Ep164. 祖母の忘れもの
医者は病気を診る。
だが。
患者は病気だけで苦しんでいるわけではない。
◇ ◇ ◇
数日後。朝の診療が終わろうとしていた頃、ゆっくりと扉が開いた。
「おはようございます」
白髪の老婦人だった。背中は少し曲がっている。杖をつきながら、一歩ずつ歩いてくる。
「こんにちは、ヘレンさん」
バーバラは優しく迎えた。
「今日はどうしました?」
「いやあ……」
ヘレンは困ったように笑う。
「最近ね、物忘れが増えちゃって。朝ご飯を食べたか忘れることもあるし、鍋を火にかけたまま外へ出ちゃってねぇ」
危ない。
バーバラはすぐ診察を始めた。目を見る。脈を診る。身体の動きも確かめる。
「身体は元気そうですね。でも、少し心配ですね」
ヘレンは苦笑した。
「年だから仕方ないよ」
その時、バーバラは質問を変えた。
「最近、誰かとお話していますか?」
……ん? 俺は少し意外だった。病気の質問ではない。
「息子は町へ働きに出てるし、孫も大きくなって忙しいからねぇ」
「一人でいることが増えた?」
「そうだねぇ」
バーバラは静かに頷いた。
「ヘレンさん、毎日、お散歩していますか?」
「最近はあまり……」
「じゃあ明日から、一日一回、この診療所へお茶を飲みに来ませんか?」
「え?」
ヘレンが目を丸くする。
「病気じゃないのに?」
「ええ。病気じゃないからこそです。少し歩いて、誰かと話して、お茶を飲む。それだけでも元気になりますよ」
俺は驚いた。薬を出さない。病気だから薬。その発想しか俺にはなかった。
バーバラは違う。薬が必要ないなら、薬を出さない。その代わり、人との時間を処方する。
「じゃあ……」
ヘレンが少し照れくさそうに笑う。
「明日も来てもいいかい?」
「もちろんです。お茶を用意して待っています」
ヘレンは嬉しそうに帰っていった。杖をつく足取りは、来た時より少しだけ軽く見えた。
◇ ◇ ◇
その背中を見送りながら、俺は静かに考える。
医魔術とは、薬を作る技術ではない。
人が孤独にならないように、人が笑って生きられるように。その暮らしを支える知恵なのだ。
前世では見えなかった景色が、この小さな村で、一つずつ俺の世界を書き換えていった。




