表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
144/228

Ep144. 父の残した知恵

知識は財産だ。金は失われる。屋敷は燃える。だが、知識は人から人へ受け継がれる。

父の残した薬草図鑑。俺は夢中になって頁をめくっていた。そこに並ぶのは、綺麗な文字と、吐息さえ聞こえてきそうなほど細密な植物画。採取した季節、乾燥方法、保存期間、それらが理然と書き込まれたその冊子は、まるで一冊の洗練された研究書のようだった。

前世の俺が知る、あの最先端の医学書ほど体系的ではない。だが、そこには一人の薬師が人生という限られた時間を懸け、泥に塗れ、汗を流して集めた経験のすべてが詰まっていた。

「懐かしい……」

不意に、隣に柔らかな気配が寄り添った。バーバラが静かに腰を下ろし、俺の手元を覗き込んでくる。

「この絵ね、全部エドワードが描いたのよ」

絵まで。俺は改めて、紙面に躍る父の文字を見つめ直した。 几帳面で、淀みがない。そして何より、観察眼が恐ろしいほどに鋭い。単に植物の形を写し取っているだけではなかった。よく似た毒草との見分け方、日当たりによる葉の色の違い、土壌の湿り気による成分の変化まで、細部を執拗なまでに追い詰めた記述が並んでいる。素晴らしい、と胸の内で賛辞が溢れた。

「お父さんはね、新しい薬草を見つけるのが何よりも好きだったの。村の周りだけじゃなくて、誰も近寄らないような深い山や、魔物が出る一歩手前の森にまで入って、珍しい植物を探してたわ」

バーバラの言葉を聞きながら、俺は心の中で「研究者気質か」と呟いた。その執念と探求心は、少しだけ前世の俺に似ているかもしれない。

いや、違う。決定的な違いが、その紙面には刻まれていた。

父の記録の余白には、およそ研究書には不釣り合いな「名前」がいくつも書き添えられていたのだ。 『マーサの咳が三日で治まる』 『ガルドの父、腰痛が軽くなる』 『子供には量を半分にすること。さもなくば胃を痛める』

父が見ていたのは、植物の生態そのものだけではない。それを受け取る「患者」の顔だ。目の前で苦しむ生身の人間を見ていた。 翻って、前世の俺の研究ノートはどうだったか。そこにあったのは症例番号、年齢、魔力値、生存率。ただそれだけの、冷徹な記号の羅列だった。人を救うための学問でありながら、俺はいつの間にか「人間」を見ていなかったのではないか。そんな痛烈な自省が、父の温かい文字を通じて俺の胸を刺した。

「ルーク?」

バーバラが覗き込むようにして、悪戯っぽく笑った。

「そんなに面白いの、その図鑑」

俺は何度も、弾かれたように頷いた。本当に面白い。この世界の植物の未知なる生態、それらを組み合わせた薬の可能性、そして、エドワードという一人の不器用で偉大な薬師の足跡。俺の知らないことばかりが、この古い紙の束に凝縮されている。

「じゃあ、今日は図鑑に載ってる場所へ行ってみようか。昔、お父さんがよく薬草を採っていた秘密の場所があるの。私が案内してあげる」

俺は勢いよく顔を上げた。 父が歩いた道。父が見つけた薬草。 前世の俺であれば、他人の、それも血の繋がりがあるだけの男の足跡を辿ろうなどとは微塵も思わなかっただろう。だが、今は違う。父が何を見て、何を考え、この図鑑に何を託そうとしたのか、その答えをこの目で確かめたい。そう強く願ったのは、二度目の人生が始まって以来、これが初めてのことだった。

村の境界線を超え、うっそうと生い茂る森の小道へと足を踏み入れた時、肌を刺す空気の質が変わった。木漏れ日が湿った土を照らし、青臭い葉の香りと混ざり合った独特の匂いが鼻腔をくすぐる。バーバラは慣れた足取りで先頭を歩き、時折振り返っては、俺の歩調を気遣ってくれた。

「エドワードはね、いつもこの道を歩くとき、地面ばかり見て歩いていたのよ。だからよく木の枝に頭をぶつけてね。私が後ろから『前を見て!』って叱るのがお決まりだったの」

彼女が語る父の姿は、図鑑の几帳面な文字からは想像もつかないほど人間臭く、そして愛おしいものだった。俺はバーバラの後を追いながら、手元に抱えた図鑑と周囲の景色を何度も見比べた。

図鑑の三十四頁。そこには『月見草に酷似せる、夜半に微光を放つ低木』についての記述があった。父の細密なスケッチによれば、その葉の裏には規則正しい三本の脈があり、すり潰すことで強い消炎作用を持つ軟膏が作れるとある。

「バーバラ、このあたりに、葉の裏に特徴のある低木は生えていないか?」

俺が尋ねると、バーバラは足を止め、少し驚いたように目を丸くした。それから嬉しそうに目を細め、道の脇にある斜面を指差した。

「よく分かったわね、ルーク。まさにその斜面の岩陰よ。エドワードが『あそこには夜の女神の落とし物が咲く』って言っていた場所」

斜面を少し登り、湿った岩の隙間を覗き込むと、そこに目的の植物がひっそりと群生していた。 俺は膝をつき、泥で汚れるのも構わずにその葉の一枚をそっと裏返した。細い指先に触れる、確かな感触。掠れた緑の肌の裏に、父のスケッチと寸分違わぬ三本の脈が綺麗に走っている。

「本当に……あるんだ」

知識が、ただの文字から現実へと変貌を遂げた瞬間だった。前世でどれほど高度な魔力理論を構築したときよりも、指先に伝わるこの一枚の葉の冷たさと生命力の方が、遥かに俺の心を揺さぶった。

俺は胸ポケットから小さなナイフを取り出し、父の図鑑に書かれていた通りに、根を傷つけないよう慎重に数株だけを採取した。株を残しておけば、来年もまたここに同じ薬草が芽吹く。それもまた、父が図鑑の端に書き残していた「山を枯らさないための鉄則」だった。

「ルーク、本当に手つきが手慣れているわね。まるでお父さんがそこにいるみたい」

バーバラの言葉に、俺は少し照れくささを感じながらも、採取した薬草を麻袋に収めた。 前世の俺は、研究室に籠もって他人が集めてきた素材を分析する側だった。自分で山に入り、土に触れ、植物の息吹を感じながら素材を採取する行為そのものが新鮮だった。そして何より、この場所にはかつて、確かに父が立っていたのだ。

「次はどこへ行くの?」と問いかけるバーバラに、俺は図鑑の次の頁を開いて見せた。そこには、さらに深い森の奥、霧が溜まる渓谷の近くにのみ自生するという、希少な解毒草の絵が描かれていた。

森の奥へと進むにつれ、周囲の静寂は深まり、木々の隙間から差し込む光も細くなっていった。空気はひんやりと冷たく、足元の苔が絨毯のように厚みを増していく。

「ここから先は、少し注意してね。魔物が出るほど深くないけれど、足元が滑りやすいから」

バーバラが注意を促したその時、俺の耳に微かな水音が届いた。図鑑にある「霧の溜まる渓谷」が近い。

俺たちは傾斜を下り、湿った岩場を下りていった。すると目の前が開け、小さな滝壺から立ち上る白い霧が、周囲の木々を幻想的に包み込んでいる光景が広がった。その滝壺の縁、常に水飛沫を浴びる岩肌に、探していた解毒草――『青髭草』が青々とした葉を広げていた。

「これだ……」

前世の知識に照らし合わせても、この植物が持つ成分の構成は極めて興味深いものだった。アルカロイド系の毒を中和する特殊な分子構造を連想させる、独特の強い香気がある。父は魔法的な鑑定眼を持っていなかったはずなのに、ただ実体験と観察だけで、この植物が特定の熱病(おそらく魔物の毒によるものだ)に効くことを見抜いていた。

俺が再び採取を始めようとした時、バーバラが滝の向こう側の崖をじっと見つめていることに気づいた。その表情は、いつもの穏やかなものではなく、どこか遠い過去を悼むような、切ない色を帯びていた。

「バーバラ? どうしたんだ」

彼女はハッと我に返ると、寂しげに微笑んだ。

「ううん、何でもないの。ただね……ここでエドワードが怪我をしたことがあったのを思い出して」

「父さんが?」

「ええ。ある年の冬、村で流行り病があってね。どうしてもその青髭草が必要になったの。でも、冬のこの場所は岩が凍りついていて、とても危険だった。私が止めたのに、あの人は『待っている人がいる』って言って、一人でここへ来ちゃったの」

バーバラは一歩、滝壺へと近づき、凍りつくような水の流れを見つめた。

「案の定、あの人は足を滑らせて崖から落ちて、大怪我を負ったわ。幸い、通りかかった猟師に助けられて命は取り留めたけれど……その時もね、腕にしっかりと、この青髭草を抱きしめていたのよ。自分の体よりも、薬草を這ってでも村へ持ち帰ることばかり考えていたのね」

俺は言葉を失った。 図鑑に書かれた、あの整った文字の背景にあるもの。それは優雅な研究などではなく、文字通り命を削り、崖から転落し、それでも他者のために這い上がるような、泥臭い執念の連続だったのだ。

『子供には量を半分にすること』

あの記述が、単なる実験結果ではないことを知る。実際に苦しむ子供を目の前にし、夜通し看病し、容赦なく襲いかかる病魔の恐怖と戦いながら、必死の思いで見つけ出した「命の境界線」だったのだ。

前世の俺は、冷たい安全な研究室の中で、数字の増減だけに一喜一憂していた。患者が死ねば「データのサンプルが一つ失われた」と処理し、次の実験へと目を向けた。それが医療の発展のためだと信じて疑わなかった。だが、それはただの傲慢だったのではないか。

エドワードは魔法も使えず、高度な医療設備も持たなかった。それでも彼は、前世の俺が持っていなかった最も大切なもの――「目の前の命を絶対に救う」という、冷めることのない情熱を持っていた。

「俺は……」

声が震えた。自分の小ささが、そして父の背中の大きさが、津波のように押し寄せてくる。 俺の手にあるこの図鑑は、ただの知識の集積ではない。エドワードという男の、魂の記録だ。

「ルーク、どうしたの? 顔色が悪いわ。寒かったかしら」

心配そうに顔を覗き込んでくるバーバラに、俺は首を振った。そして、深く息を吸い込み、しっかりと自分の足で地面を踏みしめた。

「ううん、大丈夫だ。ただ、父さんの凄さが、少しだけ分かった気がして」

「そう……。エドワードが聞いたら、きっと照れくさそうに笑うわね」

バーバラは嬉しそうに微笑み、俺の頭を優しく撫でた。その手の温もりが、父の遺したこの森の空気と溶け合っていくようだった。

採取を終え、袋いっぱいに薬草を詰め込んだ俺たちは、傾き始めた太陽の光を浴びながら帰り道を歩いていた。往路とは違い、俺の心には明確な変化が生じていた。

ただ知識を貪るだけの子供ではない。この知識を使って、自分に何ができるか。前世の高度な医学知識と、父が遺してくれたこの世界の生きた経験。この2つが合わさった時、俺にしか作れない薬、俺にしか救えない命があるはずだ。

「バーバラ」

「なあに、ルーク」

「家に帰ったら、さっそくこの薬草を使って、図鑑にある軟膏を作ってみていいか?」

バーバラは驚いたように、それから今日一番の満面の笑みを浮かべて頷いた。

「ええ、もちろんよ! お父さんの道具は全部、いつでも使えるように手入れしてあるわ。ルークがそれを使ってくれるなら、エドワードもきっと喜ぶわ」

村の灯りが見えてくる頃、俺は懐の図鑑をそっと撫でた。 知識は財産だ。そして、その財産をどう使うかは、受け継いだ者の生き方に委ねられている。

前世の俺は、知識を己の証明のために使った。 だが、二度目の人生では、この知識を誰かの温もりを守るために使いたい。

夕暮れの赤い光が、俺たちの歩く影を長く地面に引き伸ばしていく。その影は、かつてこの道を歩いた父の姿と、確かに重なっているように見えた。俺はもう迷わない。父の遺した道を、俺自身の足で、さらに遠くまで歩いていくのだと、深く心に誓った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ