Ep167. 小さな薬草教室
知識は、独り占めした瞬間に止まる。誰かへ渡した時、初めて育ち始める。
◇ ◇ ◇
翌日。昼下がりの診療所は、患者の波が一段落し、いつもより静かな時間が流れていた。窓から差し込む光が、乾燥棚に並んだ薬草の影を床にゆらゆらと落としている。俺は器具を片付けながら、束の間の休息を味わっていた。
その静けさを破ったのは、勢いよく開け放たれた扉だった。
「バーバラさん!」
ケントがまた駆け込んできた。息を弾ませ、頬を紅潮させながら、真っ直ぐにバーバラのもとへと駆け寄る。その勢いに、棚の薬草瓶がカタカタと小さく音を立てた。
「今日は質問!」
ケントは両手を広げ、まるで大発見でもしたかのような顔で言った。その後ろには、昨日も顔を見せていた子どもたちの姿がある。ぱらぱらと入り口から顔を覗かせる者、すでに部屋の中まで入り込んでいる者――合わせて五人ほどが集まっていた。
バーバラは困ったように、けれどどこか嬉しそうに笑う。
「質問だけ?」
「うん!」
「昨日の葉っぱ!」
「もっと教えて!」
口々に言葉が飛び交う。誰も彼もが目を輝かせ、昨日の続きを待ちきれない様子だった。
その言葉に、バーバラは少し考えたあと、ゆっくりと頷いた。
「じゃあ十分だけね。今日は薬草教室です」
「やったー!」
子どもたちが一斉に歓声を上げる。狭い診療所の中に、明るい声が反響した。
◇ ◇ ◇
バーバラは乾燥棚から三種類の薬草を取り出し、机の上に丁寧に並べた。乾いた葉が擦れ合う、かすかな音がする。子どもたちはその周りに集まり、身を乗り出すようにして薬草を覗き込んだ。
「まず一つ目」
バーバラは細長い葉を手に取り、皆に見えるよう掲げた。
「これは熱を下げる薬草」
「知ってる!」
ケントが誇らしげに胸を張る。
「ルーク兄ちゃんが教えてくれた!」
その言葉に、皆の視線が一斉に俺へと向いた。褒められているわけでもないのに、なんだか少し照れくさい。俺は曖昧に笑って誤魔化すしかなかった。
「じゃあ二つ目」
バーバラは次に、丸みを帯びた葉を持ち上げた。艶やかな緑色の葉で、縁がわずかに波打っている。
「これは傷薬になる葉っぱ」
子どもたちの目が興味津々に光る。だがバーバラは、そこで少し表情を引き締めた。
「でも、そのまま貼るだけじゃ駄目」
「どうして?」
誰かが不思議そうに尋ねる。
「汚れが付いていたら、傷が悪くなることもあるから」
バーバラは葉を軽く振ってみせながら続けた。
「ちゃんと洗ってから使うのよ」
子どもたちは真剣な顔で頷いた。遊びの延長のようでいて、彼らなりに何かを吸収しようとしているのが伝わってくる。
「三つ目は?」
誰かが待ちきれない様子で尋ねた。
今度取り出されたのは、紫色の小さな花をつけた一輪だった。花びらは繊細で、触れれば崩れてしまいそうなほど儚げに見える。
「これは何だと思う?」
バーバラが問いかけると、子どもたちは我先にと答えを口にした。
「毒!」
「食べられる!」
「お茶!」
答えはばらばらで、誰一人として自信がなさそうだった。
「正解は――」
バーバラはそこで一拍おき、悪戯っぽく笑った。
「眠りを助ける薬草」
「へぇー!」
子どもたちの目が一斉に輝いた。まるで魔法の種明かしを聞いたかのような反応だ。
◇ ◇ ◇
その様子を眺めながら、俺は父の図鑑を思い出していた。丁寧に描かれた植物画、几帳面な説明書き、採取場所を記した細かな走り書き。あれは単なる記録ではなかった。
あれは、父なりの教科書だったのだ。
文字を読めない子には、実物を見せる。文字が読める者には、図鑑を見せる。相手によって、教え方を変えていたのだろう。今こうして目の前で繰り広げられる光景を見て、ようやくそのことに思い至った。
「ルーク」
不意にバーバラが俺へ微笑みかけた。
「最後の問題、出してみる?」
俺は少し考えた。子どもたちの視線が、期待を込めて俺へと集まる。
そして、熱冷ましの薬草と、それによく似た別の葉を並べて机に置いた。二枚の葉は、色も形もほとんど見分けがつかないほどよく似ている。
「おっ?」
トムが身を乗り出した。目を細めて、二枚の葉を見比べている。
だが、決定的な違いが一つだけある。葉の裏側にある産毛の有無だ。表からはわからない、その一点だけが両者を分けている。
子どもたちは首をひねった。
「同じじゃないの?」
誰かが自信なさげに呟く。
俺は首を横に振り、片方の葉をそっと裏返して見せた。日の光にかざすと、細かな白い産毛がふわりと浮かび上がる。
「あっ!」
「白い毛がある!」
誰かが弾んだ声を上げた。
正解だ。
バーバラは嬉しそうに拍手した。
「すごいわ、ルーク」
「ちゃんと『見ること』を教えられたわね」
◇ ◇ ◇
見ること。
それが薬師の第一歩なのだと、バーバラの言葉が胸に染み込んでいく。
前世では、知識を教えることばかり考えていた。正しい答えを、効率よく、漏れなく伝えること。それこそが教育だと思い込んでいた。
だが今は違う。
まず見てもらう。気づいてもらう。自分の目で違いを見つけ、驚き、納得する――そこから、知識は初めて根を張り、生まれてくるのだ。
父が忙しい診療の合間を縫ってまで、子どもたちへ薬草を教え続けた理由を、俺はようやく、自分自身の体験として理解し始めていた。




