Ep152. 掃除にも意味がある
どんな仕事にも無駄な仕事はない。そう言われても、若い頃の俺は信じなかった。研究室の掃除。器具の手入れ。薬瓶を並べる作業。全部、誰かに任せればいいと思っていた。
その日の午後、薬棚の前には三人が並んでいた。俺。オリヴィア。そしてトム。
「じゃあ始めましょう」
バーバラが布を配る。
「まずは棚の埃を取るだけ。薬瓶は落とさないようにね」
「はーい!」
トムは元気よく返事をした。……そして、いきなり布を大きく振り回す。
「違う違う!」
オリヴィアが慌てる。
ガタッ。
一つの薬瓶が揺れた。
「うわっ!」
トムが慌てて押さえる。危ない。俺は思わず息を呑んだ。前世なら怒鳴っていた。何をしている、器具を壊す気か、と。
しかし、バーバラは怒らなかった。
「トム」「薬瓶は卵と同じよ」
「卵?」
「割れたら元には戻らないでしょう?」
トムは真剣な顔で頷いた。
「だから急がなくていいの。一つずつ大事にね」
「……うん!」
今度は両手で瓶を持つ。ゆっくり、慎重に、棚を拭いていく。
俺はその様子を見ていた。叱るより、理由を教える。それだけで、人はちゃんと変われる。前世の俺にはできなかった。
「ルーク」
バーバラが俺を見る。
「こっちお願い」
小さな薬瓶を渡される。俺は布で丁寧に拭いた。ラベルも確認する。欠けはない。蓋も緩んでいない。
「さすがルーク」「細かいところまで見てるね」
褒められる。悪くない気分だ。
掃除が終わる頃には、薬棚は見違えるほど綺麗になっていた。窓から差し込む光が、瓶をきらりと照らす。
「ありがとう」
バーバラが三人を見回した。
「これで患者さんを気持ちよく迎えられるわ」
患者を迎える。その言葉で気づく。掃除は自分のためではない。次に来る患者のためだった。研究室も、診察室も、薬棚も、すべては目の前の誰かを安心させるためにある。
俺は静かに薬棚を見つめた。医術とは、魔法でも知識でもない。人を思いやる心が形になったもの。その意味を、今日もまた少しだけ理解できた気がした。




