Ep153. 小さな失敗
失敗しない医者はいない。大切なのは、同じ失敗を繰り返さないことだ。前世の俺は、それを許さなかった。弟子にも、自分にも。だから皆、失敗を隠すようになった。それが一番危険なのだと、気づいた時にはもう遅かった。
◇ ◇ ◇
昼過ぎのことだった。トムは一人で薬棚の整理をしていた。棚の一段一段に並んだ小瓶を、ひとつひとつ確かめながら、位置を覚えようとしている。
「傷薬はここ!」
トムは声に出しながら、乾いた葉を詰めた瓶を棚の下段に戻す。
「熱冷ましは上!」
昨日教わったことを思い出しながら、一生懸命だった。まだ小さな手で、瓶を落とさないよう慎重に持ち上げては、覚えたばかりの場所へと運んでいく。額にはうっすらと汗が浮かんでいた。誰かに褒められたくてやっているわけではない。ただ、早く一人前になりたいという、その一心だけがトムを動かしていた。
俺は少し離れたところに腰を下ろし、その様子を見守っていた。手を貸そうと思えば貸せる。だが、あえて何も言わずにいた。自分で覚えたことは、自分の身になる。誰かに言われて覚えたことは、いつか忘れる。前世でそれを、嫌というほど思い知らされていたからだ。
棚の上段に手を伸ばしたその時だった。
「しまった!」
トムの手が瓶に触れ、バランスを崩す。
コトッ。
小さな薬瓶が棚から落ちた。時間にすればほんの一瞬の出来事だったが、俺の目にはやけにゆっくりと映った。瓶は宙で一回転し、床へと落ちていく。
幸い、その下に敷かれていた布の上へ落ちたため、瓶自体は割れなかった。だが、その拍子に蓋が外れ、中に詰められていた乾燥した薬草が床一面へと散らばってしまった。細かい葉が、まるで小さな雪のように飛び散り、床の上に不揃いな模様を作った。
「あ……」
トムの顔から、みるみるうちに血の気が引いていった。頬が青白くなり、唇が小さく震える。棚の前に立ち尽くしたまま、散らばった薬草を見下ろしている。
「どうしよう……」
小さな声で呟き、震える手を伸ばして拾おうとする。だが、指先が薬草に触れる直前で、その手はぴたりと止まってしまった。拾ってしまえば、なかったことにしようとしているように見えるかもしれない。かといって、このままにしておくわけにもいかない。トムの中で、迷いと恐れがせめぎ合っているのが、傍から見ていてもよくわかった。
そこへ、部屋の外からバーバラが戻ってきた。両手に薬草を入れた籠を抱え、扉を開けたところで足を止める。床に散らばった薬草と、青ざめて立ち尽くすトムの姿を、一目で見て取ったのだろう。
「どうしたの?」
声には咎める響きなど、微塵もなかった。ただ純粋に、何が起きたのかを尋ねる声だった。
トムは俯いた。肩を小さくすぼめ、消え入りそうな声で答える。
「……ごめんなさい」
「落としました」
その言葉には、隠そうとする意図など欠片もなかった。ただ、これから叱られることを覚悟しているような、諦めにも似た響きがあった。
怒られる。トムはきっと、そう思っていたのだろう。
俺も、知らず知らずのうちに息を止めていた。前世の記憶が、脳裏をよぎる。同じような場面で、俺は何度弟子を叱ってきただろうか。失敗を報告する声に、何度舌打ちで応えてきただろうか。そのたびに、弟子たちの目から少しずつ光が消えていったことを、俺は今更ながらに思い出していた。
だが、バーバラの反応は違った。
籠を近くの台に置くと、迷いのない足取りで床へ近づき、そのままトムの前にしゃがみ込む。目線をトムに合わせるようにして、まず口にしたのは、こんな言葉だった。
「怪我はしてない?」
「え?」
トムは一瞬、何を聞かれたのか理解できなかったようだった。目を丸くして、バーバラの顔を見つめ返している。
「手を見せて」
バーバラは静かにそう言うと、両手を差し出した。トムは戸惑いながらも、おずおずと自分の手をその上に乗せる。バーバラは指先から手のひらまで、丁寧に確かめるように見ていった。切り傷も、擦り傷もない。ガラスの破片で怪我をしていないか、それだけを確かめていたのだ。
「良かった」
バーバラは小さく息をつき、微笑んだ。
最初に心配したのは、薬でも棚でもない。トムだった。落とした瓶の中身がどれほど貴重なものであっても、目の前の子供の無事の方が、バーバラにとってはずっと大切なことだったのだ。
「でも薬草は……」
トムの目に、うっすらと涙が浮かぶ。せっかく採ってきてもらった薬草を無駄にしてしまった。その申し訳なさが、堪えていた気持ちを溢れさせようとしていた。
「失敗することはあるわ」
バーバラは穏やかな声で言った。責めるでもなく、慰めるでもなく、ただ当たり前のことを口にするように。
「大事なのは」
「隠さないこと」
その言葉を聞いた瞬間、俺の胸の奥が鈍く痛んだ。
前世の研究室では、誰もが失敗を隠した。小さなミスを報告すれば、詰められる。叱責される。評価が下がる。だから皆、口をつぐんだ。見なかったことにした。誰かに押し付けた。そうやって隠された小さな失敗は、時間をかけて静かに膨らみ、やがて取り返しのつかない大きな事故へと姿を変えていった。俺がそのことに気づいたのは、もう手遅れになってからだった。目の前で人が倒れ、二度と息を吹き返さなかった、あの日になってからだった。
バーバラの言葉は、あの日の俺に、今さらのように突き刺さってくる。
「ごめんなさいって言えたでしょう?」
「それなら大丈夫」
バーバラはトムの頭を軽く撫でると、床に散らばった薬草を集め始めた。指先で丁寧に一枚一枚をつまみ上げ、掌の上に集めていく。その手つきに、苛立ちや落胆といったものは一切見えなかった。
「これは床へ落ちたから、もう使えないわね」
汚れてしまった薬草を布の上にまとめながら、独り言のように呟く。
「新しく作り直しましょう」
「また採りに行けばいいものね」
その言葉を聞いて、トムの表情に少しずつ色が戻ってくる。取り返しのつかない失敗ではなかったのだと、ようやく理解できたようだった。涙目のまま、それでも何度も頷いている。
「次は落とさない!」
声を張って、トムがそう言った。先ほどまでの怯えた様子はもうなく、代わりにまっすぐな決意が浮かんでいる。
「うん」
バーバラは短く相槌を打ち、それから優しく続けた。
「その気持ちがあれば十分よ」
叱ることも、失敗を大げさに扱うこともしない。ただ、次はどうするかという前向きな気持ちだけを、静かに認めてやる。それだけで、子供の心は簡単に折れずに済むのだと、バーバラは知っているようだった。
俺は少し離れたところから、その一部始終を眺めていた。薬棚を静かに見上げる。棚に並んだ小瓶の一つ一つが、これまで幾度となく繰り返されてきた、こうしたやり取りの跡を物語っているように見えた。
失敗は責めるものではない。学ぶものだ。
そんな当たり前のことを、前世の俺は、結局最後まで理解できなかった。弟子の失敗を許さず、自分の失敗も許さず、ただひたすらに完璧を求め続けた。その結果として残ったのは、誰も本当のことを言わなくなった、静かで危険な現場だった。
だからこそ、今度は違う。
この人生では、同じ過ちを繰り返すわけにはいかない。
もし俺がいつか誰かを育てる日が来たなら。弟子を持ち、誰かに医術を教える立場になったなら。そのときは、失敗を隠さなくていい場所を作ろう。ミスを報告した者が責められるのではなく、正直に言えたことをまず認められる。そういう場所を、この手で作ろう。
そう、俺は静かに心へ刻みつけた。
バーバラの背中と、その隣で懸命に薬草を拾い集めるトムの小さな手を見つめながら、俺は前世で得られなかった答えを、今、目の前でようやく手にしたような気がしていた。




