Ep185. 森からの呼び声
森の奥で立ち上った青白い光は、一瞬で消えた。だが見間違いではない。診療所から伸びた光と、同じ色。同じ揺らぎ。そして同じ魔力だった。銀色の花も明らかに反応している。花弁は森の方角を向き、中心の青い雫が強く規則的に明滅していた。一度、間を置いて、もう一度。まるで遠くにいる何かへ合図を送っているように。
「今の……見たよな?」ゲイルが森を見つめたまま言った。
「ああ」トムの父が答える。「森の中で光った」
「何がいるんだ?」村人たちの声に恐怖が混じる。当然だ。診療所から現れた未知の植物が人間の魔力を奪い、森の何かと呼び合っている。安全だと考えられる要素は一つもない。
「全員、もっと下がってください」バーバラが声を上げた。「花へ近づかないで!」村人たちは互いを支えながら後退した。魔力を吸われた影響で、足元がおぼつかない者もいる。俺もまだ身体に力が戻っていない。母の腕に抱かれたまま、森の魔力を探る。遠い。正確な場所までは分からない。だが何かが動いている。月雫草が生えていた岩壁、あの周辺から細い魔力の流れが村へ向かって伸びていた。地上ではない。土の下。岩の中。水脈。
そうか。花は森へ呼びかけたのではない。森の水へつながろうとしている。岩清水、青い砂、糸、銀色の芽、月雫草――すべてが水を通じて結ばれている。森の奥で光ったものも、同じ水脈から生まれた何かなのかもしれない。あるいは、こちらの花が目覚めたことで、元の場所にあるものが反応した。
俺は地面を指差した。次に森。そして診療所。「地面の下?」バーバラが聞く。俺は頷く。「森から、地下を通って何かが来ているの?」そこまでは分からない。だが魔力の流れは近づいている。俺は手を波のように動かし、地面の下を流れるものを示した。「水?」強く頷く。「水脈が、ここまでつながっている?」
可能性は高い。この村の井戸、畑の水、診療所の裏にも浅い水路がある。森の岩清水と同じ水脈かどうかは分からない。だが地下でつながっているなら、花はその流れを感知している。そして戻ろうとしている。いや、呼び寄せようとしているのかもしれない。
「井戸を使うな!」俺の身振りを見ていたゲイルが、すぐに声を上げた。「村中に伝えろ! 今夜は井戸の水へ触れるな!」村人の一人が走り出す。もう一人も別の家々へ向かう。判断が早い。水脈に異変が起きている可能性があるなら、飲むのは危険だ。前世の俺なら確証がないと止めたかもしれない。だが人の命に関わる時は確認を待ってはいけない。安全だと分かるまで使わない。それでいい。
「花はどうする?」ゲイルが診療所を見る。銀色の茎は壊れた硝子窓から外へ伸びている。先端の花が森へ向いたまま光を放っている。魔力吸収は一時的に止まっていた。俺たちより森の水脈へ意識を向けている。今なら逃げることはできる。だが花を残せば村全体が危険にさらされる。
切る。燃やす。凍らせる。どれも反応が予測できない。特に火は危険だ。花の中には吸い取った魔力が大量に蓄えられている。燃やせば魔力が一気に放出される可能性がある。切るのも同じ。糸や根が分かれ、それぞれから成長するかもしれない。現状、最も効果が確認できているのは冷却。だが夜の冷気だけでは足りない。もっと強く冷やす必要がある。
氷。この村に、今の季節に十分な氷はない。冷却の魔石は診療所の薬棚に一つあった。炎症を抑える治療用だが、花のすぐ近く、取りに行けない。それに魔石を近づければ、空石と同じように吸われる可能性がある。なら魔力を使わない方法。冷たい水。だが井戸水は使えない。雨水――診療所の裏に雨水を貯める大きな樽がある。数日前に降った雨が、まだ残っているはずだ。
俺は裏手を指差し、水をかける仕草をした。「雨水を使う?」バーバラが理解する。俺は頷く。花へ直接かけるのではない。隔離箱と棚、その周囲を冷やす。急激に瓶を冷やせば割れる危険がある。少しずつ床へ水を流し、周囲の温度を下げる。「でも、誰が近づく?」近づく必要はない。樽から溝を掘り、水を診療所へ流す。裏の壊れた窓から床へ入れる。人が花の吸収範囲へ入らずに。
「やってみる」ゲイルが言った。「俺たちは裏へ回る。バーバラたちは、もっと遠くへ下がってくれ」ゲイルとトムの父が長い鍬と板を持ち、診療所の裏へ向かう。花の正面から外れる。森へ意識を向けている今なら、近づいても吸われにくいかもしれない。だが安全ではない。俺は二人の魔力を見続けた。僅かでも流れが変わったら止める必要がある。
ゲイルは雨水樽の下から診療所の窓へ続く浅い溝を掘った。樽の栓へ長い紐を結ぶ。離れた場所から引けば水を流せる。準備にそれほど時間はかからなかった。その間にも地面の下を流れる魔力は少しずつ強くなっている。森から村へ、青白い線が近づく。花の雫もそれに合わせて明滅を速める。急がなければならない。
「流すぞ!」ゲイルが紐を引いた。樽の栓が抜ける。冷たい雨水が溝を通って流れ始めた。壊れた窓の下へ集まり、診療所の床へ入っていく。最初は何も起きなかった。水が床板を濡らし、棚の脚へ広がる。隔離箱の周囲へ到達する。そして箱の底へ触れた瞬間、銀色の花が大きく震えた。花弁が一斉に閉じる。中心の雫が、森へ向けていた光を失った。
「効いた!」オリヴィアが叫ぶ。だがまだ早い。花は枯れていない。動きを止めただけ。茎がゆっくり箱の中へ戻ろうとしている。寒さから逃げている。瓶の水へ、根元へ、温度の高い場所へ戻ろうとしている。
俺はその動きを見て、あることに気づいた。花は低温を嫌っている。だが岩清水がある森の洞窟は冷たかった。常に外より気温が低い。なら月雫草そのものが寒さに弱いわけではない。今の状態だけ――芽生えた直後、人間の魔力を吸い、急速に成長した未成熟な花だけが温度変化に弱い。自然の中では何か別のものによって成長が制御されている。土。水。岩。あるいは近くに生えていた別の植物。俺たちは自然の条件を再現せず、水だけを持ち帰った。そのため、本来なら抑えられる成長が止まらなくなった。欠けているものがある。何だ。
月雫草の周囲。岩壁。苔。白い鉱石。冷たい空気。そして洞窟の奥から聞こえていた微かな水音。父の記録帳、あそこに月雫草の採取について書かれていた。『根元の白石を傷つけるな』父は何度もそう記していた。薬効が落ちるからだと思っていた。違う。白石が月雫草の成長を抑えているのかもしれない。魔力を吸収し、余分な魔力を逃がす鉱石。空石とは違う、自然に魔力を分散させる石。もしそうなら、花が人間から魔力を奪うことも、異常成長することも防げる。
白石。この村にあるか。洞窟から持ち帰ったものはない。父の古い採取箱、標本。記録のために小さな欠片を残している可能性がある。俺は物置を指差した。次に石。そして白い色を示す。「白い石?」バーバラが言った。俺は頷き、父の記録帳を書く仕草をする。「父さんの標本?」強く頷く。「物置にあるかもしれないのね」バーバラが走る。
俺は花を見続けた。雨水で冷やされたことで吸収の範囲は狭まっている。村人たちの魔力も今は引かれていない。だが地下の流れは止まっていない。森から近づく魔力、もう村の外れまで届いている。地面が僅かに光って見える。普通の人間には分からない。だが俺には土の下を走る青い線が見えた。井戸へ。水路へ。畑へ。枝分かれしながら広がっている。花が呼んだのか。森の何かが花を迎えに来ているのか。どちらにしても時間はない。
「ルーク!」バーバラが戻ってきた。手には古びた木箱、父の印が刻まれている。「これ?」蓋を開ける。中には小さな紙包みが幾つも並んでいた。乾燥した薬草。鉱石。粉末。それぞれに父の字で名前が書かれている。俺は震える指で包みを探した。『月雫草生育地・岩片』あった。バーバラが紙を開く。中から現れたのは白く濁った小石、親指の先ほどしかない。
俺は魔力を見る。ほとんど感じない。だが周囲の魔力が石へ触れると、吸収されるのではなく薄く広がって消えていく。分散。やはりこの石は魔力を散らす。花の中に集まった魔力を外へ穏やかに逃がせるかもしれない。問題はどうやって近づけるか。空石の失敗を繰り返してはならない。白石には魔力がほとんどない。花が餌として吸う可能性は低い。だが石を置くために近づく者が危険だ。長い板、今度もそれを使うしかない。
「俺がやる」ゲイルが言った。「花は弱ってる。さっきよりは近づけるはずだ」俺は首を横へ振った。弱っているように見えるだけ。白石に反応して再び魔力吸収を始める可能性がある。人が持ったまま近づけるのは危険。板の先へ石を固定し、離れた場所から診療所の壊れた窓へ入れる。「紐で落とすか」ゲイルがすぐに方法を考えた。「板の先に石を載せて、箱の上まで運ぶ」「そこで板を傾けて落とす」「人間は建物へ入らない」それなら危険を減らせる。
ただ白石を落とした衝撃で瓶が揺れる可能性がある。直接箱へ落とすのではなく、雨水が流れている床へ置く。箱の近く、だが触れない位置。石の効果が届くか確認する。俺は床を指差し、箱から少し離れた場所を示した。「箱の中じゃなく、まず床だな」ゲイルが頷く。
◇ ◇ ◇
白石を長い板の先へ載せる。左右へ転がらないよう布を輪にして固定する。雨水で濡れた地面へ板を滑らせる。壊れた窓から診療所の中へ、少しずつ白石が花へ近づく。銀色の葉が反応した。閉じていた花弁が僅かに開く。俺は身構えた。だが魔力を吸う光は出ない。逆に花の内部に集まっていた青い光が薄くなり始めた。白石へ向かうのではない。周囲へ細かく散っていく。
「効いてるのか?」ゲイルが声を落とす。俺は頷いた。もっと近く。だが急いではならない。石が近づくほど花の内部から魔力が抜けていく。銀色だった葉が徐々に白くなる。茎も力を失い、箱の縁へ垂れた。中心の青い雫が小さくなっていく。俺から奪った魔力、空石から吸った魔力、村人たちから集めた魔力、それらが白石によって害のない薄い魔力へ分散されている。
成功。そう思った瞬間、地面の下から強い振動が伝わった。花が勢いよく開く。青い雫が再び光を放った。白石の効果ではない。外から新しい魔力が流れ込んでいる。森から伸びていた地下の流れが、ついに診療所の下へ到達した。床板の隙間から青白い光が漏れる。雨水が内側から輝き始める。
「地面が光ってる……」オリヴィアの声が震えた。診療所だけではない。村の井戸、水路、家々の裏にある水桶――各所で同じ青い光が一斉に浮かび上がる。森の水脈が村全体へ広がった。
銀色の花は白石から逃れるように茎を持ち上げた。そして壊れた箱の外へ新しい糸を伸ばす。床へ。光る雨水へ。地下の水脈へ。つながろうとしている。糸の先端が水面へ触れる、その直前。白石が突然、強く輝いた。これまで魔力を持たなかったはずの石が乳白色の光を放つ。花の糸が動きを止める。地下の青い光も僅かに揺らいだ。
白石の内部に何かが現れた。細い線。父の印。いや、術式。自然の石ではない。父が何かを刻んでいた。白い光が線に沿って広がり、床を走る。花。瓶。水。すべてを囲うように円を描く。術式が完成した瞬間、診療所の中から父の声が聞こえた。
『これを見つけたなら』
『水を、森へ返せ』




