Ep157. 夕暮れの報告
医者の仕事は、薬を渡したら終わりではない。その人が元気になるまで、見届ける責任がある。それが、バーバラという人の考え方だった。
夕方になって、雨はすっかり止んでいた。厚い雲の切れ間から、赤い夕日がこぼれ落ちて、村全体をやわらかく照らしている。昼間の激しい雨が嘘だったかのように、水たまりが夕焼けの色を映して光っていた。
バーバラは再び薬箱を持ち上げた。
「約束したものね」
そう呟くと、彼女は迷いのない足取りで戸口へ向かった。
「もう一度様子を見に行きましょう」
俺も黙ってその後に続いた。今度はオリヴィアとトムも一緒だった。二人とも、昼間の往診についてきたときのことが忘れられないのか、誰に言われるでもなく支度をして待っていた。
◇ ◇ ◇
「朝より道が歩きやすい!」
トムが元気よく声を上げて、泥道の水たまりを飛び越える。長靴に泥がはねて、ズボンの裾まで茶色く染まっていた。それでも本人はまったく気にする様子もなく、むしろ得意げに胸を張っている。
「転ばないようにね」
オリヴィアがそう言いながら、くすくすと笑った。トムは「大丈夫だって!」と答えたそばから、案の定ぬかるみに足を取られてよろけた。オリヴィアがすかさず腕を掴んで支えると、二人はまた笑い合った。
バーバラはそんな二人を横目に見ながら、少しだけ口元をゆるめていた。昼間、あれほど張り詰めていた表情が、今は幾分か穏やかになっている。俺たちは並んで、泥がまだ乾ききらない道を歩いていった。夕暮れの風は湿っていたが、どこか涼しく、雨上がり特有の土の匂いが鼻をくすぐった。
◇ ◇ ◇
家へ着くと、俺たちが声をかけるより先に扉が開いた。
「バーバラさん!」
エマが転がるように駆け寄ってくる。その勢いに、バーバラが思わず一歩下がるほどだった。
朝とは違う。
朝、この扉の前で会ったときのエマは、目の下に濃い隈を作り、唇を噛みしめて、今にも泣き出しそうな顔をしていた。それが今は、頬に赤みが差し、表情がはっきりと明るい。
「お父さんが!」
エマは息を弾ませながら、両手を握りしめて言った。
「お粥を食べてくれたの!」
その一言だけで、バーバラの表情も、まるで固く結ばれていた紐がほどけるように、ふっと柔らかくなった。
「それは良かった」
声に出た安堵は、医者としての事務的なものではなく、本当に心の底から出たものだとわかった。俺はその横顔を見て、この人が何のために薬箱を持ってここまで歩いてきたのか、あらためて理解した気がした。
◇ ◇ ◇
招かれるままに部屋へ入る。
ダンはまだ寝台の上に横たわっていた。しかし、朝より明らかに顔色がいい。青白かった頬にわずかながら血の気が戻り、荒く浅かった呼吸も、今は落ち着いて規則的なものになっていた。
「こんばんは」
バーバラが静かに声を掛けると、ダンはゆっくりと瞼を持ち上げた。
「……ありがとう」
絞り出すような声だったが、朝よりはずっとはっきりしていた。言葉の一つ一つに、意志のようなものが宿っている。
バーバラは寝台のそばに膝をつき、まず手首を取って脈を診た。それから額に手を当て、熱を確かめる。指先の動きは丁寧で、迷いがなかった。
「少し下がっていますね」
彼女は独り言のようにそう言ってから、エマの方を振り返った。
「このまま無理をしなければ、大丈夫でしょう」
その言葉を聞いた瞬間、エマは思わずといった様子で自分の胸に手を当てた。張り詰めていた何かが、ようやく緩んだのだろう。目にはうっすらと涙の膜が浮かんでいた。
「薬は明日まで続けてください。水分も忘れずに」
「はい」
エマは何度も頷いた。その返事には、朝には無かった力強さがあった。
◇ ◇ ◇
ちょうどその時、外から賑やかな笑い声が聞こえてきた。
「薪、ここへ置いておくぞ!」
「パンも持ってきた!」
昼間、様子を見に来ていた青年たちだった。戸口から覗くと、荷車いっぱいに積まれた薪が見える。それだけではない。採れたばかりの野菜、焼きたてらしいパン、それに干し肉まで山のように積まれていた。
「こんなに……」
エマが目を潤ませながら、荷車の前に立ち尽くす。青年の一人が、ばつが悪そうに頭をかきながら言った。
「治ったら返せばいい」
もう一人が、それに被せるように続けた。
「いや、返さなくてもいい」
「次に誰か困ってたら、助けてやれ」
その言葉に、集まっていた皆が笑った。気負いのない、ごく自然な笑い声だった。
俺はその言葉を、静かに胸へ刻み込んだ。
恩は返すものではなく、次へ渡すもの。そういう考え方もあるのか。俺の知っている理屈とは少し違ったが、不思議と胸に染み込んでくるものがあった。
◇ ◇ ◇
帰り道、空には大きな虹が架かっていた。
「きれい……」
オリヴィアが思わず足を止める。トムも、イッキも立ち止まり、皆が誰からともなく空を見上げた。夕焼けと重なるように弧を描く虹は、色が薄れかけた空の中でひときわ鮮やかに映えていた。
バーバラが、ぽつりと呟いた。
「お父さんも、雨上がりの虹が好きだったなあ」
父。
また、父の話だ。
俺はまだ、その人のことをほとんど知らない。だが、父が愛したというこの村を、父が守ろうとした人たちを、少しずつだが確かに知り始めている。今日の出来事も、きっとその一つだ。
その積み重ねが、いつか本当の意味で、父を理解する日につながっていくのかもしれない。今はまだ、そんな気がするというだけだが。
虹は静かに、雨上がりの村をやさしく包み込んでいた。




