Ep156. つながる手
一人の医者にできることには限りがある。だからこそ、人と人は助け合うのだ。
暖炉へ火が入ると、湿っていた部屋へ少しずつ温もりが戻っていく。バーバラは鍋へ水を張ると、傍らでうつむいていた少女へ声をかけた。
「エマちゃん。お鍋、混ぜてくれる?」
少女は涙を拭きながら頷く。
「うん……」
小さな仕事を与える。ただ座って待たせるのではなく、手を動かすものを渡す。不安な時間を、少しでも減らすためだ。バーバラのそうした気配りに、俺は改めて感心しながら、父親――ダンの様子を見た。
呼吸はまだ荒い。だが先ほどより額の汗は落ち着いてきたように見えた。薬が効き始めたのか、それとも身体を温めた効果か。おそらくその両方だろう。熱に浮かされた身体は、少しずつだが確かに落ち着きを取り戻しつつあった。俺は脈を確かめ、呼吸のリズムを数えながら、心の中でひとまず安堵の息をついた。
その時だった。外から声がした。
「ダン! いるか!」
扉が勢いよく開く。入ってきたのは、村の青年が二人だった。息を切らし、雨に濡れた髪から水滴を滴らせながら、二人は土間へ駆け込んでくる。
「ロイドさんから聞いた! 倒れたって本当か!」
どうやら、少女が走っている姿を見た村人が、事情を伝えてくれたらしい。エマが助けを求めて外へ飛び出した、あの必死の姿を見た誰かが、すぐさま村中へ知らせて回ったのだろう。
「薪なら任せろ。うちに余ってる」 「食べ物も持ってくる。今日は心配するな」
矢継ぎ早に飛び出す言葉に、エマは目を丸くした。
「でも……」
戸惑う少女に、青年の一人が笑いかける。
「遠慮するな。今までダンが何回村を助けてくれたと思ってる」
そう言って、もう一人も頷く。二人の表情には気負いも恩着せがましさもなく、ただ当たり前のことをしているだけだという穏やかさがあった。
俺はその会話を、少し離れた場所から静かに聞いていた。貸し借りではない。恩返しでもない。困った時は助ける。それがこの村では、ごく自然なことなのだ。誰かが困窮すればいつか自分も、誰かに助けられる番が来る。そうした循環が、言葉にせずとも村人たちの間に染み渡っているように見えた。
バーバラも安心したように微笑む。
「ありがとうございます。私も夕方、もう一度様子を見に来ますので」
青年たちは力強く頷いた。
「それまで俺たちがいる。任せとけ」
その言葉に嘘はなく、二人はさっそく濡れた上着を脱いで薪の準備に取りかかり始めた。ダンの容体が落ち着いていることを確かめ、エマの頭を軽く撫でてから、俺たちはひとまずこの家を後にすることにした。まだ油断はできないが、当面の危機は去ったと見てよいだろう。
◇ ◇ ◇
帰り道、雨は小降りになっていた。空はまだ厚い雲に覆われていたが、先ほどまでの叩きつけるような勢いは消え、代わりに柔らかな霧雨が村道を静かに濡らしていた。俺たちは傘も差さずに、ゆっくりとした足取りで診療所への道を歩いていく。
「バーバラさん」
オリヴィアが尋ねる。
「先生って何でも一人でやるんじゃないの?」
素朴な疑問だった。普段のバーバラを見ていれば、そう思うのも無理はない。薬の調合も、患者の診察も、すべて彼女一人の手で完結しているように見えることが多いからだ。
バーバラは静かに首を横へ振った。
「一人じゃできないことの方が多いわ」
そう言ってから、少し間を置いて続けた。
「だからお願いするの。助けてもらうの」
何気ない口調だったが、その言葉は俺の胸へ深く刺さった。
前世の俺は、全部一人で背負おうとした。診療も、研究も、責任も。誰にも弱みを見せず、誰にも頼らず、ただひたすらに一人で完結させようとしていた。それが医者としての誠実さだと、どこかで思い込んでいたのかもしれない。だが実際には、それは誠実さではなく、ただの意地だったのだろう。
誰も信用できなかった。同僚も、後輩も、時には家族でさえも。手を差し伸べられても、それを素直に受け取ることができなかった。助けを求めることは弱さの証だと、頑なにそう信じていた。
だから最後には、本当に一人になった。誰にも頼らず、誰にも頼られず、静かに、そして孤独に、すべてを終えた。あの時の乾いた感覚を、俺はまだどこかで覚えている。
この村は違う。薬師がいて、村人がいて、家族がいる。誰かが倒れれば、皆が自然と手を伸ばす。見返りを求めるでもなく、恩を数えるでもなく、ただ困っている者を放っておけないという、ごくまっとうな感情が、この村の隅々にまで行き渡っている。
医術とは、一人の力では決して完成しない。どれほど優れた知識を持っていても、どれほど巧みな技術を身につけていても、それだけでは足りない。人と人をつなぐ手があってこそ、初めて誰かの命を支えられるのだ。薪をくべる者がいて、鍋を混ぜる子供がいて、駆けつける青年たちがいて、その上に初めて、一人の医者の仕事が意味を持つ。
俺は雨上がりの空を見上げながら、静かにその意味を噛みしめていた。
灰色の雲の切れ間から、わずかに淡い光が差し込み始めている。村の屋根や木々の葉先に残った雨粒が、その光を受けてかすかに輝いていた。まだ本格的な晴れ間には遠いが、確かに天候は回復へ向かっている。それはまるで、ダンの容体が少しずつ落ち着きを取り戻していく様子と重なって見えた。
「先生、私も大きくなったら先生みたいになりたい」
オリヴィアがぽつりと呟いた。バーバラはその言葉に驚いた様子も見せず、ただ穏やかに微笑んだ。
「なら、まずは人に頼ることを覚えなさい。一人で立派になろうとしなくていいの」
その言葉は、まるで俺自身へ向けられているようにも聞こえた。前世で得られなかった答えを、この村の薬師が、こんなにもあっさりと差し出してくれる。俺はそのことに、静かな驚きと、それ以上の安堵を覚えていた。
診療所が見えてくる頃には、雨はほとんど止んでいた。軒先から滴る水音だけが、あたりに静かに響いている。俺たちは濡れた外套を軒下で払い、中へ入る前に、もう一度村の方角を振り返った。
ダンの家の煙突から、細い煙が立ち上っているのが見えた。青年たちが薪をくべ、火を絶やさぬよう見守っているのだろう。その煙は雨上がりの湿った空気の中を、まっすぐに、静かに立ち昇っていく。
一人の医者にできることには、確かに限りがある。だがその限界のすぐ隣に、いつも誰かの手が差し伸べられている。この村で暮らし始めてから、俺はそのことを幾度となく思い知らされてきた。そして今日もまた、同じ実感を新たにする。
助けを求めることは、恥ではない。弱さでもない。それはむしろ、誰かと誰かをつなぐための、最初の一歩なのだ。前世では気づけなかったその単純な事実を、俺はこの雨上がりの村道で、ようやく胸に刻みつけたような気がした。
診療所の扉を開けると、中は薪の匂いと乾いた温もりに満ちていた。バーバラが炉に薪をくべ直しながら、俺とオリヴィアへ振り返る。
「今日はよくやったわね、二人とも」
その一言に、張り詰めていた緊張がようやく緩んでいくのを感じた。オリヴィアは照れくさそうに笑い、俺もまた、静かに頷いた。
夕方にはもう一度、ダンの様子を見に行かなければならない。それまでの短い時間で、薬の在庫を確認し、明日の往診の準備を整えておく必要がある。一人でできることは限られているが、それでもやるべきことは山ほどある。だが今の俺には、それを苦にする気持ちはなかった。
一人ではできないことの方が多い。だからこそ、頼り、頼られながら、少しずつ前へ進んでいく。それがこの村での、そして医者としての、俺なりのやり方になっていくのだろう。
窓の外では、雲の切れ間がさらに広がり始めていた。もうじき、久しぶりの陽射しが村全体を照らすはずだ。その光を待ちながら、俺は静かに次の仕事へと取りかかった。




