Ep174. 最初の仮説
研究には順番がある。疑問、観察、仮説、検証。前世の俺は、その順番を誰より理解していた。理解していたからこそ、省略することも多かった。自分の勘は正しい、経験がある、結果を急いでも問題ない——そう思い込んだ。そして最後には死んだ。
同じ失敗はしない。今度こそ。
机の中央には、森から持ち帰った小瓶が置かれていた。中に入っているのは、岩壁から染み出していた水。透明で濁りなく、目立った匂いもない。見た目だけなら普通の湧き水と変わらない。だが微かな魔力がある。それは俺にしか分からない。少なくとも、今のところは。
「お父さんの記録は」
バーバラが古い手帳を開く。
「これだけみたいね」
月雫草、生育地、岩壁の水。記録は何頁にもわたっていた。
『別の水で育てた株は七日で弱る』 『生育地の土を用いても結果は変わらず』 『日照量を合わせても枯れる』 『水を持ち帰ると、数日で効力が弱まる』
父はかなり調べていた。条件を一つずつ変えて、原因を絞ろうとしている。素人の記録ではない。仮説を立て、比較し、失敗も残している。優秀な研究者だ。それだけに、最後の一歩へ届かなかったことが惜しい。
「七日……」
バーバラが記録を指でなぞる。
「どうして水を持ち帰ると駄目だったのかしら」
俺には一つ考えがあった。水そのものへ魔力が固定されていない。岩の奥から染み出した直後は魔力を含んでいる。だが時間が経つと、少しずつ空気中へ逃げる。だから運んだ水では、月雫草を育て続けられなかった。仮説としては自然だ。
問題は、どうやって確かめるか。魔力測定器はない。魔術式を組む道具もない。それ以前に、俺はまだまともに魔術を使えない。身体が幼すぎる。魔力回路も十分に育っていない。前世の感覚で無理に魔力を動かせば、何が起きるか分からない。
焦るな。まずは、この身体でできる方法を考えろ。
「ルーク」
バーバラが俺の顔を覗き込んだ。
「難しい顔してる」
考えているからな、とは言えない。
「この水」
バーバラは小瓶を持ち上げた。
「どう調べればいいと思う?」
俺に聞くのか。いや、幼い子どもへ本気で答えを求めているわけではないだろう。ただ、一緒に考えようとしている。なら、示せる範囲で示す。
俺は小瓶を指差す。次に、机の端に置かれていた空の瓶を指差した。
「二つ?」
頷く。一つは栓をする。一つは開けたまま。比較。俺は手で蓋を閉める仕草をし、もう片方には何もしない。
「片方だけ栓をするの?」
大きく頷く。バーバラは少し考えた。
「空気に触れた水と、触れない水を比べる……?」
正解だ。俺は思わず机を叩いた。
「う!」
「なるほど」
バーバラの目が少し輝く。
「同じ水を二つに分けて、時間が経った後に違いが出るか見るのね」
伝わった。完璧ではない。だが十分だ。
「でも」
バーバラは困った顔になる。
「何を見れば違いが分かるのかしら」
そこだ。色、匂い、味。おそらくどれも変化しない。必要なのは、魔力へ反応するもの。この世界に、何かないか。
俺は机の上を見回す。薬草、粉薬、乾燥した花。そして町から届いた淡い青色の薬瓶——月雫草を使った薬。魔力を含んでいる。だが完成品を実験へ使うのは惜しい。患者へ使うべき薬だ。
なら、月雫草そのもの。水に挿しておけば変化が出るかもしれない。魔力を含む水なら花は状態を保つ。魔力が抜けた水なら早く萎れる。生物指標。単純だが使える。
俺は父の図鑑に描かれた月雫草を指差した。
「花?」
バーバラが聞く。頷く。さらに二本の指を立てる。二つの瓶へ、一本ずつ入れる真似。バーバラは俺の指を目で追った。
「月雫草を、二つの水へ入れて比べる?」
俺は何度も頷く。
「すごい……」
隣で見ていたオリヴィアが呟いた。いつの間に来た。
「ルーク」
「本当に一歳?」
ぎくり。それは今一番聞かれたくない質問だ。
「一歳よ」
バーバラが笑う。
「でも昔から、考えるのが好きなのよね」
助かった。
「お父さんも」
バーバラは父の手帳へ視線を落とした。
「同じ顔で考え込んでいたわ」
父と同じ。その言葉が、妙に胸へ残った。前世の俺は、自分の才能は全て自分だけのものだと思っていた。誰からも受け継いでいない、誰にも与えられていない、俺一人の力だと。だが、もしかすると観察する目も、疑問を追い続ける性質も、少しは父から受け継いだものなのかもしれない。
「明日」
バーバラが言った。
「もう一度森へ行きましょう。月雫草は必要な分だけ二本採って、比べてみましょう」
俺は頷いた。実験、検証。胸が高鳴る。だが昔のような、自分だけで答えを独占したい興奮ではない。母と、父の記録と、この世界の薬草と——一緒に答えへ近づいていく。そんな喜びだった。




