Ep173. 父が届かなかった答え
発見とは、何もない場所から突然生まれるものではない。誰かが疑問を持ち、誰かが調べ、誰かが答えの手前まで道を作る。そして次の誰かが、その続きを歩く。
俺は岩壁から染み出す水を見つめていた。一滴、また一滴。透明な水は、見た目には何の変哲もない。だが、そこには確かに魔力が含まれている。微量、極めて微量だ。人間が飲んでも、おそらくすぐには変化を感じない。しかし植物が毎日、根から少しずつ吸い続けたなら話は変わる。数日、数か月、数年——長い時間をかけて、植物の内部へ魔力が蓄積される。月雫草は、その環境へ適応した植物なのだ。いや、もしかすると、魔力を吸収することでしか生きられない植物なのかもしれない。
俺はしゃがみ込み、月雫草の根元を見る。湿った苔、細い根、岩の隙間。根は水が流れる方向へ伸びている。偶然ではない。
「ルーク」
バーバラが隣へしゃがんだ。
「その水が気になるの?」
俺は頷く。それから月雫草を指差し、次に水を指差す。
「花と水?」
オリヴィアが首を傾げる。俺はもう一度、同じ動きを繰り返す。水、花、水、花。
「もしかして」とトムが言った。「この水があるから、花が育つってことか?」
俺は勢いよく頷いた。
「でも」とケントが不思議そうに水を見る。「水なら他にもあるよ?」
そう、普通ならそう考える。この森には小川もある。雨も降る。地面も湿っている。だが、この水だけが違う。問題は、それをどう伝えるかだ。
俺は指先を水へ近づけた。
「ルーク」
バーバラの声が少し強くなる。
「勝手に触っちゃ駄目よ」
当然の反応だ。成分の分からない水、安全とは限らない。俺は手を止めた。正しい、実に正しい。前世の俺なら、好奇心を優先して触れていただろう。だが今は一人ではない。母がいる、子どもたちもいる。無茶をすれば、俺だけの問題では済まない。
「持って帰って調べてみましょうか」
バーバラが言った。俺は顔を上げる。
「お父さんの記録にも、この水のことが書いてあるかもしれないもの」
そうだ、父の図鑑、父の手帳。そこに何か残っているかもしれない。
バーバラは小さな空き瓶を取り出した。直接手では触れない。清潔な布を使い、瓶の口を岩壁の雫へ近づける。一滴、二滴、三滴——少量だけ採る。
「いっぱい持って帰らないの?」
ケントが尋ねた。
「正体が分からないものは、必要以上に持ち帰らないの」
バーバラが答える。
「危ないものかもしれないでしょう?」
慎重、正しい判断だ。研究とは、多く集めれば良いわけではない。必要な量だけ、安全な方法で、記録を残しながら扱う。前世の俺は知っていた。しかし守らなかったことも多い。結果を急ぎ、危険を軽く見た。その果てが、あの事故だ。俺が死んだ、魔法実験の事故。胸の奥が、わずかに冷たくなる。
繰り返すな。今度こそ、知りたいという欲望に、自分も周囲も巻き込むな。
「ルーク?」
オリヴィアが心配そうに俺を見る。俺は首を横に振った。何でもない。いや、何でもなくはない。これは俺にとって初めての試練だ。前世と同じように知識を追い求めるのか。それとも今世で学んだものを忘れず、慎重に、誰かと共に進むのか。答えは、もう決まっていた。
「今日はここまでにしましょう」
バーバラが瓶へ栓をする。
「戻ってから、お父さんの本を調べます」
子どもたちは少し残念そうだった。だが、誰も不満は言わない。
◇ ◇ ◇
帰り道、俺は何度もバーバラの持つ瓶を見た。ほんのわずかな水。だが、その中には父が長年追い続けた疑問の答えが眠っているかもしれない。
村へ戻る頃には、空が少し赤く染まり始めていた。
家へ入る。バーバラは薬箱を片づけ、父の図鑑を机へ置いた。さらに古い手帳を何冊も並べる。
「どこかに書いてあるはず」
ページをめくる。採取記録、薬の調合、患者の経過——どこだ。月雫草、岩、水。俺も必死に文字を追う。
そして、図鑑の最後に近いページ、端が折られた一枚に、小さな書き込みを見つけた。
『月雫草の生育地に流れる水について』
俺は思わずページへ手を置いた。その下には、父の文字でこう書かれていた。
『この水には、目に見えぬ何かが溶けている』 『おそらく、それこそが月雫草を薬草たらしめるものだ』
父は分かっていた。魔力という名前には辿り着けなかった。だが答えの形は、すでに見えていた。
さらにその下、少し震えた文字で、一行だけ続いていた。
『もし私に分からなくても、いつか続きを見つける者が現れるだろう』
胸が止まる。父は誰かを待っていた。自分より先へ進める誰かを。それが息子になるとは、きっと思っていなかっただろう。それでも父が残した疑問は、今、確かに俺の手の中へ渡された。
「ルーク?」
バーバラが俺を見る。
「何か見つけたの?」
俺はページを指差した。バーバラは文章を読み、しばらく黙っていた。やがて目を細める。
「そう……あなた、ずっと諦めてなかったのね」
その声は、もういない父へ向けられていた。
俺は父の文字へ触れる。父が届かなかった答え、その続きを俺が探す。前世の名声のためではない。自分の才能を証明するためでもない。この薬草が、もっと多くの患者を救えるかもしれないから。そして父が残した問いに、息子として答えたいと思ったから。
俺は初めて、研究したいという欲望と、人を救いたいという願いが、同じ方向を向いているのを感じていた。




