Ep175. 二本の月雫草
実験で最も大切なのは、結果ではない。条件を揃えることだ。
比べる二つのうち、水以外の何かが違っていれば、そこから導かれる答えは答えではなく、ただの思い込みになる。前世の俺は、そのことを誰よりよく知っていた。そして知っていながら、都合の悪い条件を無視したこともあった。自分の仮説を証明したい、誰より先に結果を出したい――そんな欲が、目を曇らせた。
今回は違う。急がない。誤魔化さない。分からないことを、分かったふりもしない。
◇ ◇ ◇
翌朝、俺たちは再び森へ向かった。バーバラ、俺、オリヴィア、トム。そして当然のように後をついてくるイッキ。
「今日は遊びじゃないからね」バーバラが歩きながら言った。「月雫草を二本だけ採って、すぐに帰ります」
「分かってる!」トムが元気よく答える。その肩には小さな採取籠が掛けられていた。弟子らしく、最近はどこへ行くにも持ち歩いているらしい。
「私も分かってるよ」オリヴィアも頷いた。その手には煮沸して乾燥させた二本の空瓶がある。清潔であることは当然だ。水に余計なものが混ざれば、比較にならない。
だがバーバラは、俺がそこまで考えているとは思っていない。
「ルークが昨日、瓶を何度も洗えって言ってるみたいだったから」母は笑った。「念入りにきれいにしておいたわ」
伝わっていたらしい。俺は満足して頷いた。
「本当に細かいよね」オリヴィアが笑う。細かいのではない。必要なことだ。……説明できないが。
森へ入る。昨日と同じ道、同じ木々、同じ湿った土。だが目的が違えば、見える景色も少し違う。今日は一つ一つの環境をより注意深く見る。気温、風、日差し、水の流れ。記録できるものなら、すべて記録したい。
しかし俺はまだ字を自由に書けない。そこで今日はバーバラが、父の古い手帳とは別に、新しい小冊子を持ってきていた。
「何か気づいたら教えてね。お母さんが書いておくから」
その言葉に、少しだけ足が止まる。前世の研究は俺一人のものだった。助手がいても記録係がいても、成果の中心は俺――そう思っていた。今は母が俺の代わりに記録してくれる。俺が見つけ、母が書く。一緒に進める研究。それは少し不思議で、ひどく心強かった。
◇ ◇ ◇
やがて岩壁のある場所へ着く。月雫草は昨日と変わらず、青白い花を咲かせていた。
「きれい……」オリヴィアが呟く。確かに美しい。だが今日は鑑賞に来たのではない。
バーバラは群生地を見回した。「採るなら、どれがいいと思う?」
俺は植物を見比べる。大きさ、花の開き方、葉の枚数。二本とも、できる限り同じ状態でなければならない。若い株と古い株では萎れる速度が変わる。日陰と日向でも違う。
俺は群生地の中央近く、隣り合って咲く二本を指差した。
「これとこれ?」バーバラが尋ねる。頷く。高さもほぼ同じ、花の開き方も同じ、日当たりも同じだ。
「なるほど。確かに、この二本ならよく似てるわね」
根ごと採ってはならない。今回は切り花としての状態変化を見る。茎の長さも揃えた方がいい。俺は二本の茎へ手をかざし、同じ高さを示した。
「同じ長さで切るのね?」頷く。
トムが感心したように言う。「そこまで同じにするのか?」する。当然だ。
「比べるんだもの」バーバラが答えた。「違うところは、できるだけ少ない方がいいのでしょうね」
母は、もう実験の考え方を理解し始めている。俺は少し嬉しくなった。
バーバラは鎌を使い、二本の月雫草を同じ長さで切った。切った瞬間、花に宿る魔力がわずかに揺らぐ。根から離れたことで供給が絶たれた。やはりこの植物は、絶えず魔力を吸い続けている。
「ルーク?」母が俺を見る。俺は二本の花を指差し、次に岩壁の水を指差した。「すぐ水に入れた方がいい?」その通り。時間まで揃える必要がある。
オリヴィアが二本の瓶を差し出した。まず岩から染み出す水を、二本へ同じ量ずつ入れる。水位も揃える。
「これくらい?」オリヴィアが慎重に尋ねる。俺は左右の瓶を見比べた。ほぼ同じ。頷く。
二本の月雫草を、それぞれの瓶へ入れる。ここまでは、まったく同じ条件だ。
そして片方だけ、瓶の口へ薄い布をかぶせる。完全に栓をしてしまえば花の茎が入らない。そこで茎の周囲を、油を染み込ませた布で塞ぐ。完全な密閉ではない。だが開けたままの瓶よりは、空気へ触れる面積を減らせる。
「こっちは閉じる、こっちは開けておく」トムが確認する。「それで、どっちの花が長く元気か見るんだな?」
俺は大きく頷いた。理解が早い。
「でも」オリヴィアが首を傾げた。「持って帰る間に、両方とも空気に触れちゃうよ?」
俺は思わず彼女を見た。その通りだ。予想していなかったわけではない。だがオリヴィアが自分でその問題へ気づいたことに驚いた。
「どうする?」彼女は俺を見る。
そうだな。運搬中の条件も揃えなければならない。なら、ここで一つを閉じ、もう一つを開けておく。実験は、この瞬間から始まっている。
俺は閉じた瓶を指差し、次に空を指差す。それから首を横へ振る。
「こっちは、もう空気へ触れさせない?」頷く。
「じゃあ」バーバラが籠の中へ布を敷いた。「二本とも倒れないように運びましょう」
閉じた瓶、開いた瓶。二本を並べ、周囲へ柔らかな布を詰める。揺れない、倒れない、光の当たり方も同じ。「これでいい?」俺はしばらく確認し、頷いた。
◇ ◇ ◇
帰り道、皆の歩みは来た時より遅かった。籠を揺らさないため、転ばないため。トムは前を歩き枝を避ける。オリヴィアは何度も籠を確認する。イッキまで、いつものように走り回らず俺たちの近くを歩いていた。
一人の研究ではない。皆で持ち帰る、二本の花。それが俺には少し嬉しかった。
◇ ◇ ◇
家へ戻ると、二本の瓶を窓際の机へ置いた。日の当たり方、風、室温。できる限り同じ条件にする。
バーバラは新しい記録帳を開いた。
『一日目 同じ場所から、同じ大きさの月雫草を二本採取 同量の岩清水へ挿す 一方は口を覆い、一方は開放したままとする』
そこで母の筆が止まった。「二つに名前を付けないと」
名前。確かに、どちらの記録か分からなくなる。
「こっちが一番!」トムが閉じた瓶を指差す。「じゃあこっちは二番!」オリヴィアが開いた瓶を指差す。単純だ。だが分かりやすい。
「一番は口を覆った瓶、二番は開いた瓶ね」バーバラが書き加える。
最後に二本の花を観察する。花弁の色、茎の張り、葉の状態。今のところ違いはない。当然だ。まだ数時間しか経っていない。
「明日には変わるかな?」トムが楽しそうに尋ねる。分からない。一日か、三日か、七日か。それを知るための実験だ。
「変わらないかもしれないわ」バーバラが言った。
「え?」トムが目を丸くする。
「実験って、必ず思った通りになるものじゃないのよ」
俺は母を見る。その通りだ。
「何も変わらなかったら、それも大切な答え。考えたことが違ったって分かるもの」
バーバラは、父の記録を読んだだけで研究の本質を理解し始めている。いや、もともとそういう人だったのかもしれない。分からないことを、分からないまま認める。患者を診る時と同じ。決めつけず、観察し、少しずつ確かめる。研究者としても、母は俺より優れた部分を持っている。
◇ ◇ ◇
夕方、トムとオリヴィアが帰ったあとも、俺は二本の花を見ていた。一番、二番。どちらも青白い花弁を開いている。魔力の量も、今はほとんど同じだ。
だがほんの少しだけ、開いた瓶の水から魔力が空気へ溶け出している。微か、あまりにも微かだ。この速度なら、目に見える違いが現れるまで数日はかかるだろう。
俺は窓の外を見る。夕日が沈む。一日目が終わる。
結果を急ぐな。待て。見ろ。記録しろ。前世の俺が最も苦手としていたこと。それを、この二本の小さな花が俺へ教えようとしていた。
そして翌朝、誰より早く目を覚ました俺は、二本の瓶の前で、昨日にはなかったごく小さな違いを見つけることになる。




