Ep183. 銀色の芽
土の中央から伸びた芽は、ほんの指先ほどの大きさだった。細い茎に、閉じたままの二枚の葉。どちらも淡い銀色を帯び、診療所の灯りを反射している。だが金属ではない。僅かに揺れている。呼吸するように、ゆっくりと、葉が開き、閉じていた。
「これ……」バーバラの声が震える。「植物なの?」
俺は答えられない。植物に見える。糸が土へ入り込み、その場所から芽が出た。これだけを見れば、種が発芽したようにしか見えない。だが、木皿へ入れた土は、診療所の裏から取ったばかりの乾いた土だ。薬草がほとんど育たない場所。種が混ざっていた可能性はある。しかし、数時間で木皿の底を破り、すぐに芽を出す植物など、俺は知らない。まして、瓶の中から伸びた糸と完全につながっている。銀色の芽の内部には、糸から運ばれた魔力が流れ込んでいた。青白い糸、木皿の底、乾いた土、そして銀色の芽。すべてが一つの魔力経路でつながっている。別の植物が偶然生えたわけではない。糸そのものが、土へ触れたことで形を変えた。そう考えるべきだ。
「触らない方がいいわよね」
俺は強く頷いた。当然だ。芽へ直接触れるなど論外。箱も開けない。今は観察するしかない。
「さっき、木が割れる音がしたの」バーバラが硝子窓を見つめたまま言う。「夜中に確認しに来た時は、まだ芽はなかったわ。でも、糸は木皿の底まで届いていて、私が見ている前で、底へ細い亀裂が入ったの」
その時の音で、俺は目を覚ましたのだろう。
「それから、糸が土へ入って、すぐに、これが出てきた」
発芽までほとんど時間がかかっていない。生命の成長としては異常だ。だが、魔力で成長を促進させる植物は存在する。魔力草、火照り花、月雫草。どれも通常の植物とは異なる速度で成長することがある。特に魔力の濃い場所では、一晩で葉を増やす種類もある。この芽が魔力植物なら、異常な速さにも説明はつく。問題は、何の植物なのか。そして、なぜ岩清水の中から生まれたのか。
俺は銀色の芽へ意識を集中した。魔力の流れは弱い。だが安定している。糸が水中から集めた魔力を、芽へ送り続けている。瓶底の青い砂は、昨日より減っていた。いや、砂そのものが減ったのではない。粒が互いにつながり、太い塊へ変わっている。糸の根元は、その塊から伸びている。
種。俺の頭に、その言葉が浮かんだ。青い砂は、ただの沈殿物ではなかった。一粒ずつでは形を持たない。だが密閉された水の中で魔力を集め、互いに結びつき、一定量を超えると糸を伸ばす。そして土へ触れれば芽を出す。これは、種になるための欠片だったのかもしれない。あるいは、種そのものを作る材料。水の中に散らばった微細な粒が、条件を満たすことで一つの生命へ戻る。もしそうなら、父が瓶を揺らすたびに青い砂が消えたのは、砂がなくなったからではない。種になりかけた集合を、何度も崩していたからだ。俺たちは、父が一度も見られなかった続きを見ている。
その興奮と同時に、恐怖が込み上げた。この植物が安全だとは限らない。魔力を吸う。周囲を感知する。外へ向かって伸びる。もし根が箱の外へ出たら、診療所の床へ入り込み、村中の魔力を吸い始める可能性もある。人間から魔力を奪うかもしれない。俺はバーバラの手を引き、箱から離れた。
「もっと下がるの?」
頷く。今までより、さらに距離を取るべきだ。
「でも、観察しないと」
それも必要だ。なら、近づく時間を決める。常に箱の前へ立つ必要はない。一定の間隔で確認し、変化を記録する。俺は記録帳を指差し、次に壁の時計、そして指を二本立てた。
「二刻ごと?」
首を横へ振る。長すぎる。銀色の芽は数分で土から出た。次の変化も早い可能性がある。俺は指を一本立て、時計の目盛りを示した。
「一刻ごと?」
それでも長い。俺はさらに短い間隔を身振りで示す。
「半刻ごとね」
頷く。半刻、およそ三十分。それ以上短くすれば、俺たちは眠れない。交代で確認する必要がある。今夜はバーバラが次の確認、その次は俺。そう言いたかったが、俺が一人で診療所へ来ることを、バーバラが許すはずはない。
「ルークは寝ます」
やはり、先に言われた。
「私は起きています」
それは駄目だ。朝から診療もしている。今夜一晩起きれば、明日の判断を誤る。前世の俺なら、眠らず見張ることを当然だと考えただろう。研究者なら、患者の命が関わるなら、寝ている場合ではない。だが、疲労した頭で出す判断は正しいとは限らない。むしろ失敗を増やす。俺は首を横へ振り、外を指差した。
「誰かに来てもらう?」
頷く。ゲイル、もしくはオリヴィア。危険を理解し、勝手に箱を開けない者。
「でも、夜中よ」
確かに、今から呼びに行くには遅い。それでも村は小さい。ゲイルの家までは遠くない。緊急だと伝えれば、来てくれる可能性は高い。バーバラは少し迷ったあと、窓の外を見た。
「今から私が行くのは、あなたを一人にすることになるわね」
俺は頷いた。それは避けるべきだ。
「じゃあ、朝まで二人で起きて」
駄目だ。俺は強く首を横へ振った。
「でも」
別の方法。誰かを起こしに行かず、ここから知らせる。俺は机の上の小さな呼び鈴を指差した。患者が来た時、裏庭にいるバーバラを呼ぶための鈴だ。だが、ゲイルの家までは届かない。トム、オリヴィア。二人の家は診療所から近い。窓を開け、鈴を鳴らし続ければ、どちらかが気づくかもしれない。夜中に近所迷惑、そんなことを気にしている場合ではない。バーバラも理解したらしい。
「オリヴィアの家なら、裏の窓から見えるわ」
母は診療所を出ず、居間の窓を開けた。冷たい夜気が流れ込む。そして呼び鈴を強く鳴らした。ちりん、ちりん、ちりん。静かな夜の村へ甲高い音が響く。何度も、何度も。しばらくすると、向かいの家に灯りがついた。
「バーバラ?」窓が開き、オリヴィアの声がする。
「ごめんなさい。少し来てもらえる?」
「何かあったの?」
「瓶に新しい変化が起きました」
「今行く」
オリヴィアはそれ以上尋ねなかった。すぐに衣服を整え、診療所へ来た。
「どうなったの?」
バーバラは、オリヴィアを診療所の扉より先へ入れず、硝子窓から見える銀色の芽を示した。
「土から芽が出ました」
「芽?」オリヴィアが目を見開く。「瓶の中にあったものが?」
「たぶん」
「危ない?」
「まだ分かりません。だから、朝まで交代で見張りたいの」
「分かった」返事が早い。
「でも、箱は絶対に開けないで」
「触らない。近づきすぎない。変化があったら起こす」
オリヴィアは昨日までの説明を覚えていた。
「私が先に見てるよ。バーバラは少し寝て」
「でも」
「ルークも寝かせないと駄目でしょ」
バーバラは俺を見る。その通りだ。
「半刻ごとに記録すればいいの?」
俺は頷いた。
「大きさと、色と、形」オリヴィアが確認する。俺はさらに箱の周囲を指差した。
「箱から何か出ていないかも見る?」
頷く。
「変な匂いとか、音も」
それも必要だ。俺は親指を立てた。
「分かった。ちゃんと見る」
任せられる。そう判断した瞬間、少しだけ肩の力が抜けた。俺とバーバラは寝室へ戻った。眠れるとは思えなかった。だが目を閉じるだけでも、身体は休まる。前世の俺は、他人が観察した記録を信用しなかった。自分の目で見なければ何も認めなかった。他人は見落とす。誤解する。嘘をつく。そう思っていた。確かに、他人の記録には誤りがある。だが、自分の観察だけが絶対に正しいわけでもない。今朝、俺は糸の中を流れる魔力の方向を見誤った。一人でも間違える。なら必要なのは、誰も信用しないことではない。記録を残し、互いの観察を比べ、間違いを見つけること。俺はいつの間にか眠っていた。
◇ ◇ ◇
次に目を覚ました時、外はまだ暗かった。バーバラが隣にいない。診療所の方から小さな話し声が聞こえる。俺は寝台を降りた。廊下を進み、診療所の扉から中を覗く。バーバラとオリヴィアが隔離箱の前に立っていた。その背中が動かない。嫌な感覚がした。俺は二人の間へ入り、硝子窓を覗いた。
銀色の芽は大きくなっていた。指先ほどだった茎が、今は掌ほどの高さまで伸びている。二枚だった葉は六枚に増えていた。細長い銀色の葉、中央には丸い蕾のようなものがある。
「一刻も経ってないの」オリヴィアが小声で言う。「最初は、少し背が伸びただけだった。でも、バーバラを起こしに行って戻ったら、もう葉が増えていた」
成長が加速している。土へ入ったことで、水中だけでは足りなかった成分を得た。あるいは、芽を出したことで魔力を吸収する力が強くなった。俺は内部の魔力を見た。糸から芽へ流れる魔力、それだけではない。箱の外にある魔力が、微かに硝子窓の隙間へ引き寄せられている。まだ弱い。俺以外には感じられないほど。だが確実に、部屋の魔力を吸っている。隔離箱は物理的には閉じている。しかし魔力まで遮断できるわけではない。このまま成長すれば、さらに遠くから魔力を集め始める。人間の魔力も。
俺は二人を箱から離すよう押した。
「どうしたの?」
俺は胸を指差し、次に銀色の芽へ向けて何かを引き抜く仕草をした。
「私たちの魔力を吸ってるの?」バーバラの顔色が変わる。
俺は、まだ、と示すため指を僅かに開いた。
「少しだけ?」
頷く。今は危険な量ではない。だが成長速度を見れば、すぐに増える可能性がある。
「どうすれば止められる?」
魔力を遮断する。前世なら魔力封鎖の術式を使えた。対象の周囲へ魔力を通さない結界を張る。だが今の身体で術式を完成させるのは難しい。それに、強い魔力を使えば、この芽を刺激する可能性がある。魔力を吸うものへ魔力で作った壁を置けば、壁そのものを餌にされるかもしれない。物理的に、魔力の少ない場所へ移す。だが箱を動かせば中で何が起きるか分からない。診療所の外、地下、石造りの倉庫。この村には完全に魔力を遮断できる場所はない。
俺は考える。芽が吸っているのは周囲へ散った魔力。なら別の場所へ引き寄せる。囮。人間よりも芽にとって吸収しやすい魔力源を箱の中へ置く。だが、さらに成長させるだけかもしれない。目的は成長を止めること。糸は冷やした時、動きが遅くなった。低温、魔力が少ない環境。この二つを組み合わせれば活動を抑えられる可能性がある。だが箱の上へ濡れた布を置く程度では足りない。部屋全体を冷やす。今は夜。外気は冷たい。窓と扉を開ければ診療所の温度を下げられる。
俺は窓を指差し、大きく開ける仕草をした。
「部屋を冷やす?」
頷く。
「でも、外の魔力が入るんじゃない?」オリヴィアが言う。
その可能性がある。村の外気にも魔力は含まれている。ただ、人が暮らす室内には人間、薬草、治療用の魔石など、魔力を含むものが多い。診療所の空気は外より魔力が濃い。窓を開けて換気すれば、温度と魔力濃度の両方を下げられる。
俺は薬棚を指差した。
「魔力のある薬も、外へ出す?」
頷く。ただし、すべてを移動させる時間はない。強い魔力を含むものだけ。月雫草、回復薬、治療用の魔石。箱から遠い部屋へ移す。バーバラとオリヴィアがすぐに動いた。診療所の窓を開ける。夜の冷たい風が入り込む。棚から魔力の強い薬を取り出し、居間の奥へ運ぶ。灯りも魔石灯から普通の油灯へ変えた。魔力が薄れていく。
俺は銀色の芽を見続けた。葉の動きが徐々に遅くなる。蕾のような部分に集まっていた光も弱くなった。
「効いてる?」バーバラが尋ねる。
俺は頷いた。成長が止まったわけではない。だが吸収する力は弱まっている。
「このまま朝まで冷やす?」
それしかない。今は時間を稼ぐ。朝になればゲイルを呼べる。父の研究帳ももう一度調べられる。銀色の芽に似た記録が、どこかに残されているかもしれない。
「ルーク」オリヴィアが硝子窓を指差した。「蕾が動いた」
俺は箱へ目を向ける。丸い蕾、銀色の葉に包まれたそれが、ゆっくりと開き始めていた。寒さで成長は遅くなったはず。それでも止まらない。一枚、また一枚、細い銀色の花弁が外へ広がっていく。
花の中心にあったのは雄しべでも雌しべでもなかった。透明な雫、水滴のような丸い一粒。その内部に青い光が揺れている。見覚えがあった。岩壁に生える月雫草。夜明け前、その花の中心にだけ現れる、魔力を含んだ雫。形も光も同じだった。
銀色の芽から咲いた花は、月雫草に似ている。いや、似ているのではない。これは、月雫草になる前のもの。水の中で生まれ、土へ触れ、花へ変わる。俺たちが薬として使ってきた月雫草は、ただ岩清水を吸って育つ植物ではなかった。岩清水そのものから生まれていた。
そう思った瞬間、花の中心に浮かぶ雫が大きく震えた。青い光が弾け、隔離箱の内側へ細い光の筋が走る。それは一瞬で箱を満たし、次に硝子窓へ向かって伸びた。俺の胸の奥で何かが強く引かれた。魔力、俺の中にある魔力が、花の雫へ向かって一気に吸い出されようとしていた。




