字を指で地面へ書く。
「根」
「採石場」
「止める方法」
オリヴィアとゲイルも帳面を開いた。
「俺は採石場を探す」
「私は根って書いてあるところを見る」
「私は父さんの病気の記録を」
三人が手分けして読み始める。俺もバーバラの膝の上からページを追う。父の字は丁寧な時と乱れている時がある。初期の記録は、採取した薬草や岩清水の性質について。後半へ進むほど、同じ言葉が繰り返されていた。
『水は器ではない』
『流れそのものが意思を持つ』
『持ち帰れば、帰路を探す』
『根は水を通す道ではなく、泉が外を見るための眼である』
眼。父も花に見られていると感じたのか。ページをめくる。
『第一の根』
あった。俺は紙を叩く。
「ここ?」
バーバラが読み上げる。
「第一の根は、北の石切り場の下に眠る」
採石場。間違いない。
「採掘によって外側の岩盤が削られたが、白層には到達していない」
「白層?」
白石が広がる層。根を封じている。父が月雫草の周囲で見つけた石と同じ。
「白層を傷つければ、根は周囲の魔力へ接続する」
「接続先が生物であれば」
バーバラの声が止まる。
「どうしたの?」
オリヴィアが顔を上げる。母は続きを読みたくないように、一度唇を結んだ。だが、読んだ。
「接続先が生物であれば」
「根は、その身体を新たな泉口として利用する」
泉口。湧き出す場所。つまり、第一の根は俺の身体を新しい出口にしようとしている。胸の中の青い魔力が、また強く脈打つ。呼吸が浅くなる。
「ルークから離さないと」
バーバラが俺を抱く腕へ力を込める。
「でも、どうやって?」
距離を取るだけでは無理だ。すでに俺の中に印がある。村を出ても、根は追ってくる可能性がある。接続を切る方法。記録の続き。ページをめくる。だが、次の数枚は水へ濡れた跡があり、文字が読めない。
「そんな……」
バーバラが掠れた声を出す。偶然か、父が消したのか。重要な部分だけ判別できない。俺は別の帳面を開く。鉱石。白石。封印。何か同じ内容があるはずだ。
ゲイルが声を上げた。
「あったぞ」
彼が持っているのは採石場についての記録。
「採石場の古い図面が挟まってる」
紙を広げる。村の北、山肌、掘削された横穴。現在は崩落して塞がれている場所。そのさらに奥、通常の墨とは違う青い線で、三本の通路が描かれている。そのうち一本が地中深くへ伸び、丸い空間へつながっている。
『第一封鎖室』
父の字。
「ここで止められるのか?」
ゲイルが問う。図面の脇に短い記述がある。
『第一の根が接続を始めた場合』
『外部からの遮断は不可能』
『接続先が封鎖室へ入り』
『泉口となる前に』
そこで文章が切れている。紙の下側が破られていた。
「続きがない」
オリヴィアが呟く。なぜ、どの記録も最も必要な部分だけ欠けている。父が意図的に破った。それとも誰かが持ち去った。泉に関わる何かが記録を消した。だが、一つだけ分かった。接続を止めるには、俺が封鎖室へ行く必要がある。父が『北へ行かせるな』と言った理由。行けば危険。だが、起動してしまった後は、行かなければ止められない。矛盾している。父は根が起きる前なら絶対に近づけるなと言った。起きた後については別の方法を残したはず。破られた部分にそれが書かれていた。
「絶対に行かない」
バーバラが言った。
「この状態のルークを、採石場へ連れていくなんてできない」
俺も今すぐ行けるとは思っていない。身体に力がない。魔力も戻っていない。だが、赤い光は採石場から村へ近づき続けている。猶予がどれほどある。
白石から再び声が響いた。
『接続率』
『二十七』
数字。進行状況。
「二十七?」
「何がだ?」
すぐに赤い光が強くなる。俺の胸にも焼けるような熱が走った。
「ルーク!」
バーバラが俺の服を開く。胸元、昨日までは何もなかった場所に青い線が浮かんでいる。父と同じ、血管のように、胸の中央から右肩へ向かって伸びている。線の先端はまだ短い。だが、白石が数字を告げるたび少しずつ長くなっている。接続率が百になった時、俺は泉口になる。何が起きる。身体から岩清水が湧き出す。魔力を吸い続ける花が生える。俺自身が泉の一部になる。どれも生きたままでは済まない。
「封鎖室へ行くしかないってことか」
ゲイルが低く言う。
「でも、行って何をする?」
破られた記録。必要なのはその続き。父が持っていたはずの紙。どこにある。記録帳から破ったなら、捨てた、焼いた、別の場所へ隠した。父は誰にも知られたくなかった。だが、未来の誰かが第一の根を起こした時、完全に方法を消すとは考えにくい。白石に声を残したように、別の形で残している。父の最期。青い線。北へ行かせるな。根を起こすな。子どもを泉に見つからせるな。子ども。俺が生まれる前。父はどこに大切なものを隠す。家。診療所。森。墓。墓。
俺は顔を上げた。採石場の近くには古い墓地がある。父の墓もそこにある。雫が示した光は採石場だけでなく、墓地の方角でもあった。第一の根ではない。父の記録が俺を北へ呼んだ可能性。父は破った紙を自分の墓へ隠した。俺は地図の採石場の手前を指差した。
「墓地?」
バーバラが言う。頷く。次に、父。紙を隠す仕草。母の顔色が変わる。
「父さんの墓に、続きがあると思うの?」
確証はない。だが可能性は高い。
「採石場へ行くよりは近い」
ゲイルが地図を見る。
「赤い光の進路からも少し外れてる」
「俺が見てくる」
違う。父が俺にだけ残したものなら、ゲイルでは見つけられないかもしれない。白石と同じ、青い魔力を持つ者にしか反応しない術式。俺自身が墓へ行く必要がある。
「駄目」
バーバラは俺が何も示していないうちに言った。
「あなたを連れていくつもりでしょう」
ゲイルも黙った。俺を見ている。分かっている。時間がない。そして俺が必要。
「接続率」
白石がまた声を出す。
『三十一』
胸の青い線が目に見えて伸びた。右肩へ、鎖骨の下まで。痛みは少しずつ強くなっている。猶予は長くない。
俺はバーバラの手を握った。墓地へ。皆で。採石場には入らない。記録だけを取る。危険があれば戻る。そう伝える。母は首を横へ振り続けた。
「嫌よ」
声が震えている。
「昨日、あなたが目を覚まさない間」
「もう二度と起きないんじゃないかって」
「ずっと怖かった」
「それなのに」
「今度は、泉に身体を奪われかけてるのに」
「連れていけるわけないでしょう」
俺も行きたいわけではない。怖くないわけでもない。だが、ここへ残っても接続は進む。第一の根が村へ届けば、俺だけではなく他の人間も危険になる。俺の身体を泉口にできなければ、別の者へ接続先を変えるかもしれない。母。オリヴィア。ゲイル。誰かが次に選ばれる。一度つながった俺が止めなければならない。
俺は胸の青い線を指差す。次に周囲の村人。そして首を横へ振った。
「ルークが行かなかったら、他の人も危ないの?」
母は理解した。俺は頷く。
「本当に?」
断言はできない。だが可能性はある。俺は少し迷い、それでも頷いた。バーバラは目を閉じた。涙が一筋、頬を伝う。長い沈黙。その間にも採石場から、ごうん、音が響く。
『接続率』
『三十四』
母はようやく目を開けた。
「墓地まで」
「墓地で記録が見つからなかったら、すぐ戻る」
「採石場には入らない」
「絶対に」
俺は頷く。
「ゲイルさん」
「ああ」
「村の人を避難させたあと、ついてきてください」
「当然だ」
「オリヴィア」
「私も行く」
「あなたはルークの身体を見ていて」
「分かった」
「ダグラスさんにも来てもらう」
元薬師。今の俺の状態を見られる者。必要だ。
「荷車を使おう」
ゲイルが言う。
「揺れないよう布を敷く」
「採石場側へ近づきすぎない道を選ぶ」
「墓地までなら半刻もかからない」
準備が始まる。俺は毛布へ包まれたまま北を見る。山肌の赤い光は先ほどより太くなっている。地面を走る線も村の外れまで近づいていた。胸の青い線が、それへ応えるように脈打つ。
父の墓。そこに本当に答えがあるのか。なければ俺たちは何も分からないまま、第一の根が待つ封鎖室へ行くことになる。
◇ ◇ ◇
ほどなく、毛布を重ねた荷車が用意された。バーバラが俺を寝かせる。身体が揺れないよう左右を布で支える。ゲイルが前に立つ。トムの父と村人二人が周囲を守る。オリヴィア、ダグラス、そして母。俺たちは避難する人々とは反対に、村の北へ進み始めた。
一歩近づくたび、胸の青い線が熱を増す。白石も木箱の中で赤く明滅している。
『接続率』
『三十七』
数字が止まらない。村を出る。畑の横を通り、古い墓地へ続く細道へ入る。その時、北の空で赤い光が大きく広がった。山肌から何かが突き出す。遠く、形ははっきり見えない。巨大な銀色の柱。いや、根。岩を割り、採石場の底から一本の銀色の根が地上へ現れた。先端はゆっくり曲がる。迷うことなく、俺たちの荷車へ向いた。
白石が、今までより大きな声で告げる。
『接続先を確認』
『泉口候補』
『ルーク・E・オリバー』
なぜ、俺の名を知っている。バーバラが荷車の上へ覆いかぶさるように俺を抱いた。銀色の根の先端が開く。花の蕾のように三つに割れる。その中心に青い光が灯った。
『回収を開始』
地面の下を赤い光が走る。墓地へ到着するより先に、第一の根は俺を迎えに来ようとしていた。




