Ep155. 雨の中の診察
どれほど優れた知識があっても、患者へ届かなければ意味はない。だから医者は歩く。雨の日も、風の日も、道がどれほど荒れていようと、必要とされる場所へ向かって歩き続ける。それが医魔術師という仕事の、いちばん最初に教わることだった。
その日は、朝から激しい雨が降っていた。空は鉛色に沈み、村の外れに続く道はすっかり泥に変わっている。踏み出すたびに足が沈み、引き抜くたびに重い泥が絡みついてくる。歩きにくいどころではない。気を抜けば転びそうになるほどの悪路だった。
その泥道を、少女が先頭を走っていく。
「もう少しです!」
振り返りもせず、息を切らしながら叫ぶ。長い髪は雨に濡れて頬に張りつき、素足に履いた靴はとっくに泥まみれだ。それでも少女は止まらない。父親のもとへ、一刻も早く医者を連れて行かなければという一心で、細い体を懸命に前へ前へと運んでいる。
その少女を追いかけるバーバラは、驚くほど息を乱していなかった。背には薬箱を背負ったまま、足元の悪さなど気にも留めない様子で、一定の速度を崩さずに走り続けている。長年、こうして雨や風の中を歩き通してきた者の体運びだった。無駄がなく、それでいて急がず、必要な速さだけを保っている。
俺はといえば、そのふたりの後ろを必死についていくのが精一杯だった。体力はまだ子供のそれで、少し走っただけで息が上がる。胸が焼けるように痛み、足はもう何度も泥に取られかけていた。それでも立ち止まるわけにはいかない。ここで遅れてしまえば、バーバラの手伝いどころか、足手まといになってしまう。歯を食いしばって、俺は雨の中を走り続けた。
◇ ◇ ◇
やがて、雨に霞む視界の先に、一軒の家がぼんやりと見えてきた。古びた木造の家で、屋根の一部が黒ずみ、壁には長い年月の染みが浮いている。それでも窓には明かりが灯っていて、誰かがそこで待っているのだとわかった。
「お父さん!」
少女は転がるように扉を開け、家の中へ飛び込んでいく。俺たちもすぐそのあとに続いた。
室内は薄暗かった。窓から差し込むはずの光は雨雲に遮られ、部屋の隅々まで灰色の影が落ちている。暖炉には火の気配があったが、それも今にも消えかけているような、頼りない赤さしか残っていなかった。空気は冷え切っていて、外の雨風がそのまま入り込んでいるかのようだった。
寝台には、四十代ほどの男が横たわっていた。額には玉のような汗が浮かび、顔色は青白い。荒い呼吸を繰り返しながら、天井をぼんやりと見つめている。少女の父親だとひと目でわかった。
「失礼します」
バーバラは短く声をかけると、迷いのない足取りで寝台に近づき、すぐに診察を始めた。長年の経験に裏打ちされた、無駄のない動きだった。
「聞こえますか?」
男はゆっくりと瞼を持ち上げる。
「……ああ」
かすれた声だったが、はっきりと返事があった。意識はしっかりしている。それだけでも、まずはひとつ安心できる材料だった。
バーバラは男の額に手を当て、それから首筋にもそっと触れた。
「熱が高いですね」
「咳は出ますか?」
「少し……」
男は苦しそうに答える。
「喉は痛みますか?」
「……痛い」
その間、俺もじっと男の様子を観察していた。呼吸は確かに速いが、乱れてはいない。胸の上がり下がりも左右で差がなく、どちらかの肺だけが働いていないような様子は見られなかった。だとすれば、命に関わるような重い肺の病ではないのかもしれない。まだ断言はできないが、そう考えられるだけの材料はあった。
バーバラは男の口を開かせ、喉の奥を覗き込む。
「少し赤いですね」
そう呟くと、持ってきた薬箱から手早く薬草を取り出し、煎じ薬の準備に取りかかった。乾いた薬草を計り、鍋に入れ、手早く手順を進めていく。その一連の動作にも迷いがない。
薬の準備が進む間、俺は部屋の中をぐるりと見渡した。壁の隙間から風が吹き込んでいるのか、それとも窓が原因なのか、部屋の空気は外にいるときとさほど変わらないほど冷たい。目を向けると、窓が少しだけ開いたままになっていた。おそらく看病する中で開けたものが、そのまま閉め忘れられたのだろう。
雨の日にこれでは、身体が芯から冷えてしまう。ただでさえ熱を出している患者にとって、これはよくない。
俺は窓へ歩み寄った。背伸びをして、建てつけの悪い窓枠に手をかけ、ゆっくりと、しかし確実に閉め切る。がたつく音が一度だけして、それから部屋に静けさが戻った。
「ありがとう、ルーク」
バーバラが振り返り、微笑んでくれた。
「部屋を暖かくするだけでも違うものね」
その言葉に、少女もはっとしたような顔をして、暖炉のそばに置かれた薪を取りに走った。バーバラに教えられながら、少女は不慣れな手つきで薪をくべ、火吹き竹で息を吹き込む。最初はなかなか火が大きくならなかったが、根気強く続けるうちに、赤い炎が少しずつ勢いを取り戻していった。
パチ、パチ、と薪の爆ぜる音が響き始める。それにつれて、部屋の空気も、ほんの少しずつではあるが、確かに暖まっていくのがわかった。
◇ ◇ ◇
煎じ薬ができあがると、バーバラはそれを匙で少しずつ男に飲ませた。むせないように、ゆっくりと、時間をかけて。すべて飲み終えるころには、男の表情もいくらか和らいでいるように見えた。
「今日はゆっくり休んでください」
「熱が下がるまでは、無理に働かないこと。いいですね」
男は弱々しく笑った。
「畑が……」
「畑より命です」
バーバラは、しかし責めるような口調ではなく、あくまで優しい声でそう言った。
「畑は、あなたが元気になってからでも耕せます。でも身体は、一つしかありません」
その言葉に、男はしばらく黙り込んでいたが、やがて静かに目を閉じた。
「……分かりました」
短いが、確かな返事だった。
バーバラは男の様子をもう一度だけ確かめ、薬箱を片づけ始めた。使った道具をひとつひとつ丁寧に拭き、また明日の分を考えながら、余った薬草の量を確認していく。俺もその手伝いをしながら、部屋の暖かさが少しずつ増していくのを肌で感じていた。
帰り際、少女が扉のところで深々と頭を下げた。
「ありがとうございました」
雨の中を全力で走ってきた疲れも見せず、まっすぐにそう言う少女の姿に、俺は胸を打たれる思いだった。
バーバラはその頭を、そっと撫でた。
「今日はあなたも頑張ったね」
「一人でここまで走ってきたんでしょう?」
その言葉を聞いた瞬間、少女の目からこらえきれなかったものが溢れ出した。
「……怖かった」
「お父さんが死んじゃうかと思って……」
声を震わせながら、少女はそう吐き出す。ずっと張り詰めていたものが、ようやくほどけたのかもしれない。
「大丈夫」
バーバラは、少女の目をまっすぐに見つめて言った。
「すぐ来てくれたから、お父さんはちゃんと休めるわ」
その声には、根拠のない気休めではない、確かな重みがあった。バーバラ自身が、これまで数え切れないほどの患者を診てきた末に持つに至った、経験に裏打ちされた言葉だった。
◇ ◇ ◇
俺はその光景を、少し離れたところからじっと見つめていた。
医者が診ているのは、寝台に横たわる患者、ただ一人ではないのだと、そのとき改めて思い知らされた気がした。その家族の不安も、こらえきれずに溢れる涙も、すべてを含めて受け止め、救おうとしている。バーバラの仕事は、薬を調合し、症状を見極めることだけではなかった。目の前で震える少女の心にまで、手を差し伸べていたのだ。
家を出ると、雨はまだ止んでいなかった。俺は濡れた空を見上げながら、来た道をまた戻っていく。泥道は相変わらず歩きにくく、風は冷たく頬を打つ。それでも、行きに感じていた重苦しさとは、どこか違うものを覚えていた。
医魔術師への道は、魔法を学ぶことから始まるのではない。人の心を学ぶことから始まるのだ。俺はその夜、雨に打たれながら歩いた道のりとともに、その言葉を改めて胸の奥へ深く刻み込んだ。




