Ep169. 森の薬草教室
薬草は、本で覚えるものではない。風を感じ、土に触れ、育つ場所ごと覚えて初めて、本当に知ったと言える。前世の俺は、そのことをずっと知らなかった。図鑑をめくり、効能を暗記し、乾燥させた葉の色と匂いを分類することが「知る」ことだと思っていた。だが、今は違う。
◇ ◇ ◇
休日の朝。村の広場には、もう子どもたちが集まっていた。
「おはよう!」 「今日は森だ!」 「薬草探し!」
口々に声を上げる六人ほどの子どもたち。先頭に立つのはケント。負けん気の強い、いつも一番に答えを口にしたがる少年だ。その後ろにオリヴィアとトム、そして俺が続く。最後尾には、薬籠を背負ったバーバラの姿があった。落ち着いた足取りで、けれど視線だけは油断なく子どもたち全体に配られている。
「今日は約束があります」
バーバラが皆を見回して言う。広場のざわめきが、すっと静かになった。彼女の声には、普段の柔らかさの奥に、譲らない芯のようなものがある。子どもたちもそれを知っていて、こういう時は自然と口を閉じる。
「知らない草は絶対に口へ入れないこと」 「一人で離れないこと」 「分からない時は必ず聞くこと」
「はーい!」
元気な返事が森の入り口に響いた。バーバラはその声の大きさに小さく笑い、それから踵を返して森へと歩き出した。
◇ ◇ ◇
森へ入ると、空気の質が変わるのが分かる。朝露が葉の上で光り、踏み込むたびに靴の先が湿った下草を払う。鳥の声が高い梢から降ってくる。湿った土の匂いが鼻の奥に広がり、木漏れ日が地面に細かい模様を描いていた。
父の図鑑に描かれていた景色が、今、目の前に広がっている。ページの上の挿絵でしかなかったものが、匂いと音と湿度を伴って俺を包んでいる。それだけのことが、いまだに不思議で、そして少しだけ嬉しい。
子どもたちは思い思いに周囲を見回しながら歩く。オリヴィアは足元の苔を指で押してみたり、トムは木の幹に耳を当てて何かを聞こうとしたり。ケントだけは真っ直ぐ前を見て、早く「答え」を見つけたくてうずうずしているのが背中から伝わってくる。
しばらく歩くと、バーバラが足を止め、その場にしゃがみ込んだ。
「みんな」
声をかけられ、子どもたちが輪になって集まる。バーバラの指先が、地面から伸びる細長い葉を示していた。裏側には白い産毛のようなものが生えている。
「まずはこれ」
「熱冷まし!」
ケントが間を置かず即答した。答えを言う瞬間の、あの誇らしげな顔。
「正解」
バーバラが笑う。だがその笑みには、続きがあることを匂わせる気配があった。
「じゃあ」
「これは採ってもいいかな?」
誰も動かない。さっきまでの威勢の良さが嘘のように、子どもたちの間に沈黙が落ちた。正解を答えることと、正しく行動することは、同じではないと、彼らもどこかで分かっているのだろう。
「どうして?」
トムが尋ねた。純粋な、責める色のない問いだった。
「まだ小さいからよ」
バーバラは葉の横を指差した。同じ株から、小さな芽が何本も顔を出している。まだ開ききっていない、柔らかそうな新芽だ。
「全部採ったら」
「来年はどうなる?」
「なくなる」
オリヴィアが答えた。短い言葉だったが、迷いのない声だった。
「そう」
「薬草も畑のお野菜と同じ」
「育つ分を残さないといけないの」
俺は静かに頷いた。頭の中では、採取方法まで含めた計算が動いている。前世では、必要な量だけ確保できれば、それで十分だった。効率と結果、それだけを見ていればよかった。
けれど、この村では違う。
十年後、二十年後まで見越して、今日どれだけ採るかを決める。目の前の効能だけでなく、その株が来年もそこにあるかどうかまで含めて「知る」ということ。前世の自分が持っていなかった視点が、ここには当たり前のように息づいている。
「ルーク」
バーバラが俺を見た。
「どれを採ればいいと思う?」
俺は株をじっと見つめた。外側に広がる大きな葉、その奥に隠れるようにある小さな芽。両方を同時に視界に入れながら、どちらを残しどちらを取るべきか、その境目を探す。
指を伸ばし、一番外側の、しっかりと成熟した葉を示した。
「その通り」
バーバラが嬉しそうに頷いた。子どもに教える時の、あの温かい声だった。
「外側だけ採れば」
「真ん中はまた育ってくれるわ」
その言葉を合図に、子どもたちも見よう見まねで葉に手を伸ばし始めた。誰もが慎重だった。一本ずつ、指先で確かめるように。乱暴に引き抜く子は、一人もいなかった。
森を歩きながら、俺はふと思った。
薬師は、薬を作る人ではない。森を守る人でもある。
薬草の名前や効能を覚えることは、薬師になるための入り口に過ぎない。本当に大切なのは、その草がどこでどう育ち、どれだけ採れば絶えないかを、体で覚えていくことだ。バーバラが子どもたちに教えているのは、知識ではなく、その心得そのものなのだと思う。
◇ ◇ ◇
その時だった。
「バーバラさん!」
少し離れた場所から、ケントの声が上がった。何かを見つけた時特有の、弾んだ声。
「こっちにも同じ葉っぱがある!」
バーバラの表情が、ほんの少しだけ変わった。それまでの穏やかさの中に、一瞬だけ張り詰めたものが差し込む。
「みんな、その場で待って」
その声は、これまでより少しだけ真剣だった。子どもたちの間にも、その空気は伝わったらしい。さっきまでの賑やかさが嘘のように、誰もが動きを止める。
俺も視線を向けた。ケントが指差す先には、確かに同じような細長い葉が茂っている。裏の産毛も、色合いも、遠目にはそっくりだった。
だが――。
葉脈の入り方が、ほんのわずかに違っていた。
本物なら、葉の中心から左右対称に、まっすぐな筋が走っているはずだ。だが、ケントが見つけたそれは、筋がわずかに歪み、途中で不規則に枝分かれしている。図鑑の上ではきっと見逃してしまうような、ほんの小さな違い。けれどその小さな違いこそが、時に薬と毒を分ける境界線になる。
バーバラが静かにその場へ近づいていく足音だけが、森の中に響いていた。




