Ep179. 水の中の核
形のないものが、形を持ち始める。それは必ずしも、良い兆候とは限らない。
魔力は本来、流れるものだ。人の体内を、大地の下を、植物の茎を、細く途切れず巡り続ける。それが一か所へ集まる時、そこには必ず理由がある。制御された魔術式。魔石。生物の魔力器官。あるいは、流れを妨げる異常。
前世の俺は、集まった魔力を何度も見てきた。治癒魔術を使った傷口。魔力の淀んだ内臓。暴走寸前の魔術器具。同じように見えても、意味はまるで違う。だから、決めつけてはいけない。
◇ ◇ ◇
封をした瓶の中、岩清水に含まれていた魔力は、ゆっくりと中央へ集まり始めていた。目に見えるわけではない。水は相変わらず透明だ。濁りも沈殿もない。だが俺の感覚には、はっきりと分かる。散らばっていた魔力が細い糸のように引かれ、瓶の中央、やや底に近い場所へ集まっている。
なぜだ。瓶を封じたからか。時間が経ったからか。蜜蝋か、木栓か。それとも、帰り道で受けた衝撃が何かを変えたのか。確認するには比較が必要だ。俺は隣の瓶へ視線を移す。
二重の紐、開放した岩清水。こちらの魔力は薄い。すでに大半が失われている。残ったわずかな魔力は水の中へ均等に散らばったまま、集まってはいない。三重、小川の水。最初から見るべき魔力はない。
つまり、集まり始めているのは封をした岩清水だけ。封止が原因である可能性は高い。空気へ逃げられなくなった魔力が、水の中で別の状態へ変化している。圧縮、凝集、結晶化。可能性はいくつかある。
もし魔力が、水へ均等に溶けているだけではなく、一定の条件下で固まる性質を持つなら、保存方法はもっと慎重に考えなければならない。凝集した魔力が安定するのか、不安定になるのか。分からない。
前世、魔力を密閉容器へ封じ、圧力を高めた実験があった。治療用の魔力液を、少量でも強く効かせるための研究。結果は半分成功し、半分失敗した。魔力は確かに濃縮できた。だが容器を開けた瞬間、一気に流れ出し、助手の腕へ重い魔力損傷を与えた。
あの時、俺は助手を責めた。開け方が悪い。指示を守らなかった。未熟だから事故を起こした。そう言った。だが本当は、俺が容器の中で起きている変化を十分に調べていなかった。魔力が残った、その結果だけを喜び、どのような状態で残っているかを軽視した。
今、棚の上にある瓶は、前世の研究器具よりはるかに小さい。中の魔力も微弱だ。それでも、同じ失敗を繰り返す理由にはならない。触るな。開けるな。まず、観察しろ。
俺は瓶へ伸ばしかけた手を、ゆっくり下ろした。
◇ ◇ ◇
夜。誰も起きていない。今なら俺一人で、好きなだけ調べられる。瓶を傾ける。揺らす。栓へ触れる。少しだけなら、誰にも分からない。そんな考えが頭を過ぎる。
前世の俺なら、迷わず実行した。自分だけが気づいた変化。自分だけが理解できる現象。なら、自分の判断で先へ進む。誰かへ話せば、止められるかもしれない。理解されないかもしれない。だから、言わない。その結果が、前世の最期だった。
俺は棚から離れた。そして寝室へ戻る。眠っているバーバラの隣へよじ登ろうとした。高い。今の俺には、寝台も簡単には登れない。
◇ ◇ ◇
「ん……」バーバラが身じろぎした。「ルーク?」目を開ける。「どうしたの?」
俺は棚のある部屋を指差した。次に両手で丸い形を作る。集まる。形になる。伝わるだろうか。
バーバラは眠そうな目で俺の仕草を見る。「水?」頷く。「何か変わったの?」もう一度、両手を広げ、ゆっくり中央へ寄せる。「集まってる?」
伝わった。俺は大きく頷く。バーバラの眠気が少し薄れた。「見に行きましょう」
母は俺を抱き上げた。灯りを持ち、二人で瓶のある部屋へ戻る。
◇ ◇ ◇
棚の前。バーバラは一重の瓶を見つめる。「見た目は」「変わっていないようだけど……」当然だ。まだ肉眼で見えるほどの変化ではない。
俺は瓶の中央を指差す。そこ、魔力が集まっている場所。バーバラは瓶を持ち上げようとした。俺は反射的にその腕へしがみついた。「触らない方がいい?」勢いよく頷く。バーバラはすぐに手を引いた。「分かったわ」
理由を細かく聞かない。俺が何か危険を感じている。それだけで、母は止まった。
前世、俺が誰かへ触るなと言われた時、根拠を示せ、説明できないなら黙れ、そう返した。説明できない者を信用しなかった。だが今の俺は、十分に説明できない。それでも母は俺を信じた。
「今夜は」「このままにしておきましょう」バーバラが言う。「朝になったら」「明るいところで」「よく見てみる」それがいい。
「でも」母は少し考えた。「誰かが触ったら危ないかもしれないのよね?」俺はゆっくり頷いた。危険だと決まったわけではない。だが、安全だとも言えない。
「なら」「ここへ置いたままにするのは駄目ね」診療所には患者が来る。トムも、オリヴィアも、明日の朝には来るだろう。興味を持ち、瓶へ触れるかもしれない。移動させる必要がある。だが今、不用意に動かすのも危険だ。
どうする。瓶そのものには触れない。棚ごと囲えばいい。俺は近くに置かれていた木箱を指差した。次に瓶の周囲を覆う仕草をする。「箱をかぶせるの?」頷く。瓶へ触れず、上から木箱を被せる。誰かが誤って手を伸ばすことは防げる。
「それだけだと」「中に何があるか分からなくて」「動かされるかもしれないわね」母は紙を一枚取り出した。大きな文字で書く。『実験中』『触らないこと』紙を木箱へ貼りつける。「これでどう?」俺は頷いた。
さらに記録が必要だ。俺は新しい記録帳を指差す。「今のことも書くのね」バーバラは灯りを机へ置いた。
『一日目、深夜』 『ルークが封止した岩清水に変化を感じる』 『外見上の変化は確認できず』 『瓶中央に何かが集まっていると示す』 『安全を確認できるまで瓶へ触れない』
母の筆が、そこで止まった。「変化を感じる」バーバラが小さく読み返す。「ルークは」「どうして分かるのかしら」
◇ ◇ ◇
来ると思っていた。いつか必ず聞かれる。今まで俺は、幼い子どもの勘として誤魔化してきた。薬草を指差す。危険なものから離れる。正しい方を選ぶ。言葉で説明しなければ偶然と思われる。だが回数が増えれば、偶然では済まない。特に今は、肉眼で見えないものを俺だけが見つけた。
何と答える。魔力が見える。そう伝えるか。一歳の子どもが魔力を見分ける。珍しいどころではない。少なくともこの村では、誰も想像しないだろう。
知られればどうなる。町へ連れていかれるかもしれない。魔術師へ調べられるかもしれない。前世の俺を知る者が、まだ生きているかもしれない。この時代の俺は本来、まだ何者でもない。目立つのは危険だ。
だが、母へこれ以上何も伝えないまま、研究を続けられるのか。俺だけが危険を見つけ、理由を説明しない。それでは前世と同じだ。すべてを一人で抱える。俺だけが分かればいい。他人には理解できない。そうして誰にも止められない場所へ、一人で進んだ。
今度は変わると決めた。なら、少しは信じなければならない。目の前の、この人を。
「ルーク?」バーバラは答えを急かさなかった。「分からないなら」「今は分からなくてもいいのよ」「でも」「怖いものがあるなら」「お母さんに教えて」
怖い。違う。そう言いたい。だが声が出ない。
俺は魔力が怖いのではない。分からない現象を危険と思うだけだ。そう反論しかけ、止まる。本当に怖くないのか。
前世の事故。崩れた魔術式。制御を失った光。焼けるような痛み。身体から命が抜けていく感覚。忘れてはいない。瓶の中で集まる魔力を見た瞬間、あの日の記憶が胸の奥へ蘇った。だから手を引いた。理性だけではない。俺は怖かった。
認めるのは難しい。前世の俺は、恐怖を弱さだと思っていた。怖いと言えば負けたような気がした。だが恐怖は、危険から身体を守るためにある。無視するのではなく、理由を確かめるべきもの。
俺はバーバラの服を掴んだ。そして、もう一度瓶を指差す。「ま……」喉を動かす。まだ長い言葉は、うまく発音できない。「ま……りょ……」バーバラの目が、わずかに見開かれた。「魔力?」俺はゆっくり頷いた。「魔力が」「集まっているの?」もう一度頷く。
言った。とうとう伝えた。
バーバラは瓶を見る。次に俺を見る。「ルークには」「魔力が見えるの?」
見える。正確には、目だけで見ているわけではない。感じる。流れが分かる。濃さが分かる。だが今、それを説明する言葉はない。俺は小さく頷いた。
沈黙。母は驚いている。当然だ。何を言われる。なぜ今まで黙っていた。そんなはずはない。嘘をつくな。あるいは、誰かへ知らせなければ。俺の身体が強張る。
バーバラは俺の変化に気づいたのだろう。何も聞かず、俺を抱き締めた。「教えてくれてありがとう」それだけ。責めない。疑わない。
「怖かったでしょう?」違う。そう言いたい。だが声が出ない。
「大丈夫」バーバラの手が背中をゆっくり撫でる。「今は」「誰にも言わないわ」俺は母の胸へ顔を上げた。「ルークが」「話してもいいと思うまで」「お母さんとルークだけの秘密」
秘密。前世、秘密は他人を遠ざけるために使った。研究内容を隠す。弱みを隠す。過去を隠す。知られなければ傷つけられない。そう思っていた。だが今、母と共有した秘密は、俺を一人にしなかった。
「ただし」バーバラの声が少しだけ厳しくなる。「見えないものが」「危ない動きをしているなら」「絶対に一人で調べないこと」俺は目を逸らした。「ルーク」分かっている。俺は渋々頷いた。「渋々じゃ駄目」なぜ分かる。もう一度、今度はしっかり頷く。「約束ね」
約束。前世の俺は、約束を拘束だと思っていた。自分の行動を他人に縛られる。だから嫌った。今は少し違う。誰かと交わす約束は、一人で進みすぎないための道標なのかもしれない。
バーバラは記録帳へ、もう一行だけ加えた。
『ルークは、岩清水に含まれる魔力を知覚できる可能性あり』
可能性。断定しない。俺が言ったから、すべてを真実と決めない。信じながら、確かめる余地を残す。それでいい。
「朝になったら」「お父さんの記録も」「もう一度調べましょう」バーバラが言った。「水を持ち帰ったあと」「何か沈んだとか」「形が変わったとか」「書いてあるかもしれないもの」
確かに。父には魔力そのものは見えなかった。だが時間が経てば、目に見える変化が現れた可能性がある。父はそれを、別の現象として記録しているかもしれない。記録。観察。過去に、答えの一部が残っている。
俺たちは木箱を被せた瓶をそのままにして、寝室へ戻った。バーバラは俺を寝台へ寝かせる。布団をかけ、額へ触れた。「もう寝ましょう」
眠れるか。水の中では今も、魔力が集まり続けている。朝までにどう変わる。気になる。今すぐ見張っていたい。だが約束した。一人で調べない。
俺は目を閉じた。隣には母がいる。誰かへ秘密を話した夜。前世にはなかった奇妙な安心感の中で、俺は少しずつ眠りへ落ちた。
◇ ◇ ◇
翌朝。木箱を外した俺たちは、瓶の底に、昨日まではなかったものを見つけた。砂粒よりも小さな、淡い青色の欠片。水に溶けていた魔力は、ついに誰の目にも見える形へ、変わり始めていた。




