Ep177. 水を残す方法
存在が分かっただけでは、役には立たない。薬は、見つけるだけでは足りない。必要な時に、必要な場所で、使えなければならない。
月雫草が、岩壁から染み出す水によって特別な効力を得ている。その可能性は、かなり高くなった。だが、その水は空気へ触れると、中に含まれている魔力を失う。なら、どうすればその力を残せる?
◇ ◇ ◇
翌朝、二本の月雫草は明確に異なる状態になっていた。
一番、瓶の口を覆った方は、花弁は萎れ始めている。だが、青白い色はまだ残っていた。
二番、開いたままにしていた方は、花は完全に下を向き、葉の端には薄い褐色が現れている。
誰が見ても、差は明らかだった。
バーバラは、二本の状態を記録帳へ書き込んだ。
『三日目、朝』 『一番にも萎れが見られる』 『二番は花弁が大きく下垂』 『葉先に変色あり』 『両者の差は明確』
最後の一文字を書き終えると、バーバラはしばらく二本の瓶を見つめた。
「やっぱり、空気に触れない方が、長く元気でいられるのね」
俺は頷く。ただし、正確には、空気へ触れないこと自体が月雫草を長持ちさせたわけではない。水に含まれる魔力が、逃げにくくなった。その結果、月雫草の内部にある魔力も、長く保たれた。おそらく、そういうことだ。だが、それを言葉で説明することはできない。俺が今できるのは、次の方法を示すことだけだ。
俺は、机の上に置かれたいくつかの空瓶を見る。細長い瓶。丸い瓶。口の広い瓶。口の狭い瓶。
必要なのは、より完全に空気を遮断できる容器。今使った布では、隙間が大きすぎた。水に挿した花を観察するためには、茎を通す穴が必要だった。だが、次は水だけを保存すればいい。なら、栓を完全に閉められる。
俺は口の狭い瓶を指差した。次に、栓を押し込む仕草をする。
「今度は、水だけを入れて、きちんと栓をするの?」バーバラが尋ねた。
頷く。
「それで、何日か置いたあとに、月雫草を入れてみる?」
その通り。採取したばかりの水。一日保存した水。三日保存した水。それぞれへ月雫草を入れ、状態を比べる。水に含まれる力が何日残るのか、保存方法によって差が出るのか。それを確認する。
「じゃあ」トムが声を上げた。「また森へ水を採りに行くのか?」
朝から来ていたらしい。扉のところに、オリヴィアと並んで立っている。
「まだ駄目よ」バーバラが答えた。
「どうして?」
「準備ができていないもの」
準備。俺は母を見る。
「今回は、きちんと閉じられる瓶が必要でしょう?」
「でも、家にある栓は、古くなっているものが多いの」
バーバラは棚から小さな木栓を取り出した。瓶へ差し込む。確かに、わずかな隙間がある。乾燥して、木が縮んでいる。これでは、完全には閉じられない。
「新しい栓を作ればいいじゃないか」トムが言う。
「誰が作るの?」オリヴィアが聞き返した。
「えっと……木工職人のゲイルさん?」
「頼めば作ってくれると思うけど」バーバラは言った。「瓶ごとに大きさが違うから、一つずつ合わせてもらわないといけないわね」
手間がかかる。だが、必要なことだ。
俺は木栓を手に取ろうとした。その時、別のものが目に入った。薬を包むために使う、薄い蜜蝋の板。
蜜蝋。熱を加えれば柔らかくなる。冷えれば固まる。瓶の口と栓の隙間を蜜蝋で塞げば、空気をかなり遮断できる。前世でも、簡易的な封止に使うことがあった。
俺は蜜蝋を指差した。次に木栓。それから、両手で包むような仕草をする。
「栓の周りに、蜜蝋を付ける?」オリヴィアが首を傾げた。
俺は頷く。
「隙間を塞ぐのね」バーバラは、すぐに意図を理解した。「それなら、新しい栓を作ってもらわなくても、今あるものを使えるかもしれない」
トムが感心したように、蜜蝋と瓶を見比べる。
「でも、本当に漏れなくなるのか?」
試せばいい。いきなり、貴重な岩清水を入れる必要はない。普通の水で、先に確認する。
俺は水差しを指差し、瓶を逆さにする仕草をした。
「水を入れて、ひっくり返してみるの?」
頷く。
「なるほど」バーバラは笑った。「先に漏れないか試すのね」
その言葉を聞いて、俺は少しだけ安心した。いきなり本番へ進まない。道具を確認する。方法を試す。前世の俺なら、そんなものは時間の無駄だと切り捨てていたかもしれない。だが、実験で事故が起こる時、原因は大きな理論の間違いとは限らない。栓が緩かった。器具にひびがあった。量を測り間違えた。そんな小さな確認不足が、すべてを壊す。俺はそれを知っている。自分の命で。
バーバラは小鍋へ水を張り、蜜蝋を入れた器をその中へ浮かべた。直接火へかけない。湯の熱で少しずつ溶かす。
「蜜蝋は燃えやすいから、火のそばでは気をつけないといけないの」バーバラが、子どもたちへ説明する。「トム、触っては駄目よ」
「分かってるって」トムは答えたが、一歩だけ後ろへ下がった。賢明だ。
柔らかくなった蜜蝋を、バーバラが木栓の周囲へ薄く塗る。厚すぎれば栓が入らない。薄すぎれば隙間が残る。母は慎重に形を整えた。
そして、普通の水を入れた瓶へ栓を押し込む。瓶の口から、少しだけ蜜蝋がはみ出した。そこを、さらに指で押さえる。
「これでどう?」バーバラが尋ねる。
俺は瓶と栓の境目を見る。目立つ隙間はない。だが、本当に密閉できているかは、試さなければ分からない。俺は逆さにするよう促した。
「いくわよ」
バーバラは、流し台の上で瓶をゆっくり逆さにした。全員が瓶の口を見つめる。
一滴、落ちない。二滴、落ちない。
「漏れてない!」トムが声を上げた。
「成功?」オリヴィアが俺を見る。
まだだ。水が漏れないことと、空気が出入りしないことは同じではない。小さな隙間があっても、水の表面張力によって、すぐには漏れないことがある。より確かめる必要がある。だが、今の道具で、空気の出入りを正確に測ることはできない。なら、時間を置く。数時間、逆さにしたまま布の上へ置いておく。布が濡れなければ、少なくとも大きな漏れはない。
俺は瓶の下へ布を敷くよう示した。
「しばらく置いておくのね」バーバラは、すぐに白い布を用意した。瓶を逆さにして、小さな木枠へ固定する。「これで夕方まで見てみましょう」
「夕方まで?」トムが不満そうな声を出す。「すぐ分からないのか?」
「すぐ分からないことの方が多いわ」バーバラは答えた。「だから、待つの」
また、待つ。実験とは、待つことばかりだ。植物が変化するまで。薬が効くまで。患者が回復するまで。医療も、研究も、自分の都合で時間を早めることはできない。
前世の俺は、その当たり前に何度も苛立った。だから、無理に早めようとした。魔力を強く流す。薬の濃度を上げる。治癒の過程を圧縮する。成功することもあった。だが、身体は機械ではない。植物も、薬も、人間も、必要な時間を無理に奪えば、どこかで歪みが生まれる。
「待ってる間」オリヴィアが言った。「何をするの?」
「仕事よ」バーバラが笑う。「診療所には、月雫草以外にも、やることがたくさんあります」
その言葉を証明するように、入口の鐘が鳴った。
◇ ◇ ◇
患者だ。入ってきたのは、村で羊を飼っている中年の男、グレンだった。右手へ布を巻いている。
「悪い」グレンは、少し困ったように笑った。「柵を直してたら、木の棘が刺さってな」
バーバラの表情が、すぐに治療者のものへ変わる。
「見せてください」
研究は一旦中断。当然だ。目の前に、治療を必要とする人がいる。月雫草の謎は、明日でも追える。だが、傷口へ入った棘は、放置すれば炎症を起こすかもしれない。
バーバラが、グレンの手を洗う。俺もすぐに机から離れた。実験の結果が、どれほど気になっていても、患者を後回しにはしない。それが、医者だ。いや、今度こそ、そういう医者になりたい。
傷は思ったより深かった。掌の中央へ、細い木片が斜めに入り込んでいる。
「自分で抜こうとしました?」バーバラが尋ねる。
「少しな」
「それで途中で折れたのね」
グレンは、気まずそうに目を逸らした。傷口の中には、先端だけが残っている。見えないものを、無理に引き抜こうとすれば、さらに奥へ押し込むことがある。研究と同じだ。急いで、力任せに進めれば、問題を悪化させる。
「トム、明るい方へ灯りを持ってきて」
「分かった」
「オリヴィアは、清潔な布をお願い」
「うん」
全員が動く。俺は傷口を見つめた。木片の向き。刺さった角度。腫れの程度。幸い、強い赤みはない。熱も、まだ持っていない。早く来たのは正解だ。
バーバラは、細い針を火で炙り、冷ましたあと、傷口を少しだけ広げた。
「痛いですよ」
「分かってる」グレンは、顔をしかめながら答える。
少しずつ、見える範囲を広げる。焦らない。無理をしない。やがて、傷の奥に茶色い木片の先が見えた。
「ありました」
細い器具で挟み、刺さった向きに沿って、ゆっくり引き抜く。小さな木片。長さは、指の爪ほど。
「こんなに入ってたのか」グレンが、驚いた声を出す。
「途中で抜くのをやめてよかったです」バーバラは答えた。「無理に続けていたら、もっと深く入っていたかもしれません」
傷口を洗い、薬を塗る。最後に、清潔な布を巻いた。
「今日は、なるべく右手を使わないでください」
「柵の続きが……」
「駄目です」バーバラは、はっきり言った。「傷が開いたら、治るまで長くかかります。一日休む方が、何日も働けなくなるよりいいでしょう?」
グレンは、少し考え、諦めたように頷いた。
「分かった」
患者が帰る。診療所に、静けさが戻った。
俺は、逆さに置かれた瓶を見る。まだ布は乾いている。すぐに結果へ飛びつきたくなる。だが、さっきの傷と同じだ。見えないからと、無理に進めてはいけない。まず確認する。必要なら待つ。
◇ ◇ ◇
夕方、白い布には一つの染みもなかった。
バーバラが瓶を元へ戻す。栓の周りを確認する。
「漏れていないわね」
トムが、嬉しそうに拳を握る。
「じゃあ成功だ!」
「最初の確認はね」バーバラが訂正する。「これで、岩清水を入れる準備ができた」
準備ができた。ただそれだけ。まだ何も証明していない。だが、それでいい。安全に、確実に、一歩ずつ。
俺は瓶を見つめた。明日、この瓶へ森の水を入れる。そして、父が残せなかったものを、俺たちは初めて、森の外へ持ち出そうとしていた。




