Ep181. 水の中で芽吹くもの
瓶底に沈んだ青い砂から、一本の糸が伸びていた。青白く、細い。髪の毛よりも僅かに太い程度のそれは、水の中を上へ向かって伸び、途中で幾つにも枝分かれしている。土の中へ広がる植物の根のようにも見えるが、根なら本来は下へ伸びるものだ。瓶底から水面へ向かうこれは、根というよりも、光を求めて伸びる芽に近いのかもしれない。
「昨日は、なかったわよね」
バーバラが、瓶へ触れないよう距離を保ったまま言った。俺は頷く。昨日の夕方に確認した時、瓶底にあったのは青い砂だけだった。砂は一か所へ集まり、淡い光を帯びていた。だが、糸はなかった。夜の間に生まれたのだ。正確な時刻は分からない。
前世の俺なら、変化の瞬間を見逃したことに苛立っていただろう。なぜ眠った、なぜ一晩中見張らなかったと、一度しか得られない観察の機会を自分の都合で失ったことを悔い、次からは眠らずに実験を見張ったはずだ。だが今の俺は、一晩眠らなければまともに動くこともできない身体だ。それに、観察できなかった時間があるなら、次の実験で確認すればいい。一度ですべてを知る必要はない。失敗したなら記録し、次へつなげる。それを父の研究帳から学んだ。
「まず、書いておきましょう」
バーバラは机へ記録帳を広げ、『三日目、早朝。瓶底の青い砂より、青白い糸状のものが伸びている。糸は上方へ伸長、複数に枝分かれしている。瓶は未開封、夜間も移動させていない』と書き、そこで筆を止めた。
「糸状のもの、でいいのかしら」
今は、それ以上の名前を与えない方がいい。根に見えるからといって根とは限らない。菌糸か、結晶か、鉱物が成長したものか、あるいは未知の生物か。見た目だけで正体を決めれば、その後の考察まで誤る。
俺は瓶底へ意識を集中した。青い砂の中に、昨日よりも濃い魔力が集まっている。そこから細い魔力の筋が伸び、青白い糸の内部を通り、枝分かれした先端まで途切れずにつながっていた。糸の中に道がある。魔力を運ぶための道だ。人間の魔力回路とよく似ている。前世で何度も見た光景だった。体内に取り込まれた魔力は無秩序に広がるわけではなく、血管とは別に存在する魔力経路を通り、必要な場所へ運ばれる。その経路に損傷が起きれば魔力は滞留し、逆流し、周囲の組織へ漏れ出す。最悪の場合、身体の内側から患者を壊す。瓶の中の糸は、それと似た役割を持っているように見えた。ただ集まった魔力ではない。流れを作る構造だ。
「ルーク」
バーバラが俺の顔を覗き込んだ。「魔力が見えるの?」
俺は頷き、瓶底から糸に沿って指を上へ動かす。
「下から、上へ流れている?」
もう一度頷いた。少なくとも、そう見えた。青い砂から糸の中へ魔力が入り、枝分かれした先へ進んでいる。
「まるで、月雫草の根みたいね」
バーバラの言葉に、俺は瓶へ視線を戻した。月雫草。あの花の根にも、青白い筋が通っていた。岩壁に張りつき、染み出す水を吸い上げる細い根。採取した月雫草を調べた時、俺は根から茎へ向かって流れる魔力を確認している。形だけではない、魔力の通り方まで似ている。偶然とは考えにくい。だが、この瓶に月雫草の根は入っていない。採水した時、瓶の口は岩壁から落ちる雫だけを受けていたし、周囲に生えていた月雫草へ触れないよう、バーバラも慎重に採取した。なら、この糸が月雫草から混入した可能性は低い。
逆かもしれない。月雫草がこの水に含まれるものを取り込み、自らの根へ利用している。水の中に、魔力を運ぶための微細な構造が存在し、それを月雫草が吸収して自分の魔力経路へ組み込んでいる。そう考えれば、月雫草が採取後も長く魔力を保つ理由を説明できる。薬にした時、患者の体内へ魔力を効率よく運ぶ理由も。月雫草の薬効は、単純に魔力を多く含んでいるからではなく、魔力を運ぶ仕組みそのものを含んでいる可能性がある。
俺は、興奮しかけた思考を止めた。仮説が正しければ薬効を高める方法へ近づける。だが同時に、危険もある。この糸状のものを、人間が直接取り込んだらどうなる。人間の魔力経路を補助するかもしれない。損傷した経路をつなぐ可能性さえある。だが、体内で勝手に枝を伸ばしたら。本来存在しない道を作り、魔力の流れを変えてしまったら。治療どころではない、血管へ異物が詰まるより危険だ。魔力経路は肉眼では見えず、異常が起きても外から簡単には確認できない。月雫草という植物を通すことで、初めて人間が利用できる安全な形へ変化しているのかもしれない。岩清水や青い砂を、直接薬へ使ってはならない。
俺は瓶から一歩下がった。
「危険なの?」
俺は少し迷い、頷いた。危険だと確定したわけではない。だが、安全だと考えられる材料は何もない。
「開けない方がいい?」 頷く。「動かすのも?」 さらに強く頷いた。
父の記録では、瓶底へ集まった青い砂は、瓶を揺らすと消えた。正確には消えたのではなく、水中へ散ったのだろう。今の瓶では砂から糸が伸びている。揺らせば糸が千切れ、水全体へ散るかもしれない。細かく分かれた糸が、それぞれ別の場所から成長を始める可能性もある。
バーバラは記録帳へ『糸状部の内部に、魔力の流れがあるとルークが示す。安全性不明のため、開封および移動を禁止』と追記した。
「トムとオリヴィアにも、近づかないよう話しましょう」
それがいい。昨日は触らないことを条件に二人にも瓶を見せたが、今は机へ手をつく程度の振動さえ避けたい。バーバラは瓶の置かれた棚の周囲へ椅子を並べ、誤って誰かが近づかないための簡単な囲いを作った。さらに紙へ大きく『危険の可能性あり、近づかないこと』と書き、目立つ位置へ貼る。だが、これだけでは足りない。診療所には患者が来る、子どもも来る、文字を読めない者もいる。本来なら瓶を別の部屋へ移すべきだが、動かす方が危険なら、瓶を残したまま人の流れを変えるしかない。
俺は入口を指差し、両腕を交差させた。
「今日は診療所を閉めるの?」 頷く。バーバラは困ったように眉を下げた。「でも、急な患者さんが来たら……」
それも分かる。この村に医者はいない。簡単な治療や薬の処方は、ほとんどバーバラが担っている。一日閉めただけでも、困る者が出るかもしれない。俺は入口の外を指差し、診察に使う椅子を示した。
「外で診る?」 頷く。軽い症状なら診療所の前で対応できる。重い患者だけ瓶から離れた奥の部屋へ通せば、少なくとも誰もが自由に診療所へ入れる状態は避けられる。
「そうね。今日は天気もいいし、それならできそう」
話がまとまった直後、扉を叩く音がした。
「おはよう!」
トムの声。いつもなら返事を待たずに入ってくるが、今日は扉の前で止まっている。昨日、勝手に入らないよう言われたことを覚えていたらしい。バーバラは扉を少しだけ開いた。隙間の向こうにトム、その後ろにはオリヴィアもいる。
「今日は中へ入らないで」
「何かあったの?」 オリヴィアがすぐに尋ねた。
「青い砂に、また変化があったの」
「どうなった?」 トムが身を乗り出す。
「近づいてはいけません」 バーバラは、いつもより強い声で止めた。トムは一歩下がる。
「危ないの?」
「まだ分かりません。でも、何が起こるか分からないものへ、むやみに近づいてはいけないの」
「爆発する?」
「爆発するとは決まっていません」
「じゃあ見るだけなら――」
「駄目です」
バーバラが即座に言うと、トムは口を閉じた。不満そうではあるが、勝手に入ろうとはしない。俺は扉の隙間からトムへ首を横に振ってみせた。
「ルークも近づかないのか?」 頷く。「じゃあ、俺もやめる」
トムは素直に引いた。昨日、分からないことへ勝手に触れてはいけないと説明した。すぐには理解していないように見えたが、無駄ではなかったらしい。
「外で手伝えることはある?」 オリヴィアが尋ねる。
バーバラは少し考えた。「診療所の前へ、椅子と小さな机を出してくれる? 今日は外で患者さんを診ます」
二人は詳しい事情を聞かず、すぐに動いた。分からなくても、必要だと言われたことを受け入れる。それも信頼なのだろう。前世の俺は、説明できないなら従う価値はないと考えていた。他人の判断を信用せず、自分がすべてを把握しなければ気が済まなかった。だが、すべてを知ることなどできない。誰かへ任せなければ、できないこともある。
◇ ◇ ◇
午前中、俺とバーバラは一定の間隔で瓶を観察した。青白い糸は、ゆっくりだが確実に伸びている。朝は瓶底から指一本分ほどだったが、昼前には水の高さの三分の一まで届いていた。枝分かれも増えている。太い糸から細い枝が生まれ、さらにその先から、もっと細い糸が広がる。瓶の中に、逆さまの木が育っているようだった。
俺は魔力の流れを追った。最初は、青い砂から先端へ向かって流れていると思っていた。だが違う。先端の周囲にある微かな魔力が糸の中へ吸い込まれ、枝から太い糸へ、太い糸から瓶底の青い砂へと、流れは下へ向かっていた。見誤っていたのだ。糸は青い砂から魔力を運び出しているのではなく、水中に残る魔力を集め、成長するために青い砂へ運んでいる。
その考えが浮かんだ瞬間、背中に冷たいものが走った。成長する。集める。自ら糸を伸ばす。まるで生きている。鉱物の結晶も一定の規則に従って成長し、周囲の成分を取り込んで枝のような形になることもあるから、形だけで生命とは言えない。だが、魔力の濃い場所を選び、そこへ先端を伸ばしているなら、周囲を感知していることになる。
俺はバーバラの袖を引いた。
「どうしたの?」
糸の先端を指差し、指を中心へ集める。
「先から、何か集めている?」 頷く。「魔力を?」 もう一度頷いた。
バーバラは瓶を見つめた。「成長するために、魔力を吸っているのかしら」
分からない。だが、その可能性は高い。もし水中の魔力をすべて集め終えたら、どうなる。成長が止まるのか、別の形へ変わるのか、それとも次の魔力を求めるのか。糸は上へ、水面へ伸びている。さらにその先には、瓶の中に残された空気と木栓がある。水面へ届いた後も伸び続けるなら栓へ到達し、蜜蝋の隙間へ入り込むかもしれない。外へ出るかもしれない。
「ルーク?」
俺は水面を指差し、次に瓶の外へ向かって指を動かした。
「外へ出るかもしれないの?」 頷く。バーバラの顔が強張った。「どうすればいい?」
動かせない。開けられない。揺らせない。なら、瓶そのものへ触れず、周囲を隔離するしかない。俺は棚と板を順番に指差し、四方を囲う仕草をした。
「瓶を動かさずに、周りを箱で囲む?」 頷く。「でも、私たちだけで作れるかしら」
難しい。板を切り、棚の上で瓶へ振動を与えず組み立てる技術は、俺にもバーバラにもない。誰かへ頼る必要がある。思い浮かんだのは、村の木工職人ゲイルだった。薬棚を直したこともあるし、父が使っていた木箱を修理したのも彼だ。バーバラが信頼している人物でもある。
だが、他人を研究へ関わらせれば秘密が広がる。青い砂、岩清水、月雫草。価値を知れば、利用しようとする者が現れるかもしれない。前世では、研究内容を知った者が成果を奪おうとしたこともあった。だから俺は誰にも見せなくなり、誰にも頼らなくなった。その結果、一人で行った実験の事故で死んだ。助けを求めなかったことが、俺を守ったわけではない。
俺は、ゆっくり頷いた。
「ゲイルさんを呼んでもいいのね?」 もう一度頷く。「必要なことだけ話します。中身については、詳しく言わないわ」
それでいい。未知の変化が起きた瓶を、動かさずに囲いたい。今はそれだけ伝えれば十分だ。バーバラは外にいたトムへ、ゲイルを呼んでくるよう頼んだ。
「急いで。でも走って転ばないでね」
「分かってる!」
遠ざかる足音は、どう聞いても走っていた。
◇ ◇ ◇
ゲイルが来るまでの間にも、糸は伸び続けた。水面まで、もう半分もない。昼を少し過ぎた頃、ゲイルが診療所へ来た。大柄な男で、太い腕に使い込まれた道具袋を下げている。
「トムから聞いた。動かせない瓶を、棚の上で囲いたいんだって?」
「ええ。中で性質の分からない変化が起きています。瓶へ触れず、振動もなるべく与えない方法で囲いたいんです」
ゲイルは勝手に中へ入らず、「どこまで近づいていい?」と最初に尋ねた。バーバラが安全だと思われる位置を示すと、ゲイルはそこから棚と瓶を観察した。
「棚へ釘を打てば振動が伝わる。外で箱を組んで、上から被せる方がいいな。底は作らない、棚が底代わりだ。四方と上だけ囲う。箱の内側には隙間を残して、何かあっても瓶へ直接触れないようにする」
俺たちの考えより安全だった。ゲイルはすぐに寸法を測り始めた。作業は診療所の外で行う。板を切る音も、釘を打つ振動も、瓶から離れた場所で済ませる。俺とバーバラだけでは思いつかなかった方法が、次々に形になっていく。誰かへ任せる。それは自分の仕事を奪われることではない。自分にできない部分を、できる者へ託すことだ。
夕方前、ゲイルが完成した箱を運び込んだ。四方を厚い板で囲み、上には取り外せる蓋がある。正面だけ、小さな硝子板がはめ込まれていた。
「昔、薬草を乾かす箱に使った硝子だ。これなら開けずに中が見える」
観察を続けながら隔離できる。予想以上の出来だった。俺はゲイルを見上げた。前世なら、礼など言わなかった。依頼したものを作るのは当然で、対価を払えばそれで終わりだと考えていた。だが今は、この男が危険のある作業を引き受け、俺たちのために方法を考えたことが分かる。
「あ……あ、と……」
うまく言葉にならない。それでも、ゲイルは目を丸くしたあと、笑った。
「ありがとうってか?」 俺は頷く。「どういたしまして」
たったそれだけのやり取りなのに、胸の奥が少し温かくなった。
ゲイルとバーバラは、完成した箱を慎重に持ち上げ、棚や瓶へ触れないよう真上からゆっくり被せた。瓶は揺れなかった。箱と棚の僅かな隙間には、湿らせた布を詰める。完全な密閉ではないが、糸が外へ出たとしても、すぐ部屋へ広がるのは防げる。
作業を終えたゲイルは、硝子窓から瓶を見た。
「中のものについては、聞かない方がいいんだな?」
「今は、そうしてもらえると助かります」
「分かった」
それ以上、彼は尋ねなかった。
「ただし、村へ危険が広がる可能性があるなら、その時は話してくれ。秘密と危険は別だからな」
「ええ。必ず」
バーバラは真剣に頷いた。秘密を守る。だが、危険まで隠してはならない。その境界を間違えれば、前世と同じになる。
ゲイルが帰ったあと、俺たちは硝子越しに観察を続けた。糸は、水面のすぐ下まで届いている。
「今夜は、何度か確認した方がよさそうね」
俺はすぐに頷いた。
「ルークは寝るのよ」
考えを読まれた。不満だが、反論できない。この身体で夜通し起きていれば、明日はまともに動けない。
「寝る前と、夜中に一度。それから朝。何か変化があったら起こします」
それならいい。
◇ ◇ ◇
夕食後、俺とバーバラは、もう一度硝子窓を覗いた。糸の先端は、ついに水面へ触れていた。
その瞬間、瓶の中の魔力が大きく揺れた。俺は反射的に、バーバラの腕を掴む。
「何か起きたの?」
水面へ触れた糸の先が、花弁のように開いた。細い枝が広がり、水面に浮かぶ。そして、一本の青白い線が水の上へ伸びた。水中だけではない、空気の中でも成長できるのだ。
「ルーク……」
バーバラの声が震えた。糸はゆっくりと上へ伸びる。木栓へ向かって。だが、栓の中央ではない。僅かに横へずれた一点。帰り道の衝撃で蜜蝋に亀裂が生じ、上から新しい蜜蝋を重ねて塞いだ場所だ。見た目には分からない。俺たちでさえ、記録がなければ正確な位置を思い出せないほどの細い亀裂に、糸は迷わず向かっていた。
「どうして、あの場所が分かるの……?」
外気か、温度か、魔力か。何を感知しているのかは分からない。だが、ただ上へ伸びているわけではない。外へつながる場所を選んでいる。糸の先端へ、青い光が集まる。それはまるで、瓶の外にある何かを、すでに見つけているようだった。




