Ep176. 目に見えた差
小さな違いは、注意して見なければ違いとして認識されない。見ようとする者だけが、変化に気づく。
◇ ◇ ◇
翌朝。外はまだ薄暗かった。窓の向こうでは、夜と朝の境目が少しずつ白み始めている。鳥の声も、まだ遠い。
バーバラは眠っている。診療所も、村も、まだ目を覚ましていない。
だが俺は、二本の月雫草の前に立っていた。
一番、口を覆った瓶。二番、開いたままの瓶。
昨日の夕方までは、見た目にほとんど差がなかった。しかし今は違う。二番の花弁が、ほんのわずかに下を向いている。葉の端も、一番より柔らかく垂れていた。
乾燥、水分不足――普通ならそう考える。だが二本の瓶には、ほぼ同じ量の水が残っている。置かれている場所も同じ。光も、温度も、変わらない。違うのは、瓶の口を覆っているかどうか。それだけだ。
俺は顔を近づけた。魔力を見る。
一番の水には、まだ薄く魔力が残っている。月雫草の茎にも、根を失った後とは思えないほど、穏やかな魔力の流れが続いていた。
一方、二番。水の中の魔力は、昨夜よりも明らかに弱い。花の内部に残る魔力も、少しずつ滞り始めている。
仮説は、今のところ正しい。岩清水に含まれる何かは、空気へ触れることで失われる。そしてその何かが失われれば、月雫草は通常の水に挿した時と同じように弱り始める。
だが、まだ一日だ。この程度の差なら、個体差である可能性も捨てられない。俺は二本の花弁の数を確認する。葉の角度。茎の硬さ。
触れることはできない。不用意に手を加えれば、条件が変わる。見ろ。観察しろ。
前世の俺なら、ここで早くも仮説は証明されたと結論づけていたかもしれない。自分に都合の良い変化を見つけ、それ以外を無視する。だが今回は違う。
俺は母が置いていた記録帳へ視線を向ける。
書けない。いや、まったく書けないわけではない。最近、炭の棒を使い、簡単な線や形を描く練習はしている。文字にはならなくても、印なら残せる。
俺は机の端に置かれていた炭の棒を取った。記録帳を開く。昨日、バーバラが書いた一日目の下、空いている場所へ、二本の花を描く。
一番は、花弁を上向きに。二番は、少しだけ下向きに。そして窓の外を指すように、小さな丸を描いた。朝、という意味だ。
完璧な記録ではない。だが、何も残さないよりはいい。
「ルーク?」
背後から声がした。振り返る。寝間着姿のバーバラが、扉の前に立っていた。髪はまだ整えられていない。眠そうな目で、こちらを見ている。
「こんなに早く起きて。何をしているの?」
俺は記録帳を指差した。次に、二本の月雫草。バーバラは近づき、机の上を覗き込んだ。
「……違う?」
気づいた。俺は頷いた。バーバラは二本を交互に見比べる。
「こっちの方が、少し元気がないように見えるわね」
開いた瓶――二番を指差している。母にも分かる。目に見える差が、すでに現れている。
「昨日は同じだったのに」
バーバラが呟く。それから、俺の描いた絵に目を留めた。
「これ、ルークが描いたの?」
頷く。
「朝に見た時の花?」
もう一度頷く。バーバラは、しばらく絵を見ていた。そして俺の頭へ手を置く。
「ちゃんと記録しようとしたのね」
撫でられる。前世なら、子ども扱いするなと苛立っていただろう。だが今は、不思議と嫌ではなかった。
「偉いわ」
母は笑った。
「でも、次からはお母さんを起こしてね」
なぜだ。俺は首を傾げる。
「一人で机に登ったでしょう?」
……そうだった。今の俺には、机が高い。椅子へよじ登り、そこから机へ手を伸ばした。研究以前に、転落の危険がある。俺は目を逸らした。
「駄目よ」
バーバラは、少しだけ声を低くした。
「調べることに夢中になって、怪我をしたら意味がないでしょう?」
その言葉が、胸へ刺さる。前世、俺は調べることに夢中になり、命を落とした。母は、もちろん知らない。知らないまま、今の俺に最も必要な言葉を口にした。
俺は、素直に頷いた。
「よろしい」
バーバラは俺を抱き上げ、椅子から降ろした。それから記録帳へ、新しい文章を書き加える。
『二日目、早朝』 『二番の花弁に、わずかな下垂が見られる』 『葉の張りも、一番と比べて弱い』 『水量には大きな差なし』
そして最後に。
『最初の変化をルークが発見』
俺は、その一文を見つめた。必要ない。観察者の名前など、結果には関係しない。そう思った。だが、消してほしいとは思わなかった。
前世の俺は、自分の名前が記録に残ることを、何より望んでいた。論文。治療法。魔術式。すべてに、ルーク・E・オリバーの名を刻みたかった。名声のため、才能を認めさせるため。
今、母が書いた、たった一行。
『ルークが発見』
それは、前世で得たどんな称賛よりも、静かに胸を満たした。
朝食が終わる頃、トムとオリヴィアが診療所へやって来た。
「変わった?」
扉を開けるなり、トムが尋ねる。
「少しだけね」
バーバラが答える。二人はすぐに窓際の机へ向かった。
「どこ? どっち?」
「慌てないの」
バーバラが二人を止める。
「まず昨日の状態を思い出して。それから二本をよく見比べてみて」
答えを教えない。自分で見つけさせる。父が、子どもたちへ薬草を教えていた時と同じだ。
トムは、右から見る。左から見る。オリヴィアは、屈んで、花弁の高さを比べる。
やがて、
「あっ」
オリヴィアが声を上げた。
「二番の花、ちょっと下を向いてる」
「葉っぱもだ!」
トムも気づく。
「一番の方が元気だ!」
「正解」
バーバラは笑った。
「ルークが朝一番に見つけたのよ」
「やっぱりルークはすごいな!」
トムが感心したように言う。
「小さいのに、俺よりよく見てる」
小さいは余計だ。だが、否定はできない。
「これで」
オリヴィアが期待に満ちた顔をする。
「水が空気に触れると駄目って分かったの?」
俺は、首を横へ振った。
「違うの?」
「まだ分からないわ」
バーバラが代わりに答えた。
「今日一日だけでは、偶然かもしれないでしょう?」
母は、俺と同じことを考えていた。
「それに、瓶の口を覆ったことで、水以外にも何か違いが出たかもしれない」
湿度。温度。蒸発量。密閉に近づけたことで、魔力以外の条件も、完全には揃わなくなっている。簡単な実験では、避けられない問題だ。
「じゃあ」
トムが聞く。
「どうしたら本当に分かるんだ?」
繰り返す。同じ実験を、一度ではなく、何度も行う。さらに別の条件でも試す。採取直後の水。一日置いた水。二日置いた水。月雫草だけではなく、別の植物でも比べる。確かめるべきことは、いくらでもある。
俺は父の記録帳を指差した。そして、同じ頁を何度もめくる仕草をする。
「何回もやる?」
トムが理解した。頷く。
「そっか、一回だけじゃ駄目なのか」
そうだ。一度の成功を、真実と思い込まない。一度の失敗を、無意味だと捨てない。何度も、同じ問いを投げかける。それが、研究だ。
「でも」
バーバラが、二本の月雫草を見ながら言った。
「まずは、この二本を最後まで観察しましょう。途中で別のことを始めたら、今の変化を見落としてしまうもの」
焦らない。一つずつ。俺は頷いた。
◇ ◇ ◇
その日の昼、二番の花弁は、朝よりさらに下を向いた。一番にも、わずかな萎れが現れ始めた。根を失った切り花なのだから、当然だ。しかし、弱る速度が違う。
◇ ◇ ◇
夕方になる頃には、その差は、誰が見ても分かるほどになっていた。二番の花は、花弁の先が、薄い灰色へ変わり始めている。一番は、まだ青白い色を保っていた。
「こんなに違うんだ……」
オリヴィアが呟く。
「水は同じだったのに」
同じだった。最初は。しかし今は、同じではない。
開いた瓶の水からは、もうほとんど魔力を感じない。一番の水にも、残っている量は少ない。完全な密閉ではなかったからだ。だが、消える速度には、明確な差がある。
岩清水の効力は、保存方法によって、ある程度保てる。もし、魔力を完全に逃がさない容器があれば、月雫草を森から離れた場所でも育てられるかもしれない。あるいは、岩清水そのものを、薬の材料として保存できるかもしれない。可能性が、一気に広がる。胸が高鳴る。
考えろ。次の実験を。より密閉できる容器。魔力を保持する素材。保存時間。
だが、そこでバーバラが言った。
「今日は終わり」
俺は母を見る。何を言っている。今、重要な結果が出たところだ。ここから、次の検証を考えるべきだろう。
「もう夕方よ」
バーバラは俺の顔を見る。
「ルーク、朝からずっと花ばかり見ていたでしょう?」
そうだが。
「休むのも、大切なことよ」
休む。前世の俺が、最も軽視していたものだ。睡眠を削る。食事を忘れる。助手にも休みを与えない。結果が出るまで、研究室から出なかったこともある。
「続きは明日」
バーバラは記録帳を閉じた。
「花は逃げないわ」
いや、萎れる可能性はある。そう言いたかったが、今の俺には言えない。それに、母の言いたいことも分かる。答えは、一晩で消えない。焦らなくても、明日、また続きを考えればいい。
俺は、渋々頷いた。
「すごく嫌そうな顔」
オリヴィアが笑う。
「ルークって、本当に研究が好きなんだね」
好き。前世の俺にとって、研究は好きなものではなかった。自分の価値を証明する手段。他人より優れていると示す武器。そう思っていた。
だが今は、違うのかもしれない。誰かと一緒に、分からないものを見つめ、少しずつ答えへ近づく。その時間を、俺は楽しいと思っている。認めるのは、少し癪だが。
◇ ◇ ◇
翌朝、一番の月雫草にも、はっきりとした萎れが現れた。そして二番の花は、完全に下を向いていた。
最初の実験は、まだ終わっていない。だが一つだけ、確かに言えることがある。
父が見つけた、目に見えない何かは、本当に存在する。そしてその何かは、空気へ触れることで、失われていく。
父が届かなかった答えへ、俺たちは確かに、一歩近づいていた。




