Ep182. 亀裂の向こう側
糸は、迷っていなかった。瓶の中に残された空気を通り、まっすぐ木栓へ伸びている。その先にあるのは、帰り道の衝撃で生じた蜜蝋の亀裂。上から新しい蜜蝋を重ね、塞いだはずの場所だ。見た目には、もう割れ目など残っていない。だが、表面が塞がれただけで、蜜蝋の内部には古い亀裂が残っている。空気さえ通れないほどの細い隙間。それを、糸は正確に見つけた。
「どうして……」バーバラが硝子窓の向こうを見つめる。「どうして、あの場所が分かるの?」
俺にも答えは分からない。可能性はいくつかある。亀裂から僅かに伝わる外気の温度。湿度。あるいは、瓶の外に漂う魔力。内部と外部の差を感じ取り、最も外へ近い場所を選んでいる。植物の根も、水や養分のある方向へ伸びる。そこに人間と同じ意思があるわけではない。だが、周囲の状態を感知し、成長する方向を変えることはできる。この糸も同じなのかもしれない。少なくとも、ただ偶然に栓へ向かっているのではない。外へ出るために、亀裂を選んでいる。
「止められる?」バーバラが尋ねた。
俺はすぐには頷けなかった。瓶を開けず、動かさず、中の糸だけを止める方法。今の俺たちは持っていない。外側から亀裂の上へ蜜蝋を重ねることはできる。だが、そのためには隔離箱を開け、瓶へ手を近づけなければならない。糸の先端と蜜蝋の距離は、もう指一本分も残っていない。作業の途中で外へ出るかもしれない。何もしなければ、確実に亀裂へ到達する。手を加えれば、振動や魔力の変化で予想外の反応が起きる可能性がある。判断するには情報が足りない。だが、何もしないという判断にも、結果は伴う。糸が外へ出れば、危険を受けるのは俺たちだけではない。この診療所。家。村。未知のものを、自由に外へ出してはならない。
俺は箱の中を見回した。隔離箱と瓶の間には、空間がある。仮に亀裂を抜けても、すぐ部屋へ広がるわけではない。だが、箱の内側へ伸び始めれば、いずれ木の隙間や硝子窓の縁へ到達する。閉じ込めるだけでは足りない。外へ出た先で、糸の進行方向を変える必要がある。
俺は裏庭を指差し、次に掌を広げた。
「土?」バーバラが首を傾げる。俺は頷き、瓶の上を示した。「栓の上に土を置くの?」
そうだ。植物に近い性質なら、外気より土へ向かうかもしれない。糸が魔力を求めているなら、土に含まれる僅かな魔力へ引き寄せられる可能性もある。箱の外へ自由に伸びさせるよりはいい。
「でも、土を置くには箱を開けないといけないわ」
俺は頷いた。危険はある。だからこそ、手順を決めなければならない。箱を開ける者は一人。瓶には触れない。土を入れた小さな器を長い板へ載せ、箱の外から滑らせる。栓の真上へ置き、異変が起きたらすぐ板を引く。俺は身振りで説明した。バーバラは一つずつ確認する。
「小さな皿に土を入れる」「長い板へ載せる」「蓋を少しだけ開けて、瓶に触れないよう上へ置く」
俺は頷いた。
「分かったわ。でも、私一人ではしない」
正しい。箱の蓋を上げながら板を操作するのは難しい。俺には蓋を支える力がない。ゲイルを呼ぶ必要がある。箱の構造を知り、慎重に作業できる者。今のところ、他に適任はいない。
バーバラは診療所の外にいたオリヴィアを呼んだ。
「ゲイルさんを呼んできてくれる?」
「何かあったの?」
「糸が栓へ向かって伸びています。早く来てほしいと伝えて」
オリヴィアの表情が変わった。「分かった。すぐ呼んでくる」
「急いで。でも走って転ばないでね」
「分かってる」
そう答えた直後、遠ざかっていく足音は明らかに走っていた。
ゲイルを待つ間も、糸は伸び続けている。青白い先端が蜜蝋へ触れた。その瞬間、糸の内部を流れていた魔力が先端へ集中した。淡かった光が、一瞬だけ強くなる。糸は蜜蝋の表面へ先端を押し当てていた。その場所が、ゆっくり青く染まり始める。
「ルーク」バーバラも気づいた。「あそこ、色が変わってる」
俺は頷く。糸が蜜蝋へ魔力を移している。あるいは、蜜蝋の中へ自分の一部を入り込ませようとしている。このままでは、ゲイルが到着する前に亀裂へ達する。何か、今すぐできること。俺は必死に考えた。蜜蝋は温めれば柔らかくなる。逆に、冷やせば固くなる。糸が押し広げようとしているなら、外側の温度を下げれば進行を遅らせられるかもしれない。だが、瓶を急激に冷やすのは危険だ。硝子に温度差が生じれば、割れる可能性がある。瓶へ直接触れず、周囲の温度だけを少し下げる。
俺は水桶と布を指差し、次に箱の蓋を示した。
「冷たい布を、箱の上に置く?」
頷く。
「瓶には触れないように?」
もう一度頷いた。バーバラは布を水へ浸し、固く絞った。そして隔離箱の蓋の上へ、静かに広げる。すぐに効果が出るとは限らない。俺たちは硝子窓を覗いたまま待った。しばらくすると、糸の先端に集まっていた光が僅かに弱くなった。青く変色する範囲も広がらなくなる。
「止まった?」
完全には止まっていない。だが、進み方は遅くなっている。俺は小さく頷いた。
「効いてるのね」バーバラが息を吐く。
温度に反応する。重要な情報だ。しかし、冷却だけでは永遠に止められない。布はすぐ温まる。箱の上からでは、蜜蝋そのものを十分に冷やせない。時間を稼げるだけだ。それでも、今は、その時間が必要だった。
ほどなくして、ゲイルが到着した。後ろからオリヴィアも戻ってくる。
「どうなった?」
「瓶の中の糸が、栓の亀裂へ向かっています」バーバラが簡潔に説明する。「その上へ土を置いて、進む方向を変えたいんです」
「土を?」
「理由は、まだ分かりません。でも、ルークは土へ反応する可能性があると考えています」
ゲイルは俺を見る。「確信はあるのか?」
俺は首を横へ振った。ない。ただの仮説だ。
ゲイルは一度箱を見てから頷いた。「分かった。確信がないなら、失敗した時にすぐ戻せるようにしよう」
彼は小さな木皿と、細長い板を用意した。「土はどこのものを使う?」
考える。畑の土。薬草園の土。森の土。含まれる魔力も成分も違う。魔力が多い土ほど強く引き寄せられるかもしれない。だが、それが餌になり、一気に成長する危険もある。最初は、魔力の少ない土を使うべきだ。反応を確かめるだけなら、強い刺激は必要ない。
俺は診療所の裏を指差した。薬草が育たない、乾いた砂混じりの土がある。俺が何度確認しても、魔力はほとんど感じられなかった場所だ。
「裏の乾いた土ね」バーバラが理解した。
オリヴィアが取りに行き、木皿へ薄く敷いた。土を多く入れれば、板を動かす際にこぼれる危険が増える。底が隠れる程度でいい。
「俺が蓋を持ち上げる」ゲイルが言った。「バーバラは板を動かしてくれ。オリヴィアは後ろから蓋が傾かないよう見ていてくれ」
「ルークは?」
「離れていろ」
当然だ。だが、俺には中の魔力を確認する役目がある。俺は診療所の扉の陰まで下がり、そこから硝子窓を見た。
「始めるぞ」ゲイルが隔離箱の蓋へ手をかける。ゆっくり。振動を与えないよう、ほんの僅かに持ち上げる。冷たい布がずれないよう、オリヴィアが支えた。隙間ができる。バーバラは木皿を載せた板を差し込んだ。瓶の側面へ触れないよう慎重に進める。木皿が栓へ近づいた。
その瞬間。糸の先端が動いた。亀裂へ押し当てられていた先が、僅かに上を向く。木皿の土へ反応した。俺は両手を前へ出し、もっと進めるよう合図した。バーバラが板を押す。木皿が栓の真上へ収まる。
「ここ?」
俺は頷いた。板だけを、ゆっくり引き抜く。木皿は箱の内側に設けられた細い支えへ載った。ゲイルが蓋を閉じる。作業は成功した。瓶は揺れていない。土もこぼれていない。
俺はすぐ硝子窓へ近づいた。糸の先端は、明らかに方向を変えていた。亀裂から離れ、木皿の底へ向かっている。
「どうだ?」ゲイルが尋ねる。
俺は強く頷いた。
「土の方へ行ったの?」バーバラにも頷く。
「本当に土が分かるのね」オリヴィアが息を呑んだ。
糸は、ただ外へ出ようとしているのではない。何かを求めている。土そのものか。土に含まれる微かな魔力か。あるいは、水の中には存在しない成分。
「これで安心なのか?」ゲイルの問いに、俺は首を横へ振った。進路を変えただけだ。危険がなくなったわけではない。むしろ、土に反応したことで、この糸が生命に近い性質を持つ可能性はさらに高くなった。
「まだ危ないのね」バーバラが言う。「でも、少なくとも、すぐに外へ出るのは防げたと思います」
「土へ届いた後、どうなる?」
「分かりません」
「なら、観察を続けるしかないな」ゲイルは硝子窓へ視線を向けた。「何か起きたら、すぐ呼んでくれ。夜でもいい」
「ありがとうございます」
「村に関わることだからな」
秘密を守ると言いながら、無関係な顔をしない。この男へ頼ったのは正しかった。前世の俺なら、他人を関わらせた時点で研究を奪われる危険ばかり考えただろう。だが、危険を分け合うことと、成果を奪われることは違う。助けを借りなければ、守れないものもある。
ゲイルが帰ったあと、バーバラは記録帳を開いた。
『三日目、夕刻』 『糸状部は水面を越え、封止部へ向かって伸長』 『過去に亀裂が生じた位置を正確に選んでいる』 『箱上部を冷却したところ、伸長速度が低下』 『栓の上方へ乾燥土を置くと、糸状部の進路が土へ変化』 『引き続き開封せず観察する』
得られた情報は多い。温度へ反応する。外へつながる場所を感知する。土へ引き寄せられる。魔力を集めながら成長する。鉱物や結晶だけでは説明しにくい。やはり、生きているのか。もし生物なら、どこから来た。岩清水の中に、最初から存在していたのか。目に見えないほど小さな状態で眠っていた。密閉され、魔力が逃げなくなったことで成長を始めた。そう考えるのが自然だ。父の瓶で糸が生まれなかったのは、密閉が不完全だったからかもしれない。あるいは、父は青い砂が現れるたび、瓶を揺らしていた。砂を散らすことで、成長し始めた構造を壊していた可能性もある。今回は条件が揃った。完全に近い密閉。豊富な魔力。動かされない水。俺たちは岩清水を保存しようとして、その中で眠っていた何かを、目覚めさせたのかもしれない。
「ルーク」バーバラが静かに呼ぶ。「この水を持ち帰ったのは、間違いだったと思う?」
俺はすぐには答えられなかった。危険なものを森の外へ運んだ。結果だけを見れば、間違いだったと言える。だが、持ち帰らなければ、この存在を知らないままだった。月雫草がなぜあの場所にしか育たないのか。なぜ魔力を長く保てるのか。その答えへ近づくこともできなかった。研究には危険が伴う。だからといって、危険を生じさせないことだけが正しさではない。重要なのは、起きた危険から逃げず、責任を持って対処すること。
俺は首を横へ振った。
「間違いではない?」
頷く。そして記録帳を指差した。続ける。慎重に。
バーバラは少しだけ笑った。「そうね。怖くなって瓶を捨てたら、何も分からないままだものね」
捨てることも簡単ではない。森へ戻す途中で割れるかもしれない。処理しようとして、糸を外へ出すかもしれない。安全に処分するためにも、性質を知る必要がある。調べるしかない。
◇ ◇ ◇
その日の夜、寝る前に、俺たちはもう一度箱の中を確認した。糸は亀裂へ向かうのを完全にやめていた。先端は、木栓から離れ、その上に置かれた木皿へ向かっている。まだ土には触れていない。木皿の薄い底板が間にある。それでも、糸は土のある位置を正確に目指していた。
「木の向こう側なのに、分かるのね」バーバラが呟く。
匂いではない。魔力だ。乾いた土に含まれる、俺にはほとんど感じ取れないほど僅かな魔力。糸にとっては、それで十分なのかもしれない。だとすれば、土へ触れた後、さらに成長する可能性がある。閉じ込めるために置いた土が、餌になる。そこまで考えた時、俺は自分の判断の甘さに気づいた。だが、今さら木皿を取り除くのも危険だ。進路を再び亀裂へ戻すことになる。なら、土へ触れた時に何が起きるか、観察する。
俺たちは寝室へ戻った。夜中に一度、バーバラが確認する。変化があれば俺を起こす。そう決めた。
◇ ◇ ◇
しかし、その夜、俺を起こしたのは母の声ではなかった。
ぱき。
小さな音。薄い木が、内側から割れる音。俺は目を開けた。隣にバーバラはいない。診療所の方から灯りが漏れている。寝台を降り、ふらつく足で廊下へ出た。
診療所では、バーバラが隔離箱の前に立っていた。その顔は青ざめている。
「ルーク……」母が硝子窓を指差す。
糸は木皿の底を貫いていた。細い先端が土へ入り込んでいる。そして、乾いていたはずの土の中央から、小さな銀色の芽が、顔を出していた。




