Ep154. 雨の日の訪問者
医者は患者を選べない。昼でも夜でも、晴れでも雨でも、助けを求める声があれば応える。それが俺の父の口癖だった。子供の頃はただの言葉として聞き流していたが、今になってその重みが少しずつ分かってくる気がする。
◇ ◇ ◇
朝から雨だった。屋根を叩く雨音が絶え間なく続き、畑仕事は休みになった。こういう日は村全体が静かになる。誰も外に出たがらず、家の中に籠って自分の仕事をこなす。俺たちの家も例外ではなかった。
バーバラは台所の隅で薬草を刻んでいた。包丁の音が規則正しく響く。彼女の手つきは慣れたもので、迷いがない。長年この仕事をしてきた者の動きだった。オリヴィアはテーブルの端で記録帳に向かい、文字を書く練習をしている。舌を少し出して、真剣な顔で一文字ずつなぞっていた。トムはというと、棚の薬瓶を並べ直していた。ラベルの向きを揃え、埃を払い、使いやすいように配置を考えている。誰に言われたわけでもないのに、それぞれが自分のやるべきことを見つけて動いていた。
そして俺はといえば、暖炉のそばで父の薬草図鑑を読んでいた。古い紙の匂いが染みついたその本には、父が書き加えた細かな注釈がびっしりと並んでいる。雨の日に採ってはいけない薬草の種類。湿気によって効能が落ちてしまう植物の一覧。乾燥方法の違いによって薬効がどう変わるか。読めば読むほど、その情報量に圧倒される。
細かい。本当に細かい。一つの薬草について、採取の時期、天候、乾燥の仕方、保存方法まで、あらゆる条件が事細かに書き込まれている。素人が見ればただの覚え書きにしか見えないかもしれないが、俺にはこれがどれほどの経験と観察の積み重ねの結果なのか、少しずつ理解できるようになってきていた。
父は優秀だった。いや、優秀という一言では到底足りない。この図鑑一冊だけでも、父がどれほど患者と向き合い、失敗を重ね、それでも諦めずに知識を磨き続けてきたかが伝わってくる。俺はまだその足元にも及ばない。
そんなことを考えながらページをめくっていたときだった。
コンコン。
扉が叩かれた。
こんな雨の日に、と思う間もなく、バーバラはすぐに立ち上がっていた。包丁を置き、手を布巾で拭きながら扉の方へ向かう。
「はい」
落ち着いた声で応え、扉を開ける。
◇ ◇ ◇
そこに立っていたのは、一人の少女だった。年の頃は十歳くらいだろうか。全身がずぶ濡れで、髪の毛が顔に張り付いている。着ている服からは雨水がしたたり落ち、足元にはあっという間に小さな水たまりができていた。
「お願い……します」
少女は肩で息をしていた。よほど急いで走ってきたのだろう、言葉を発するのもやっとという様子だった。
「お父さんが……倒れて……」
それだけ言うと、少女の身体がふらりと傾いた。
「危ない!」
真っ先に反応したのはオリヴィアだった。記録帳を放り出すようにして駆け寄り、倒れかけた少女の身体を支える。
抱きとめた瞬間、オリヴィアの顔が強張った。少女の身体は氷のように冷え切っていて、唇の色もどこか青白い。この雨の中をどれだけの距離、どれだけの時間をかけて走ってきたのか、想像するだけで胸が締め付けられた。
「まず中へ」
バーバラの判断は早かった。迷う様子など微塵もなく、すぐさま少女を家の中に招き入れる。
「トム、乾いた毛布を持ってきて」 「はい!」
トムは棚の整理を放り出し、寝室に駆け込んでいった。
「オリヴィア、火にかけたお湯を持ってきてくれる? それと温かいお茶も」 「うん、すぐ用意する!」
オリヴィアは少女をゆっくりと椅子に座らせると、すぐさま台所へと向かった。
二人とも、俺の弟子というわけではない。まだこの家に来てからそれほど長い時間が経っているわけでもない。それでも、こういう緊急の場面になると、誰に指示されるでもなく自然と自分の役割を理解して動く。バーバラの背中を見て育ってきた、ということなのかもしれない。
俺は暖炉に薪をくべ足しながら、少女の様子を横目で見ていた。震えは少しずつ収まってきているようだが、顔色はまだ青白いままだ。
トムが持ってきた毛布を、バーバラが少女の肩にかける。温かいお茶が用意されると、震える手にそっとカップを握らせた。
しばらくして、ようやく少女は落ち着きを取り戻したようだった。両手でカップを包み込むように持ち、ゆっくりと息を吐く。
「ごめんなさい……」
消え入りそうな声で、少女がぽつりと言った。
「急いで走ってきて……こんな濡れたまま入ってしまって……」
「謝らなくていいのよ」
バーバラは少女の隣にしゃがみ込み、優しい声で言った。その声には、責めるような色は一切なかった。ただ、心から少女を気遣う温かさだけがあった。
「お父さんはどんな様子だったの? 落ち着いて話せる?」
少女は小さく頷き、途切れ途切れに話し始めた。
「朝から……熱があって……。それでもお仕事に行くって言って……。でも、さっき急に倒れて……。呼びかけたら返事はするんだけど……。起きられなくて……」
高熱。意識はあるが、起き上がれない。急変した可能性がある。バーバラの表情がわずかに引き締まるのが分かった。俺も同時に、頭の中で父の図鑑の記述をいくつか思い出していた。高熱と意識障害を伴う症状にはいくつかの原因が考えられるが、この場で推測しても仕方がない。まずは現場を見なければ何も始まらない。
バーバラは少女の話を最後まで聞き終えると、静かに立ち上がった。それまでの優しい表情から一転、薬師としての顔になっている。刻みかけの薬草をそのままに、すでに用意してあった薬箱の蓋を閉じた。
「すぐ行きます」
迷いのない声だった。
雨具を手早く羽織り、薬箱を背負う。その一連の動作に、無駄な動きは一つもなかった。
俺も自分の雨具を手に取り、立ち上がった。
「ルークも来る?」
バーバラが振り返って尋ねてくる。俺は頷いた。
◇ ◇ ◇
今回は、前に往診した時よりも明らかに緊急性が高い。高熱、意識障害、急変。一刻を争う可能性がある以上、少しでも手が多い方がいい。
それに、この少女のことも気にかかっていた。この雨の中、一人であれだけの距離を走ってきたのだ。父親が倒れているのを見つけたときの恐怖、助けを呼びに行くと決めた瞬間の緊張、走っている間中ずっと抱えていたであろう不安。それを考えると、居ても立っても居られない気持ちになる。
「トム、オリヴィア、留守番お願い」
バーバラがそう声をかけると、二人は真剣な顔で頷いた。
「この子のこと、ちゃんと見てて」 「うん、任せて」 「お茶のおかわりも用意するね」
少女は椅子に座ったまま、心配そうな顔で俺たちを見上げていた。
「あの……」
何か言いたそうにしている少女に、俺は軽く笑いかけた。
「大丈夫。すぐお父さんのところに行くから。君はここで温まっていて」
少女はそれでも不安そうな顔をしていたが、小さく頷いた。
家を出ると、激しい雨が容赦なく頬を打った。空は鉛色に沈み、視界も悪い。足元の泥道はすっかりぬかるんでいて、歩くだけでも一苦労だ。
それでもバーバラは迷うことなく、少女が指し示した方向へと走り出した。薬箱を背負ったその背中は、いつも見慣れているはずのバーバラの姿でありながら、どこか違って見えた。
薬師というよりも。
誰かの命を守るために駆ける、本物の医者そのものだった。
俺はその背中を追いかけながら、父の図鑑に書かれていた言葉を思い出していた。医者は患者を選べない。昼でも夜でも、晴れでも雨でも。今この瞬間、その言葉の意味を、身体で理解しようとしていた。




