Ep186. 森へ返す方法
『これを見つけたなら』 『水を、森へ返せ』
診療所の中に響いた父の声は、長くは続かなかった。白石に刻まれた術式が一度だけ強く輝き、それから何事もなかったように沈黙した。
「今の……」バーバラが呆然と呟く。「父さんの声だった」
聞き間違いではない。俺は父の声をほとんど覚えていない。今の人生で父が生きていた時間は短い。それでも、母が大切に保管していた記録用の魔石から何度か声を聞いたことがある。落ち着いた声。言葉の最後を僅かに飲み込む癖。間違いなく父だ。
「どうして、あの石から声が?」オリヴィアが尋ねる。
白石には父が術式を刻んでいた。一定の条件が揃った時だけ、記録した声を再生する術式。おそらく月雫草の根元にあった白石へ、青い水の魔力が触れることが発動条件だった。父は知っていた。岩清水を密閉して保管すれば、青い砂が集まり、やがて糸を伸ばすことを。そして最後には花が生まれることも。いや、すべてを見たわけではないかもしれない。父の記録では、青い砂は瓶を揺らすと消えた。糸や芽については書かれていなかった。だが危険を予測していた。だから白石へ言葉を残した。水を森へ返せ、と。
それだけでは方法が分からない。瓶を持って森まで運ぶのか。中身を川へ流すのか。岩清水が湧いていた場所へ戻すのか。何をしても危険だ。今の瓶は青白い糸によって木皿とつながり、銀色の花を生み出している。隔離箱は壊れ、花は診療所の床へ根を伸ばそうとしている。この状態で瓶を動かせば、糸が千切れる。瓶が割れる。花が魔力を奪う。どれが起きてもおかしくない。
「返せって、どうやって?」ゲイルが言った。「このまま運べる状態じゃないぞ」
その通りだ。俺は白石を見た。父は方法まで残していないのか。いや、今の声は術式が最初に伝えた言葉。他にも記録がある可能性がある。白石に刻まれた線は、まだ完全には消えていない。淡い光を保ったまま、幾つかの文字が浮かんでいる。俺は目を凝らした。古い魔術文字。前世ならすぐに読めた。だが今の目では、細かい線を追うだけでも時間がかかる。それでも一文字ずつ形を確認する。
『流れ』『器』『根』――断片的な言葉。術式全体が白石の小さな表面へ重ねて刻まれている。記録だけではない。何かを動かすための術式。白石から伸びた光の円は、花と瓶と水を囲っている。円の一部が、診療所の外へ向かって途切れていた。森の方角。道を示している。
父は花を持ち運べと言っているのではない。水の流れを作り、森までつなげようとしている。今も地下には森から来た水脈の魔力がある。診療所の床まで届いた青い流れ。それを逆に利用する。花を地下の水脈へ直接つなげば、自ら森へ戻るかもしれない。だが花はすでに水脈へ根を伸ばそうとしている。そのままつなげていいのか。村の井戸や水路へ広がる危険はないのか。父の言う『森へ返す』とは、ただ地下へ入れることではないはずだ。白石の術式が行き先を制御する。村へ広がらず、元の場所へ戻る一本の流れを作る。そのために白石が必要なのだ。
俺は白石と森を交互に指差し、地面に線を引く仕草をした。
「この石で、森まで道を作る?」バーバラが理解する。俺は頷いた。
「でも、これ一つで?」
足りない。親指ほどの小石一つで、村から森まで術式を維持するのは難しい。何か別のものが必要だ。父は採取地点の白石を傷つけるなと記していた。白石は岩壁全体に広がっていた。森側には十分な量がある。こちらの小石は向こうの白石へ接続するための鍵、起点。なら、この石の術式を完全に起動させれば、森の岩壁にある白石が応答する。先ほど森の奥で青白い光が立ち上った。花の呼びかけだけではない。向こうの白石も反応した可能性がある。
「ルーク」バーバラが白石を見つめる。「どうすれば術式を動かせるの?」
条件が足りない。今は青い水の魔力へ反応し、声と光の円を生み出しただけ。森まで道をつなぐには、術式を起動する魔力が必要だ。だが花へ魔力を与えれば吸われる。人間が近づくのも危険。白石へだけ必要な量を流し込む。そんな細かい操作を、今の身体でできるか。前世なら簡単だった。魔力を糸のように細く伸ばし、術式の起点へ触れさせる。だが今の俺は魔力を感じ取れても、自在に操る訓練をほとんどしていない。赤子の身体で無理に魔力を使えば、経路を傷つける可能性がある。それでも他に方法はない。父の術式を読める者も、この場には俺しかいない。
俺はバーバラの腕から降りようとした。
「駄目」母はすぐに俺を抱き直した。「何をするつもり?」
白石を指差し、自分の胸から細いものを送る仕草をする。
「魔力を流すの?」頷く。「花にまた吸われるわ」
俺は首を横へ振る。白石が花と俺の間にある。術式が正常に働けば、魔力は花へ届く前に分散される。いや、確証はない。失敗すればまた魔力を吸われる。母が許さないのは当然だ。
「他の方法を考えましょう」
時間がない。地下の青い魔力は白石の円に止められている。だが少しずつ円の外へ広がっている。白石に蓄えられた力だけでは長く維持できない。花の糸も水面の直前で震えている。白石の光が消えた瞬間、地下へつながる。そうなれば村の水脈全体へ花の根が広がるかもしれない。
俺は母の服を強く掴んだ。そして目を逸らさずに頷いた。やる。
「ルーク」バーバラは俺の意志を理解した。その顔が歪む。「あなたにしかできないの?」頷く。「危険なのね」それにも頷くしかなかった。
母は長く黙った。以前なら俺が何を言っても止めただろう。危ないことを幼い俺にさせるはずがない。今も許したいわけではない。だがここで止めれば村全体が危険になる。そのことも理解している。
「約束して」バーバラが言った。「少しでも苦しくなったら、すぐやめる」俺は頷く。「一人で何とかしようとしない」頷く。「私が離れろと言ったら、絶対に離れる」頷く。
母はようやく俺を地面へ下ろした。ただし、すぐ抱き上げられる位置から離れない。
「石へ、どうやって近づく?」ゲイルが尋ねる。
白石は長い板の先、診療所の床に置かれている。花との距離は近い。俺が直接そばへ行く必要はない。術式の光は床から診療所の外まで伸びている。円の端へ触れれば、魔力を白石まで送れるかもしれない。俺は地面に走る乳白色の線を指差した。診療所の入口から俺たちの近くまで届いている。線の一番外側、花から最も遠い場所。そこなら吸収の影響も弱い。
◇ ◇ ◇
俺は線の前へ座った。冷たい土が膝に触れる。母が後ろから肩を支える。
「どうすればいい?」
集中する。自分の中の魔力を探す。胸の奥、心臓の少し下。小さく温かいものがある。先ほど花に奪われ弱くなっている。それでも残っている。魔力は力任せに押し出すものではない。流れを作る。行き先を示す。前世の感覚を思い出す。指先へ、ゆっくり細い流れを運ぶ。身体が僅かに熱くなる。幼い魔力経路が慣れない動きに軋む。痛み。まだ弱い。続けられる。
俺は右手を伸ばし、乳白色の線へ指先を触れた。光が指へ絡みつく。白石まで道はつながっている。魔力を流す。ほんの少し、水滴一つ分。そのつもりだった。だが触れた瞬間、術式の方から俺の魔力を引いた。予想より強い。胸の奥が再び空になる。
「ルーク!」バーバラが俺の身体を引こうとする。まだ、やめるな。術式は起動しかけている。地面の光が強くなる。白石の線が一つずつ輝く。だが足りない。俺の魔力だけでは森まで届かない。このままでは俺だけが倒れ、術式も完成しない。失敗。そう思った時、肩に温かい手が触れた。バーバラ。母の魔力が俺へ流れ込む。
「一人で何とかしないって、約束したでしょう」
母は魔術師ではない。魔力の扱いもほとんど知らない。それでも俺の流れに合わせ、自分の魔力を渡そうとしている。不安定。途切れ途切れ。だが確かに届く。さらにもう一つ、反対側の肩へ手が置かれた。オリヴィア。
「私もできる?」俺は頷いた。「何をすればいい?」
力を押し込まなくていい。俺へ預ける。そう示すため、肩へ置かれた手を自分の胸へ引き寄せた。オリヴィアの魔力が母よりさらに細く流れ込む。
「俺たちもやるか?」ゲイル。駄目だ。人数を増やせば流れを制御できなくなる。俺は首を横へ振った。
「分かった。俺たちは周りを見る」ゲイルが村人たちを下がらせる。「異変があったら、すぐ止めるぞ」
三人分の魔力。俺が中心となり、一本の流れへまとめる。白い線へ。白石へ。術式へ。今度は光が止まらなかった。
◇ ◇ ◇
診療所の床に描かれた円が完成する。白石から一本の乳白色の線が伸びた。地下へ、青い水脈へ重なる。だが混ざらない。青い流れを囲い、一本の道へ整えていく。村中へ枝分かれしていた青い光が少しずつ戻り始めた。井戸から、水路から、畑から。散らばっていた魔力が診療所の下へ集まる。そして乳白色の道に導かれ、森の方角へ流れ始めた。
「戻ってる……」オリヴィアが呟く。
銀色の花が激しく震えた。糸を水脈へ伸ばそうとする。だが乳白色の光がその先端を包む。花を傷つけない。切らない。ただ流れる方向を変える。箱の中、木皿、瓶、花、すべてが白い光に包まれた。瓶底の青い塊がゆっくり崩れる。青い砂へ戻るのではない。光になり、糸へ流れ込む。糸から茎へ、茎から葉へ。銀色の花全体が透明になっていく。水へ戻っている。花が液体へ変わっている。
「消えるの?」バーバラの声。消滅ではない。形を失い、元の水へ戻る。最後に中心の青い雫だけが残った。それが花弁のあった場所から落ちる。水面へ。小さな音。その瞬間、銀色の花は完全に消えた。
木皿にあった土は乾いた状態へ戻っている。青白い糸もない。瓶の中には透明な水だけ。いや、水面が乳白色の光に包まれている。隔離箱の破片、瓶、木皿、それらが床を傷つけることなく浮き上がる。光の中で徐々に小さくなる。実際に縮んでいるのではない。術式が水だけを抜き取っている。瓶の中の水が細い流れとなり、床へ落ちる。乳白色の道へ入る。森へ。地下を通り戻っていく。
俺たちが持ち帰った岩清水。その中で生まれたもの。吸い取られた魔力。すべてが一本の流れになった。森へ向かう。地面の光が少しずつ遠ざかる。村の外れ、森の入口、さらに奥。俺の感覚でも追えないほど遠く。最後に森の中で青白い光が立ち上った。今度は先ほどより穏やかだった。呼びかける光ではない。帰ってきたものを迎える光。そう見えた。
術式の光が消える。俺の指も地面から離れた。身体を支える力がなくなり、前へ倒れそうになる。バーバラがすぐに抱き止めた。
「ルーク!」
声は聞こえる。だが返事をする力がない。魔力を使い切った。それでも胸を引く感覚は、もうない。村の井戸も水路も青く光っていない。終わった。そう思った時、白石から父の声が、もう一度だけ響いた。
『無事に返せたなら』 『次は、泉を探すな』 『泉の方から、お前を見つける』
意味を考える前に視界が暗くなった。最後に見えたのは光を失った白石の表面。そこへ新しく浮かんだ一つの印だった。父の印ではない。青い雫を囲む三本の銀色の根。俺が前世でさえ、一度も見たことのない紋章だった。




